50.承久の乱
○承久の乱
 すなわち、仏教に対しての直接的な疑問は、日蓮聖人がお生まれになる前年の承久の乱というできごとでした。承久の乱は承久三年(1221年)五月に、後鳥羽上皇たちが二代執権の北条義時を朝敵と宣言して倒幕しようとしましたが、逆に義時の姉の尼将軍政子は御家人を団結し、義時の子で三代執権になる泰時を大将とした幕府軍が京都の後鳥羽上皇の軍を打ち破りました。

 これより先に、三代将軍の源実朝と公暁(源頼家の子)の暗殺(1219年)により、源氏は滅亡し、かわりに幕府を掌握したのは外戚の北条氏でした。北条義時は実朝とは朝廷にたいしての政治理念が違っており、実朝が暗殺されたあとは、朝廷との協調をせず尼将軍とともに鎌倉幕府を中心に政治を主導していました。後鳥羽上皇も実朝の暗殺を幕府の混乱期とみて西面の武士をあつめて武力を強化して、承久の乱へと展開していきました。

しかし、後鳥羽上皇の敗退により、幕府は仲恭天皇を後堀川天皇にかえ、三上皇の後鳥羽上皇(八十二代1180〜1239)は隠岐、順徳天皇(後鳥羽上皇の第三皇子、84代(1197〜1242)は佐渡、土御門天皇(後鳥羽上皇の第一皇子八十三代1196〜1231)は関与していなかったので無罪だったのですが、みずから土佐へ赴きました。後鳥羽上皇に系譜する貴族や武士も多くが死罪になり臣下も処罰され、荘園を没収してあらたに地頭を任命して六波羅探題を設けて朝廷の監視をおこないました。さらに、4歳の仲恭天皇も退けられて、後堀川天皇が皇位につきました。この結果、政権が朝廷(公家政権)から北条氏の鎌倉幕府(武家政権)に完全にうつることになったのです。そして、承久の乱の勝利で幕府は朝廷側の所領約三千箇所を没収し、西日本の没収領へ移住した新補地頭が台頭してきたのでした。

『神国王御書』に、承久の乱より前の壇ノ浦の戦い(1185年)で、安徳天皇(母は平清盛の娘、建礼門院)が臣下の源氏に負け、祖母の平時子とともに入水して8歳で崩御したことについてふれています。

「人王八十一代をば安徳天皇と申。父は高倉院の長子、母は大政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年[乙巳]三月二十四日八嶋にして海中に崩給き。此の王は源頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給」(881頁)

と、のべ、つづいて承久の乱には三上皇が北条義時のために流罪に会ったのはなぜなのかということを問われています。

「人王八十二代は隠岐法皇と申。高倉の第三王子。文治元年丙午御即位。八十三代には阿波院。隠岐法皇長子。建仁二年に位に継給。八十四代には佐渡院。隠岐法皇第二王子。承久三年[辛巳]二月二十六日に王位につき給。同き七月に佐渡のしまへうつされ給。此の二三四の三王は父子也。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へる也。此に日蓮大に疑云、仏と申は三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日・月・四天・転輪聖王・諸王の師也、主也、親也。三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給て、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給。須臾も相背かば、梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり(冠)落給べし。神と申は又国々の国主等の崩去し給るを生身のごとくあがめ給う。此又国王国人のための父母也、主君也、師匠也。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給べし。しかるに我日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超たる国ぞかし。其故は月氏の仏法は西域記等に載られて候但七十余ヶ国也。其余は皆外道の国也。漢土の寺は十万八千四十所なり。我朝の山寺は十七万一千三十七所。此の国は月氏漢土に対すれば、日本国に伊豆の大嶋を対せるがごとし。寺をかずうれば漢土月氏にも雲泥すぎたり。かれは又大乗の国・小乗の国、大乗も権大乗の国也。此は寺ごとに八宗十宗をならい、家々宅々に大乗を読誦す。彼の月氏漢土等は仏法を用る人は千人に一人也。此日本国は外道一人もなし。其上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千余社。昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。其上天照太神は内侍所と申明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給と申。仏の加護と申、神の守護と申、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、或は殺れ、或は嶋に放、或は鬼となり、或は大地獄に墮給しぞ」

