327.池上入滅と葬送        髙橋俊隆

◆第三節 池上入寂

○長栄山大国院本門寺

池上氏の邸に休息されながら体調を整えていました。。宗仲が建てた法華堂の開堂供養を行ない、「長栄山大国院本門寺」と名付けました。宗仲は法華経の経文の数である六九三八四坪を寺領として寄進されました。後に、本阿弥光悦が本門寺の扁額を揮毫し関東三大額の一つになります。五重の塔は東京都内で最古の塔で徳川秀忠の乳母が発願して建てました。正面の石段は加藤清正の寄進となり、同じく祖師堂は二四間と二五間あり、床下を甲冑を帯びた騎馬武者が馬に乗ったまま通行できました。江戸で一番大きなお堂と言うことから大堂と呼ばれました。

祖師像は聖人の七回忌(正応元年六月。一二八八年)に、日持と日浄が願主となり造像されました。寄木造りで等身大より大きめの像で、日法が刻んだ祖師像を原型として造ったと言います。像の体内に真骨を収めた銅筒があり、表面に題目と釈迦・多宝仏が刻まれ、裏面に次のように刻まれています。

「弘安五年壬午十月十三日巳刻御遷化。大別当大国阿闍梨日朗。大施主散位大仲臣宗仲。大施主清原氏女」

昭和四年に文部省技官の立会いで調査した時に、銅筒の回り四隅に日昭・日朗・日興・日向が署名されている木切れの紙包みが確認されています。像の右手には母堂の毛髪が含まれた払子を持ち、左手には法華経六の巻きを所持されます。尊像は重要文化財となっています。

九月二五日には体調が回復されたようで、堂宇の柱にもたれて鎌倉や房総などから日蓮聖人の病状を心配されて集まった信者に、『立正安国論』の最後となる講義をされたことが、日朝の『元祖化導記』に記されています。

 

○六老僧

一〇月八日に臨終が近いのを感じ、本弟子として日昭(六二歳)・日朗(三八歳)・日興(三七歳)・日向(三〇歳)・日頂(三一歳)・日持(三三歳)の六老僧を定めました。日興は聖人の代筆をする右筆(ゆうひつ)の役を担っており、門下信徒を繋ぐ重要な存在でした。『宗祖御遷化記録』『御遺物配分帳』『身延山守番帳』は日興が書記しました。『身延鑑』(一五七頁)に「或る記に云く」として、六老僧は本化六万恒河沙の菩薩の上首とあります。智慧日昭・給仕日朗・筆芸日興・問答日向・行戒日頂・文質日持とあります。聖人の弟子は凡そ六六名と言います。これは遺文や本尊授与、日興の記録から推定されます。このうち二〇名が天台宗の僧籍を持っています。(高木豊著『日蓮とその門弟』五二頁)

 (六老僧)

日昭(一二二一~一三二三年) 

鎌倉の浜土に法華堂を建てます。浜門流。弁阿闍梨。聖人の遺物として宋銭(祥符通宝)の数連が玉沢妙法華寺の宝物として格護されています。血脈―日実・日法・智満・福満。

日朗(一二四五~一三二〇年)

池上本門寺・比企谷の法華堂(妙本寺)の住持として比企谷門流を形成します。。松葉ヶ谷の法華堂、平賀本土寺を建立します。大国阿闍梨と称し、弟子の日像肥後阿闍梨)・日輪治部公、大経阿闍梨)・日善大法阿闍梨)・日伝大円阿闍梨)・日範大前阿闍梨)・日印摩訶一房)・日澄大乗阿闍梨)・日行妙音阿闍梨)・朗慶越中阿闍梨)を「朗門の九鳳」(九老僧。日輪―池上三世。日善―身延山四世。日伝―平賀本土寺二世。日範―豆別舟田本教寺。日印―越後本成寺。日澄―尾別津島本遠寺。朗慶―猿畠法性寺。日像―妙顕寺。日行―小田原浄永寺)と称します。聖人の七回忌に池上本門寺の大別当として尊像を造りました。遺骨は遺命により松葉ヶ谷の猿畑山に埋葬されました。血脈―日高・日賢・日像・日輪

日興(一二四五~一三三三年)

白蓮阿闍梨と称します。時光の要請で大石ヶ原に一宇を建立します。永仁六(一二九八)年一一月に日目に任せ重須に一宇を建立します。重須の領主、石川孫三郎能忠が屋敷・敷地を寄進し、「重須談所」を始めたのが起源です。重須北山本門寺の開創となり富士門流を形成します。血脈―天目・日位・日忍・日満。

