39.日蓮聖人の誕生(2) 系譜について

日蓮聖人は片海の漁師の子供と自ら語っていますが、父母の出自についてはそれ以上のことを語っていません。考察するうえでおよそ賤民説・皇胤説・武家説の三つがあります。

○選民説

賎民説は前述した「旃陀羅」としての両親であり、その子供としての日蓮聖人という素性で、それ以上のことは御遺文にはのべていません。すなわち、『佐渡御勘気鈔』に、

「日蓮は日本国東夷東条安房の国の海辺の旃陀羅が子也」(511頁)

と、のべているところを根拠としています。旃陀羅とは慈覚大師円仁の『法華玄讃』に屠者と翻訳している殺生業者の総称をいいます。『雑心論』に12、『涅槃経』に16、『対法論』に14の旃陀羅の例を挙げています。主に屠羊・屠犬・屠牛・屠魚・屠鳥・伺猟・猟師・猟鹿などを指します。つまり、日蓮聖人の父親は旃陀羅(男、女性は旃陀利)であり、狩猟や漁猟などの殺生を仕事として生活している者の子供であるとのべています。そのほか生家の状況については、日蓮聖人自身がのべていないので詳しいことはわかっていません。

○皇胤説

皇胤説については『聖人系図御書』が根本史料となります。ここに、

「自神武四十五代聖武天皇 河内守通行末葉 遠江貫名五郎重実と云までは十一代也。重実其子三人有之。嫡子貫名仲太 次男仲三 同三男仲四是也。依所領相論度度上奏致と云ども、依無其下知合戦いたし、一族を亡事多之。然間配所安房国東條片海と云所へ被流畢。次男仲三其子日蓮是也」(2045頁)

と、のべていることをもとに聖武天皇・河内守通行・貫名重実とつづきます。しかし、この『聖人系図御書』は偽書とされています(『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟511頁)。

また、中山の本成房日実上人が寛正2年(1461)に『当家宗旨名目』上巻に、聖武天皇の裔が三国姓を賜り河内守通行と名乗って遠州に住み、貫名重実のときに所領の争論があり合戦となって一族は滅亡したが、重実の次男の仲三は安房片海に配せられ、日蓮聖人はこの仲三の子供であるとしています。これにより三国遠江貫名仲三と系図があるとしています。

これは『聖人系図御書』によったことがわかります。

また、父は「遠江国」とした根拠を日蓮聖人が『中興入道消息』のなかに、

「然に日蓮は中国都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候しかば」(1714頁)

と、このなかに「遠国の者」と書かれたことによるもので、「遠国」を「遠江国」と解釈したことによるともいいます。ちなみに日興上人の父は大井庄の武士で、もとは遠江に住んでいたといいます。

また、日興上人が書いたという『産湯相承事』(日蓮聖人の滅後、100年ころの室町中期に成立したという)には、日蓮聖人の父親は「東条片海の三国大夫」で母親は畠山一類の「梅菊」と書かれているところから、これをもとに「三国氏は継体天皇の後裔で梅菊は後鳥羽上皇の愛妾白伯子亀菊」であるとします。ここから、日蓮聖人の父親は後鳥羽上皇で母親は上皇の愛妾亀菊であるとしたのです。家系の名前を具体的に示したのは本書が最初といいます。

このように、聖武天皇に系図を掲げた説や、後鳥羽上皇の子という後鳥羽落胤説と、あるいは、土御門生父説・薬王丸捨て子説等がありますが、後鳥羽落胤説は、『日蓮教団全史』(25頁)に否定されており実証されていません。また、生母が白伯子亀姫で貫名重忠と小湊にのがれ、のちに梅菊と名前を変えたという説や新尼説も実証されていません。前書には日蓮聖人の母を梅菊とするのは後世の粉飾の伝説としています。

また、『日蓮聖人註画讃』に日蓮聖人は聖武天皇の末裔で姓は三国氏とあり、遠州貫名重実の次子の重忠が父親で第4子と書かれています。この三国大夫が三国の姓を示しているとして、三国の太夫が御国(御庄)の権頭をさすと解釈しました。しかし、三国氏の祖先は聖武天皇ではなく継体天王であるので『聖人系図御書』は偽書とされる理由ともなっています(『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟507頁)。また、安房の東北御庄の権頭から想起する氏名は大中臣・度会・会賀・多気・飯野・清原氏といい、日蓮聖人と結ぶ資料はないといいます(『鎌倉と日蓮』大川善男136頁)。