 ここに述べているように、日蓮聖人の疑問のなかには、天皇という身分の高い積徳の人が流罪になることの不信がありました。高徳の者でなければ天皇としてうまれることができないと信じたことの疑問でした。日蓮聖人は、崇拝している天皇がなぜこのような無残なことになったのか、天皇として生まれるには、大きな功徳を積んでいるはずなのにという疑問をもちました。『高橋入道殿御返事』(1089頁)に、

「隠岐法皇は人王八十二代、神武よりは二千余年、天照太神入かわらせ給て人王とならせ給。いかなる者かてき(敵)すべき(中略)。天子いくさにまけさせ給て、隠岐国へつかはされさせ給。日本国の王となる人は天照太神の御魂の入かわらせ給王也。先生の十善戒の力といひ、いかでか国中の万民の中にはかたぶくべき」

また、『神国王御書』(883頁)に、

「其上八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入給て云、我国家開闢以来以臣為君未有事也。天之日嗣必立皇緒等[云云]。又太神付行教云、我有百王守護誓等[云云]。されば神武天皇より已来百王にいたるまではいかなる事有とも玉体はつゝがあるべからず。王位を傾る者も有べからず。一生補処の菩薩は中夭なし。聖人は横死せずと申。いかにとして彼々の四王は王位ををいをとされ、国をうばわるるのみならず、命を海にすて、身を嶋々に入給けるやらむ。天照太神は玉体に入かわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓はいかにとなりぬるぞ」

と、天皇がどうして負けたのか。仏の加護はどうしたのか。仏教による護国の力はどうしたのかという、純真な疑念が日蓮聖人にはあったのです。日蓮聖人のこのような天皇についての認識は国家観にもあらわれますが、天皇は神であるという見方をしていたと思われます。

 そして、三上皇は北条義時を討つために関白基通の沙汰として比叡山・御室・三井寺などの座主や長史などに調伏の戦勝祈祷(十五壇法)をさせました。日蓮聖人はこの十五壇法と秘法を行なった41人の行者の名前を書き連ねています。すなわち、

「秘法四十一人行者。承久三年辛巳四月十九日京夷乱時、為関東調伏依隠岐法皇宣旨被始行御修法十五壇之秘法   一字金輪法[天台座主慈円僧正。伴僧十二口。関白殿基通御沙汰]   四天王法[成興寺宮僧正。伴僧八口。於広瀬殿修明門院御沙汰]   不動明王法[成宝僧正。伴僧八口。花山院禅門御沙汰]   大威徳法[観厳僧正。伴僧八口。七条院御沙汰]   転輪聖王法[成賢僧正。伴僧八口。同院御沙汰]   十壇大威徳法[伴僧六口。覚朝僧正。俊性法印。永信法印。豪円法印。猷円僧都。慈賢僧正。賢乗僧都。仙尊僧都。行遍僧都。実覚法眼。已上十人大旨於本坊修之]   如意輪法[妙高院僧正。伴僧八口。宜秋門院御沙汰]   毘沙門法[常住院僧正。三井。伴僧六口。資賃御沙汰]   御本尊一日被造之。調伏行儀  如法愛染王法[仁和寺御室行法。五月三日始之於紫宸殿二七日被修之]  仏眼法[大政僧正。三七日修之]  六字法[快雅僧都]  愛染王法[観厳僧正。七日修之]  不動法[勧修寺僧正。伴僧八口。皆僧綱]  大威徳法[安芸僧正]  金剛童子法[同人]   已上十五壇法了」(『祈祷鈔』681頁)

日蓮聖人がここに挙げたように、天台座主の慈円、仁和寺御室の道助法親王、園城寺、東寺、南都七大寺は、四月から五月にかけて真言秘法を行いました。また、天照大神や八幡大菩薩・山王などにも祈願をかけて義時征伐を祈ったのでした。このことについて『真言見聞』(649頁)には、

「承久兵乱之時関東には其用意もなし。国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰て十五壇之秘法を行はる。其中に守護経の法を紫宸殿にして御室始て被行。七日に満せし日、京方負畢ぬ。亡国之現証に非ず乎」