日持(一二五〇年~ 不明)

駿州松野郷の松野六郎左衛門入道の次男で幼名を松千代と言います。南条兵衛七郎の妻は日持の姉です。七歳で出家し岩本実相寺に入門します。日興の最初の弟子と言われ、実相寺・四十九院では師匠的な存在であったと言います。日興が身延山を去る頃に松野に蓮永寺を建立します。永仁二(一二九四)年の聖人一三回忌を松野で修め身延の廟所に詣でます。翌年正月に弟子の日教に蓮永寺を任せて、奥羽・蝦夷・樺太を経てロシア・中国に渡り海外に法華経を伝導しました。蓮華阿闍梨と称します。血脈―日伝・日合・日門。

日頂(一二五二~一三一七年)

父は小林伊予守定時と言い母は離別後、常忍の後妻(富木尼)となります。駿州富士重須の生まれです。伊与阿闍梨と称し真間弘法寺を拠点に伝導します。正応四(一二九一)年三月(祖滅10年)に申状を捧げて幕府に諫暁し、同五年に浄土宗良実に公場対決を迫ります。後、富士の南条家を頼り生国駿河重須で没します。重須談所の学頭である寂仙房日澄は弟です。血脈―日弁・日秀・日証(澄力)・日明。

日向(一二五三~一三一四年)

祖父の小林実信は北面の武士で聖人の父貫名重忠の弟です。共に流罪となり実信は上総の茂原に流されます。その子の実長は男金(おがね)に移り佐久間兵庫の妹を娶り日向を生みます。一〇歳にて比叡山に入り一三歳の時、父が小湊帰省中の聖人の教えを聞き弟子とします。佐渡阿闍梨・民部阿闍梨と称します。身延山第二祖となり波木井氏・上総斉藤氏の外護を受け二六年間護山します。正和二年に身延を日進に藻原寺を日進の兄弟子となる日秀に譲り、上総坂本の法華谷の法華堂(現在の坂本奥の院、向尊殿)に隠棲し、翌年没します。身延門流・茂原門流(藻原法類)と称します。六老僧の中で日向・日頂の二人は聖人の滅後に阿闍梨号を持ちます。血脈―日家・日進・日保・沙弥日賢。

 

聖人が存生の時に建立された寺院は次のようになります。(『日蓮教団全史』一三頁)

   (道場)         (創立年代)          (開基)  (開山)

  下総若宮法華堂(法華経寺) 文応元(一二六〇)年       富木常忍   日常

  鎌倉比企谷法華堂(妙本寺) 文永一一(一二七四)年      比企能本   日朗

  身延山久遠寺       文永一一年          南部実長   日蓮聖人

  上総茂原法華堂(藻原寺)  建治二(一二七六)年       斉藤兼綱   日向

下総平賀法華堂(本土寺)  建治二年           曽谷教信   日朗

下総真間弘法寺      弘安元(一二七八)年       富木常忍   日頂

武蔵池上本門寺      弘安六、七(一二八三~四)年   池上宗仲   日朗

○入滅と葬送・『御遷化記録』

一〇月一〇日に「御遺物」を分与したことが日興の『御遺物配分事』に記録されています。一一日に枕辺に経一丸(のちの日像)を呼び天皇へ法華経を勧めること、京都における布教を委嘱し「玄旨本尊」を授与されます。この御本尊は妙顕寺に安置されています。日像は下総平賀に生まれ、父は平賀忠晴、母は妙朗尼で日昭の甥、日朗の同母異父の弟になります。七歳で日朗に入門し八歳のとき聖人に給仕します。日像の京都布教に当っては日昭が近衛家の猶子になっている縁がありました。

一二日の酉の刻(午後六時)、臨終が近いのを感じて北に向かって座ります。正面に曼荼羅を掛け、伊豆の流罪より持仏されていた立像釈尊を安置して読経されます。一三日の卯の刻(午前六時)に危篤の報せを聞き頼基夫妻が鎌倉から駆けつけます。そのとき聖人は目を開いて頷かれます。辰の刻(午前八時)頃に曼荼羅本尊・立像釈尊の元に、弟子、信徒の見守りと読経の中に入寂されました。この時に大地が振動したと記録されています。日昭は鐘を打ち臨終を知らせると、鳴り響く鐘の音に庭の桜に時ならぬ花が咲きます。曼荼羅は弘安三年に日朗に授与されたもので、鎌倉の法華堂から運ばれ枕頭に掲げられました。「臨滅度時のご本尊」と称されます。