 補足ですが、弟子檀越に天皇近在社が多いと石川修道先生は指摘しています。女性檀越に御前・妙一尼御前・乙御前・治部房うば御前など、天皇との関連が考えられるとしています。この仮説をまとめたものが、『日蓮誕生論』(前掲書311頁)です。 

○武家説

 武家説については『法華本門宗要鈔』によりますと、

「然出生処安房国長狹郡東條小湊浦釣人権頭之子也。日本人王八十五代後堀河院御宇貞応元年壬午二月十六日午尅生」(安房国の長狭郡東条小湊の浦の釣人権頭(ごんのかみ)の子)(2158頁)

と、姓氏や系譜についての明確なことは記述されていませんが、「釣人権頭之子」の解釈が今日の課題となっています。『法華本門宗要鈔』は、日蓮聖人の仮託とされ、日蓮聖人が亡くなって五十年ころの作といわれていますが、日蓮聖人の直弟子や檀越の伝承を書きとめたものであるとされています。

また、『長禄寛正記』によりますと、長禄4年(1460年・聖滅179年)8月18日に日実上人と同年代の久遠成院日親上人が細川勝元に、日蓮聖人は藤原冬嗣の後裔備中守共資が遠州村櫛に住み、その後、5代の裔赤佐太郎盛直の一男が井伊良直、二男が赤佐俊直、その弟が貫名政直で、政直の孫の重実(真)、重実の子重忠のときに伊勢平氏に与力して安房片海の市河に配流され、その配流先で生まれた子が日蓮聖人であると言上したといいます(『日蓮教団全史』24頁、『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟504頁)。

また、本成房日実上人は『当家宗旨名目』(寛正2年1461年)に日蓮聖人の系譜は聖武天皇にあり、その子孫が孝謙天皇のときに他国の敵軍の討伐を命じられ、そのおりに三国という姓を給わり河内守通行と名乗ったとあります。敵を退散したその勧賞のひとつに遠江国を子孫にまでたまわり、河内守通行から11代の末葉が貫名重実で重実の3人の子供が所領争いをおこし、一族は滅んだが次男の仲三が安房の片海に流され、日蓮聖人はこの仲三の子供としています。そして、この根拠は「三国遠江貫名仲三継図有之也。此事系図御書見」と『聖人系図御書』にあるとしていることがわかります。

日朝上人の『元祖化導記』(文明10年1478)には、父の先祖は遠州(愛知県)の出自で、父の名を貫名五郎重実の次子重忠と記し、源平の乱に安房に流罪されたと書かれ、日蓮聖人は第四子とあります。日澄上人(1440〜1510)の『日蓮聖人註画讃』には、姓は三国氏で父貫名重忠は平氏に加担したため小湊の浦に追われ漁師になったと書かれ、母は清原氏とあります。これは明らかに『産湯相承事』や『当家宗旨名目』を採用したことがわかります。ほかに、『本化別頭高祖伝』や『本化高祖年譜』は、父を藤原氏(藤原鎌足の子孫)とし、小湊にきてから清原氏の妻を娶ったとされています。

日潮上人の『本化別頭仏祖統記』は、これまでの伝承と、師日省上人(1636〜1721)の『本化別頭高祖伝』をもとにして著述されたといいます。両親のことをみますと、概ね前記とおなじですが、父の祖先は藤原氏・三国氏・井伊氏と系譜し、政直のときに遠州の貫名郷に移り貫名氏を名のったとあります(『続群書類従』に依拠した)。政直のあとを行直・重實とつづき次の重忠が日蓮聖人の父親としました。重忠は建仁3年(1203年)に伊勢平氏にかかわり、小湊に流罪されたと記しています。静岡県の袋井市には貫名公の館とされる跡に貫名山妙日寺が建てられています。重忠が流罪された理由については諸説があり、伊勢平氏に加担した疑いで安房に流された、北条時政に憎まれたため、阿野全成に加担した疑い、あるいは親族と所領争いがあったためなどの説があります。いずれにしても安房小湊の領家のもとに生活を営んでいたことは確かなことです。

 さて、『法華本門宗要鈔』の「釣人権頭」の記載について、「釣人権守の子」は「漁夫を営む権守の系脈をうけるものの子」と理解されました(『日蓮教団全史』22頁)。また、父親は鎌倉時代によくみられる「権頭」(ごんのかみ)という諸公事を負担する有力漁民であり、漁師を統括する武士的側面をもった在地庄司、荘官もしくは浦刀禰(うらとね)、名主層の家系であると考えられました。しかし、御遺文にいう「権頭」という職制はないとし、中古公卿が罪をつくり左遷された者を「権守」といったが空名で実務はなく、「権守」は守護級の空名で地頭級の空名ではないといいます。『法華本門宗要鈔』の作者が「権頭」と「権守」

