332.日蓮宗伝道部への要望     髙橋俊隆

生きている尊さと使命をもつ>

私は檀信徒にたいし、日蓮聖人は「三千世界の宝をもっても一日の命にかえることはできない」と述べている命の尊さに気づくよう心がけ、一日の命を大切に生きる悦びを知ってもらうよう努めています。また、コロナ感染により命を亡くされた人、ウクライナなど戦乱にて命を亡くされた人たちの成仏を願い、毎日お題目をお唱えし祖願である立正安国を祈ることを勧めています。     
 [いのちの祈り 立正安国 家族の健康 祖先の供養を] 

<「但行礼拝」における教師の自覚についての日蓮宗伝道部に要望いたします> 

日蓮宗の教箋に「一切衆生悉有仏性」だから法華経を誹謗する人たちにも「但行礼拝」して、唱題による立正安国の顕現を勧め、日蓮聖人が「不軽詔継」されたように法華経信仰の基本的な生き方の手本とするように教えています。

確かに「不軽菩薩の振る舞い」は日蓮聖人にとって末法弘通の法華経の行者の手本とされました。それは「数数見擯出」を身読された佐渡において著述された『開目抄』に述べていると思います。その『開目抄』の14章には「三類の強敵」の迫害にあう受難の疑問について回答されていく過程に不軽品が引用されます。つまり、日蓮聖人が不軽品を引用された理由を窺いますと、不軽菩薩の「但行礼拝」には4個の意義があると思います。それは、1,法華誹謗の宿業により受難したこと。2,其罪畢已」の滅罪を説くこと。3,折伏弘教の意義を説くこと。そして、4,不軽軽毀の四衆と同じように成仏できるとして「逆縁成仏」を説いたことです。 

私個人の考えですが、『開目抄』の17章にて日蓮聖人が弘教の信条として述べたかったことは、「仏法の中の怨」にはならないことと思われ、仏弟子としてこの遺誡を守り、謗法救済の責務を果たして来たと述べたことです。それを、章安大師の「為彼除悪即是彼親」(彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なり)に見出され、日蓮聖人自身が誹謗者を恨むことなく受難に耐えて来たのは、全ての人々は仏の子であり、自分の命よりも大事という、父母同様の思いがあるから、法華経の行者として行動できたと理解できます。 

 以上から要望として

日蓮聖人は佐渡配流の受難の意義を、過去の謗法の大きな罪科を軽く受けていると氷解されたのが、『涅槃経』の「転重軽受」と「護法招出」思想です。(重きを転じて軽く受く)(護法により招き出した滅罪)現世で迫害を受けるのは、過去世における重い宿罪の報いによるものであり、その重罪を法華弘通の功徳により軽く受けていると、竜口法難を契機に受難を法華信仰の上に意義づけました。この日蓮聖人自身の罪業・滅罪のところの教示が少し希薄ではないかと感じましたので、お恐れながらも4個の意義も促されてはどうかということを要望いたします。

  <道筋の提示について>

4つの道筋に分けたことはそれぞれ異なった意味をもっていて関連性はないからでしょうか。4つの道筋を1つの概念にすると何が主体となるのでしょうか。つまり、主体は「一切衆生悉有仏性」か「但行礼拝」か「不軽菩薩の振る舞い」か「お題目の下種・結縁」なのでしょうか。不軽菩薩の24字はこの4つを含んでいるのでしょうか。

 また、祖願達成の道筋を登山に譬えていますが、これは一休禅師の格言とされている「

分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をみるかな。」からの引用でしょうか。これは、「宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じである。」という解釈に用いられて、法華一経の信仰を否定されるときに引用された格言ですが、それを問われたときにどのように返答したらよいか教えて下さい。

 私はこの格言のあとに、「居ながらにして見られる月なのに分け登る道こそ迷いなれ。」と習った気がします。