一四日戌の刻(午後八時)に日昭と日朗によって入棺されます。一五日子の刻(午前0時)に葬送の儀を行います。弟子や信徒による葬送の役配は『宗祖御遷化記録』に記されています。日朗は棺の前陣、日昭は棺の後陣、日興等は棺の周りを守り池上の西谷に荼毘のため向かいました。

『御遷化記録』は聖人の遺言と入滅前後の門弟の動きを記録しています。「西山本門寺本」「池田本覚寺本」「池上本門寺本」の三本が現存しています。日昭本と身延本は紛失しており写本もありません。内容は1日蓮聖人の略伝。2定置本弟子六人。3葬送記録。4御遺物配分事。5身延山番帳から成っています。「西山本門寺本」は日興筆で1~3、5があります。4御遺物配分事はありません。これは教団体制を形成する上で、その根拠となるものであったから省略したと言います。「池田本覚寺本」は日位筆ではなく日持とも言いますが不明です。葬送の役割を担った人物が記録したことは事実ですが、室町時代前期頃の写本とも言います。(湯山賢一稿「日蓮遷化記録日興筆弘安五年十月一六日」『古文書研究第』三九号一二〇頁所収)。1・3・4があり、2定置本弟子六人 5身延山番帳はありません。「池上本門寺本」は1~3はありません。4御遺物配分事 5身延山番帳を一紙にした折紙で、別個に軸装されて二軸となります。4御遺物配分事は御遺物配分帳と表題がつけられ、日興が執筆し日昭・日朗・日興・日持が各自署名して花押を据えています。

この中で「西山本門寺本」は日興の一筆で調っており、最良の原本とされることが分かります。楮紙料紙とし法量は縦三一、六㌢全長二一四㌢。紙数は五枚です。(①四三㌢ ②四二、六㌢ ③四二、一㌢ ④四三、二㌢ ⑤四三、一㌢ 補紙一二、四㌢)。1~3は弘安五年十月一六日、5番帳は弘安六年正月日となります。2の本弟子の順序は入門の浅い順に並び、六人が一通づつ所持していたことが分かります。中世の葬送の儀式が分かります。3の文末に遺言(御所持佛教事)として仏(釈迦立像)(注法花経)を墓所寺に安置し六人が番時のとき香花を供養するようにとあります。各紙の継目裏には本弟子四人の花押を据えています。日向と日頂は他行とあります。これにより門弟の統一が成されました。

 

『御遷化記録』(葬送記録)

西山本門寺本――日興筆

(第二紙九行目より)

  先火     二郎三郎 鎌倉の住人

  次大寶華   四郎次郎 駿河国富士上野住人

  次幡     左 四条左衛門尉(四条頼基)  右 衛門太夫  (池上宗仲)

  次香     富木五郎入道  (富木常忍)

  次鐘     太田左衛門入道 (大田乗明)

  次散華    南条七郎次郎  (南条時光)

  次御経    大学允

(第三紙)

  次文机    富田四郎太郎

次仏     大学三郎  (大学能本)

  次御はきもの 源内三郎 御所御中間

  次御棺    御輿也

             侍従公   (日浄)

             治部公   (日位)

       左     下野公   (日秀)

             蓮華闍梨  (日持)

  前陣 大黒阿闍梨   出羽公

       右     和泉公   (日法)

             但馬公   (日実)

             卿公    (日目)

 

             信乃公

       左     伊賀公

             摂津公   (日仙)

  後陣 弁阿闍梨    白蓮阿闍梨 (日興)

             丹波公   (日秀)

       右     太夫公   (日祐)

             筑前公   (日合)

             帥公    (日高)

  次天蓋    太田三郎左衛門尉

  次御太刀   兵衛志   (宗長)

  次御腹巻   椎地四郎

  次御馬    亀王童  瀧王童

(第四紙)

御所持佛教事

御遺言云

佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々

経者 私集最要文 名注法花経

同籠置墓所寺 六人香花當番時

可被見之 自餘聖教者非沙汰之限云々

仍任御遺言所記如件

弘安五年十月十六日  執筆日興花押  (『日蓮聖人と法華の至宝』第二巻一七八頁)

(第五紙)は―墓所可守番帳事―となります。

 

 『御遷化記録』(御遺物配分事)

―池田本覚寺本―執筆不明

(第三丁裏)