とその訓が通じることから不用意に用いたという説がああります(『日蓮聖人教学の研究』浅井要麟509頁)。

また、権頭(権守)は漁村においては浦持ちの大網漁を指揮する浦刀禰のことで官職名ではないといいます(『鎌倉と日蓮』大川善男124頁)。これに付随して守護や荘園の文筆官僚の系譜であると推察し、没落した地方豪族の子孫であり流人であるとも考えられました。

高木先生は『日蓮―その行動と思想』に、「漁師定説・武士伝承に疑問視(漁師や武士の子供ではない)して、網元や荘官クラスと推定し、宮崎先生は『日蓮とその弟子』(56頁)に『日蓮教団全史』と同じく「権守」と見解をのべているように、領家の世話になり漁師を生活の糧としてはいても、それ以前は相応の身分をもっていたと指摘しています。藤井学先生は「海人とよばれる海縁村落に多くみられる鎌倉期特有の権守層=諸公事を負担する有力農民―一般農村の中小名主層に比定しうる階層―にあった」(藤井学『中世仏教の展開その三)としています。

中尾先生は「在地性をもたず、他郷からの移住者であったことは間違いない事実であろう」(19頁)とし、また、中山法華経寺に伝わる「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」という日蓮聖人が反故紙の裏に書かれた紙背文書といわれる文面に注目しました。これは、大夫明仏(たいふみょうぶつ)という人物に法橋とぬきなの御局が訴えられ、それに反論した陳状の一部で、ここに挙げられた「ぬきな」氏の身分は、法橋が守護被官であったことから同等の立場にあると考え、貫名氏も守護の被官として「文筆官僚の系譜を引く家柄」としての立場にあったと推測しました。(『日蓮』25頁)。さらに、日蓮聖人の檀越・富木氏との繋がりから、千葉氏被官の訴訟代理人的な文書知識人の社会的性格に注目し、武士階層としての出自を想定したのです。この武士であったとする立場から、当時の慣習として武士の子供の教育を寺院にゆだねていたことから、日蓮聖人の場合も教育をうけるために清澄山に入山したというように考えられました。

領家と貫名家の関係をみてみますと、領家とは一般的に中流の貴族や官人が天皇家・摂関家・大寺社といった上級権力に土地を寄進して任命される地位をいいます。実際の荘園を経営しているのは預所・下司などに任せていました。このことから、領家が「東条の御厨」の領家である可能性が高く、日蓮聖人の父母が領家から恩をうけたというのは「東条の御厨」の支配組織のなかの荘官にあったと推定した説があります(川添昭二『日蓮とその時代』)。

荘園を支配するには高度な文筆能力が必要でした。地頭の東条と領家の争論があったように

承久乱後の混乱期にあっては土地所有権などの訴訟問題にも精通した人材が要求され、その任にあたっていたのが貫名氏と考えられています。

 日蓮聖人の父親についてこれほど追求するのは、日蓮聖人の育った家庭の周囲に文筆官僚の存在がうかがえることです。そして、それを示唆することは、領家の訴訟問題をはじめ熱原法難にいたっても、幕府との法的事件に日興上人も指示を仰いだ専門知識をもっていたことです。このような訴訟・裁判への対処が手馴れていることから、これらの事務に接する機会の多い地頭・荘官級でないとできないと考えられるからです。

これらの文献から出自の共通点ををみますと、「漁師の子供」が定説となっており、日蓮聖人自身ものべていますので間違いのないことです。父母の姓名についての伝記は、『産湯相承事』などの悲母・畠山説が成立したと推定される1400年前後から、中山門流の日親や日実の藤原氏説、三国氏説、乳母清原氏説、梅菊説の展開された1460年前後、これより十数年から二十数年後の日朝(『元祖化導記』)や日澄(『日蓮聖人註画讃』)において成立されましたので、日蓮聖人滅後140〜150年ぐらいに『伝記』が定説化されたといえます(『日蓮誕生論』大久保『鎌倉仏教の様相』所収299頁)。