また、『神国王御書』(883頁)には、さきの安徳天皇も並べて敗戦の原因を追究します。

「安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門捧怠状云 如彼以興福寺為藤氏氏寺 以春日社為藤氏氏神 以延暦寺号平氏氏寺 以日吉社号平氏氏神[云云]。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆五壇の大法を行、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし。又承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺御室・三井等の高僧等を相催し、日本国にわたれる所の大法秘法残なく行なわれ給。所謂承久三年[辛巳]四月十九日に十五壇之法を行る。天台座主は一字金輪法等。五月二日は仁和寺の御室、如法愛染明王法紫宸殿にて行給。又六月八日御室、守護経法を行給。已上四十一人の高僧十五壇の大法。此法を行事は日本に第二度なり。権大夫殿は此事知給事なければ御調伏も行給はず」

と、のべているように、諸大寺各宗の高僧といわれる者が修法をしても効験がないという仏教・僧侶への懐疑がおきました。しかも真言宗の秘法をもって祈ったにもかかわらずに、その効験をあらわすべきなのに、なぜ三上皇は悲惨な流罪になったのかという疑問がありました。

元暦元年(1184年)三月二十四日の源平合戦のときも、天台座主の明雲は天台・真言の御修法(みすほ)を行い安徳天皇の勝利を祈願しました。しかし、源氏を調伏できず源義仲によって首を斬られました。日蓮聖人はこの源平合戦に安徳天皇が敗戦した理由に、もう一つ大きな仏教的な解釈をしました。すなわち、

「例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に、平氏の大将安芸守清盛と申せし人をはしき。度々の合戦に国敵をほろぼして上太政大臣まで臣位をきわめ、当今はまご(孫)となり、一門は雲閣月卿につらなり、日本六十六国島二を掌の内にかいにぎりて候しが、人を順こと大風の草木をなびかしたるやうにて候しほどに、心をごり身あがり、結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手ににぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去治承四年十二月二十二日に七寺の内東大寺・興福寺の両寺を焼はらいてありしかば、其大重罪入道の身にかゝりて、かへるとし養和元年潤二月四日、身はすみ(炭)のごとく血は火のごとく、すみのをこれるがやうにて、結句は炎身より出てあつちじに(熱死)に死ににき。其大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば、西海に沈とみへしかども東天に浮出でて、右大将頼朝の御前に縄をつけてひきすへて候き。三男知盛は海に入て魚の糞となりぬ。四男重衡は其身に縄をつけて京かまくらを引かへし、結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等、我等が仏のかたきなりとて一刀づつきざみぬ。悪の中の大悪は我が身に其苦をうくるのみならず、子と孫と末へ七代までもかゝり候けるなり」(『盂蘭盆御書』59歳・真蹟・1774頁)

この源平の合戦と、そして承久の乱の結末は、国王と仏教の価値観をかえてしまうできごとでした。

日蓮聖人にとりましては、それらの仏教宗派は誤りがあるのではないかという疑問であったのです。それまでは、すべての仏教にたいして尊重していたことが、真実はどの経法なのか、そして、正法は一つでなくてはならないという考えに転換されていったと思われます。日蓮聖人が尊崇する天皇の敗退は、天皇を勝利に導かなかった仏教への批判へと展開したのです。

八幡神信仰をしていた源氏が勝利し、祈祷仏教の頂点に立つ真言宗を頼りにした天皇が負けたことは、幼少の日蓮聖人にとって仏教への疑問となったのです。すなわち、『神国王御書』(835頁)に、 

「日蓮此事を疑しゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗一切経を、或は人にならい、或は我と開見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開見奉候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付て国もほろび、人の寿も短かるべしとみへて候。譬へば水は能く舟をたすけ、水は能く舟をやぶる。五穀は人をやしない、人を損ず。小波小風は大船を損ずる事かたし。大波大風には小舟やぶれやすし。王法の曲は小波小風のごとし。大国と大人をば失がたし。仏法の失あるは大風大波の小舟をやぶるがごとし。国のやぶるゝ事疑なし」