 ただし、浅井要麟先生が指摘しているように、日蓮聖人の系譜についての根本史料に異説があり、これをもとにしたため所説がつづいたのであり、しかも、『聖人系図御書』や『法華本門宗要鈔』は偽書であるので信頼できる史料はないとしたことに留意しなければならなのです。長禄・寛正から文明年代までは日蓮聖人の系譜に一貫した定説がないといいます。すなわち、『聖人系図御書』系統とされる『当家宗旨名目』・『日蓮聖人註画讃』『國字傳』は、概ね聖武天皇・三国氏・貫名仲三・日蓮聖人とするのにたいし、『長禄寛正記』系統とされる『蓮祖家譜』『蓮公行状』『小湊系図』『貫名山系図』『高祖伝』『本化別頭仏祖統紀』『高祖年譜攷異』は、概ね藤原冬嗣・共良・貫名重忠・日蓮聖人として、祖先が三国氏と藤原氏

とに相違があります。どうように、配流の原因を『聖人系図御書』は所領の争いとし、『長禄寛正記』は伊勢平氏に与同したとしており、このときの家父も『聖人系図御書』系統は重実とし、『長禄寛正記』系統や『元祖化導記』『薩?略伝』『紀年録』重忠と相違しています。

 『聖人系図御書』は少なくても寛正までに制作されたとみられ、この意図は日蓮聖人の滅後数十年に門閥崇拝の思想がおき、足利時代には宮中に法華経を宣布するために擬作したと推察されています。『法華本門宗要鈔』は「釣人権頭之子」の記載があり今日においても依用している箇所ではありますが、前述のように偽書とされ百六箇相承や富士戒壇と「無有本有本迹於勝劣」とした本迹論は西山本門寺を開いた日代上人の制作といわれています。

日蓮聖人の母については清原氏の出自で、總州(下総)八幡郷の大野吉清の子で道野辺右京亮の孫といい梅千代(梅菊)とあります。千葉県鎌ヶ谷市道野辺には大野公の館の跡に妙蓮寺が建てられています。また、山崎左近兼良の子という説もあります。日蓮聖人が自ら旃陀羅の子供とのべたほかに両親のことを語らないことが、日蓮聖人の深い意図と知るべきことと思われます。

ところで、日蓮聖人の家紋として井桁に橘を使用するのは江戸時代に入ってからといわれ、最古の文献は『長禄寛正記』となります。遠江の貫名氏は藤原氏で房前の後、11世(冬嗣からは8世)の備中守(遠江守となる)共資が遠州村櫛に住んでいたときに井伊神社に詣でて子供に恵まれることを祈願しました。その折に神井(かんのい)の中から小児の泣声えがしその子供を拾って養子とし共保と名づけました。この井戸の傍らに橘があったので共保のときから井桁に橘を家紋とし井伊氏と名乗ったといいます。貫名氏は井伊家の分かれといわれるのはこれによります。そして、共保から5世の政直が山名郡貫名の郷を領して始めて貫名氏を名乗ります。この政直から3世が重忠になります。静岡県袋井の貫名庄に代々住んでいた重忠が事にからんで安房の地に流されたといいます。しかし、遠国を遠江国と解釈したことから貫名氏にたどり着くとしますと確実なこととは言えないようです。父親については以上のように伝えられてきました。 

ちなみに身延山の芙蓉牡丹の紋章は近衛牡丹紋ともいい、31世日脱上人が朝廷に参内するおりに公家の近衛家の猶子格となったことにより使用するようになりました。参内用具一式に紋章が必要であったためで、このときに赤穂浪士の敵である吉良上野介義央(よしなか)が朝廷と仲介役をしたといいます。

 つぎに、に日蓮聖人の兄弟についてみてみますと、『開目抄』に、

「父母・兄弟・師匠に国主の王難」(556頁)

と語っていますので、兄弟がいたことがわかります。祖伝によりますと日蓮聖人の兄弟は四人、五人という説があります。兄弟四人の説は、長男が重政、次男は幼少に死亡、三男が日蓮聖人で四男が重友とあります。三男に仲三郎をいれて日蓮聖人を四男とし五男重友とするのが五男説です。日蓮聖人が東京池上の現在の本門寺で亡くなったときに藤平という弟の名前が形見分けの記帳に見られ小袖が遺物として与えられています。また、日蓮聖人の涅槃図には祖師兄として貫名重政藤太と祖師弟として貫名藤平重友が描かれています。この日蓮聖人涅槃図は江戸中期ころから盛んに作られたといわれ、入寂の大坊本行寺で涅槃図を版行していました。