と述べているように仏教全般を自ら学問し、高名な学匠からも見聞したといいます。日蓮聖人は国家の盛衰は仏教を学ぶ者の過失にあるという捉え方をしていました。

さらに、『撰時抄』(1045頁)に、

「承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが、調伏せられ給し権の大夫殿はかたせ給、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子天子は佐渡嶋々へ調伏しやりまいらせ候ぬ。結句は野干のなき(鳴)の己が身にをうなるやうに、還著於本人の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ」

と三上皇が真言師に義時調伏を祈らせたことが、かえって「還著於本人」という仏教による「失」を受けることになったとして、真言宗などが邪法の宗であることを確信したのです。

れはいかにとしてまけ給けるぞ。国王の身として、民の如なる義時を打給はんは鷹の雉をとり、猫の鼠を食にてこそあるべけれ。これは猫のねずみにくらはれ、鷹の雉にとられたるやうなり。しかのみならず調伏力を尽せり。所謂天台座主慈円僧正・真言長者・仁和寺御室・園城寺長吏・総七大寺十五大寺、智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師心中深密大法・十五檀の秘法也。五月十九日より六月の十四日にいたるまで、あせ(汗)をながし、なづき(頭脳)をくだきて行き。最後には御室、紫宸殿にして日本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法、六月八日始て行之程に、同十四日に関東の兵軍宇治勢多をおしわたして、洛陽に打入て三院生取奉て、九重に火を放て一時に焼失す。三院をば三国流罪し奉ぬ。又公卿七人は忽に頚をきる。しかのみならず御室の御所に押入て、最愛弟子の小児勢多伽と申せしをせめいだして、終に頚をきりにき。御室不堪思死給畢ぬ。母も死。童も死。すべて此いのりをたのみし人、いく千万といふ事をしらず死にき。たまたまいき(生)たるもかひなし。御室祈を始給し六月八日より同十四日まで、なかをかぞふれば七日に満じける日也。此十五檀の法と申は一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星王・太元・守護経等の大法也。此法の詮は国敵王敵となる者を降伏して、命を召取て其魂を密厳浄土へつかはすと云法也。其行者の人々又不軽、天台座主慈円・東寺・御室・三井常住院僧正等の四十一人並伴僧等三百余人也云云。法と云ひ、行者と云ひ、又代も上代也。いかにとしてまけ給けるぞ。たとひかつ(勝)事こそなくとも、即時にまけおはりてかゝるはぢにあひたりける事、いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず。国主として民を討事、鷹の鳥をとらんがごとし。たとひまけ給とも、一年二年十年二十年もさゝうべきぞかし。五月十五日におこりて六月十四日まけ給ぬ。わづかに三十余日也。権大夫殿は此事兼てしらねば祈祷もなし。かまへ(構)もなし。然而日蓮小智を以て勘たるに其故あり。所謂彼真言邪法の故也」『本尊問答鈔』(1583頁)

承久の乱の三上皇の問題は、日蓮聖人を国家社会と仏教に感心をいだく少年に成長させ、大きな人生の将来を決めることになったのです。日蓮聖人が問題とした承久の乱は、同じ時代を生きた親鸞や道元の著述にはみられませんが、日蓮聖人は仏教が敗退したとはいえ仏教をもとにした平和な国家を求めたのです。正しい仏教を信仰するならば国家もおのずから安定し、国土も安穏になるというのが日蓮聖人の考えで、のちの立正安国の思想に発展したのです。正法を追求するためには教理的な勝劣論を踏まえなければならないことでした。四箇格言はその正法を追求する過程にだされた結論でした。

鎌倉・京の人々は王法として絶対視された天皇の威信が失墜したことについて、「主上が謀反を起こした」「善に背き、おごりふけったため罪に処せられた」と語ったといいます。それは、天皇・上皇という地位が尊いのではなく、善政を行なうことが国王として望まれることで、その覇者を尊び服従するという世情に変わっていったといいます。

 以上から理解できることは、日蓮聖人は成仏をめぐる死後の世界と、承久の乱にみられた現世における仏教の力に対しての疑問をもっていたということです。それは、仏教の宗派が林立するなかで釈尊の真意とする教えはどの宗派なのかという課題であり、それを解決すべく清澄山の生活に入られたのでした。