さて、日蓮聖人が旃陀羅と自称するのはカリスマ化してみせる計算であるという意見があります。つまり、日蓮聖人は自身を聖化するために旃陀羅の出自を創作したというのです。その理由は、日蓮聖人の出自をのべた御遺文の多くは佐渡流罪以後に書かれたもので、「民の子」という自分の素性を明かすことが目的ではなく、法華経の救済は貴賎上下に関係ないことを強調したという考えがあります(『日蓮』現世往成の意味。尾崎綱賀8頁)。

「中国都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民が子にて候しかば」(『中興入道御書』1714頁)

とのべているのは、僧侶のおおくが京都や西国の貴族や豪族の出自であったことに対し、仏道は身分に関係なくすべての人に開かれているものであることをのべていると思います。それは旃陀羅という差別された賎しい民も、天皇であっても、出自や階層に差別されない法華経の平等と成仏を説く意図があったというわけです。父は漁民という身分に甘んじながら、領家から相談をうける程の知識があったと考えられましょう。

一方、御厨には伊勢の御師(おし)や行者が往来したことから様々な情報が入ったともいわれ、日蓮聖人はそういう環境のなかで育ち知識を吸収したという指摘や((佐藤弘夫『日蓮』8頁)、比叡山は訴訟等について教えていたので、日蓮聖人の訴訟などの専門知識はその時に身につけたともいいます。

日蓮聖人の葬列什物に太刀と腹巻(鎧)があることから、天皇・貴族・上級武士の葬列と類似するので日蓮聖人の出自も高貴な家柄であるという意見があります。

平田実篤は、日蓮聖人のことを賭殺業者の子、母は遠州貫名村の出であるが、房州で奉公しているときに賭殺業者と密通して主人の怒りにふれ、生まれた子を梅の木の下に捨てたのを住持が拾って育てたと書いていることを、作家の水上勉氏が『鎌倉武士』113頁にとりあげています。平田実篤は何をもとにしてこのようにいったかは不明ですが、日蓮宗を神敵として批判した『神●宗論』にのべたことです。

さて、いままでみてきましたように、日蓮聖人は、父母兄弟の出自や親類の名前に触れた御遺文は残っていませんでした。その後の『伝記』にも詳細に記述されているとはいえませんでした。日蓮聖人にとっては、過去の父母のことを詮索するよりも漁師として生活をしている事実が正直な身分であり、現実には領家から恩をうけて生活をしていたのです。

「貧窮下賤の者」(『佐渡御勘気鈔』614頁)

であったのです。武士や公家の出自ではなく「民の子」として、片海の岩場のある浜辺で元気に生まれ育った漁民の子、「旃陀羅が子」であるという現実を強くうけとめていたのです。

日蓮聖人が両親などの家柄について敢えてのべていないのは、身分や職というものは時勢により変わるものであり、問題とすべきは人間の本質であります。日蓮聖人の両親は旃陀羅として殺生の罪の意識をもたれていたのでしょう。仏道に救いを求めている両親を目の当たりにして、いかにその苦しみから救われるか、ということが大事だったと思います。

 このように御遺文からうかがえる『伝記』は甚だ少ないのです。日蓮聖人の著述のなかに語られていたが伝来しなかったのでしょうか。あるいは、出家という在俗から離れた立場から、出自についてこれ以上のことを語る必要がなかったのでしょうか。弟子たちには周知のことであっても父母や親族にふれた書状はほとんどないのです。

 しかし、日蓮聖人の御遺文のはしはしには望郷の想いがのぞいています。立教開宗とされる清澄で念仏批判をおこない、それにより地頭の東条景信から東条に入ることを禁圧されます。それでも母の病気を聞き東条へ入り母の命を4年延命します。しかし、予想通り東条内の小松原で刀傷の迫害にあいました。その後、東条景信や清澄の老僧が死去したことにより安房に布教を進め弟子や信者を獲得し、その弟子たちを派遣することにより信徒の教育と交流をはかっています。

 「故郷に錦を飾る」という情念は日蓮聖人にとって叶わないことでした。それが為政者の法華入信であれ公場対決であったとしても現実的なことではありませんでした。父母・兄弟・親族・友人などの「親しき人」を思い起こすのは、故郷から送られた供物でした。

日蓮聖人の滅後においては『伝記』よりも富木常忍の『常修院本尊聖教事』にみられるように、御書の収集と整備そして管理は積極的に行われたとみるべきです。富木氏をはじめ諸門流でも収集に力をいれた功績により現在まで大量に保存されてきました。