  注法華経 一部十巻             弁阿闍梨

  御本尊  一躰 釈迦立像         大黒阿闍梨

  御馬   一疋 小袖一          佐渡公

  御太刀  一 小袖一 袈裟代五貫文    侍従公和田丸

  衣    一 小袖一 袈裟一       越前公

  御馬 一疋鞍皆具御足袋一 馬鳥子 小袖一 白蓮阿闍梨

(第四丁表)

  御腹番  銭三貫文            伊与阿闍梨

  御馬一疋 小袖一 手鉾一         蓮華阿闍梨

  御小袖一 郷公  御馬一疋 小袖一 御念珠  筑前公

  御小袖一 衣一 帷一           治部公

  御小袖一 頸烏子一            摂津公

  御馬一疋 小袖一 大夫公  御小袖一 丹波公

(第四丁裏)

  御小袖一 和泉公  御衣一 銭一貫文 伊賀公

  銭二貫文 淡路公   一貫文 出羽

  一貫文  寂日御房  二貫文 信濃公

  一貫文  帥公    一貫文 越後公

  一貫文  但馬公   一貫文 下野公

  一貫文  讃岐公   二貫文 妙法御房

(第五丁表)

  一貫文  御馬一疋鞍皆具 染物一 冨田四郎太郎

  一貫文  源内三郎

  二貫文  椎地四郎  御小袖一  四郎次郎太イ

  御小袖一 滝王   練一 安房国新大夫入道殿

  御小袖一 同国浄顕御房

  御小袖一 同国義浄御房

(第五丁裏)

  御小袖一  同国藤平

右 御遺物配分次第如此

 弘安五年壬午十月日

御遷化御舎利ハ同月十九日池上御立有テ

 

―池上本門寺本―日興筆

   (前欠)

(上段)

  二貫文        淡路公

貫文        寂日房

貫文        信乃公

一貫文        出羽公

  一貫文        帥公    

一貫文        越後公

  一貫文        但馬公   

一貫文        下野公

  一貫文        讃岐公   

貫文 御布小袖一  妙法房

  御馬一疋 鞍皆具 染物 冨田四郎太郎

  一貫文        源内三郎

  二貫文        椎地四郎  

(下段)

御小袖一       四郎二郎

  御小袖一       滝王丸   

御きぬ一       安房国新大夫入道

御きぬ一       かうし後家尼

  御小袖一       安房国浄顕房

  御小袖一       同国義浄房

  御小袖一       同国藤平

  右、配分次第如件

   弘安五年十月日

     執筆日興 在判

       日持 (花押)

       日興 (花押)

       日朗 (花押)

       日昭 (花押)

 

一六日、火葬された遺骨は六老僧の手で宝瓶に納められ日興より遺言(御遺物配分事)が発表されます。一九日に初七日の法会が行なわれ、遺言に従って同日に池上を発ち遺骨は身延に向かいました。その日は相模の飯田に泊まり、二〇日は箱根の湯本、二一日は車返、二二日は上野の時光の家に泊まり、二三日に実長に迎えられ身延山に入りました。二六日は二七日忌の法会が行なわれ、甲州や駿州からの信徒が集まります。墓所が定まり遺骨が安置されます。六老僧等は暫く身延に留まります。

日昭は不軽院(南之坊)・日朗は正法院(竹之坊)、日興は常在院(林蔵坊)、日持は本応院(窪之坊)、日頂は本国院(山本坊)、日向は安立院(樋沢坊)に籠もって喪に服します。日法は御影を自ら彫刻し七七日忌に御影堂に安置します。遺骨は百ヶ日に当たる翌弘安六年正月二三日に、西谷に廟所を設け五輪塔の墓石を建て遺骨を納めました。頼基は主君の元を離れ端場坊に留まり廟所を守ります。

池上の荼毘所の跡に朱塗りの宝塔を天保元(一八三〇)年に建てます。宝塔の下から多数の遺骨が発見されました。池上邸の所在が大坊本行寺です。聖人がお寄り掛かった柱は手斧(ちょうな)削りの柱で、「ご臨終の間」に残されています。

 

○輪番制

遺言により輪番で墓所を守ることになります。六老僧の本弟子六名を中心に、一二中老を加えて月次に墓塔を守る「守塔制」が定められました。六上足は一月に一人、中老は一月に二人とします。この番帳は二本現存しており、池上本門寺には「身延山久遠寺番帳」とあり、西山本門寺には「墓所可守番帳事」(墓所を守るべき番帳の事)とあります。聖人の墓塔を拠点にして教団の結束と発展を促します。

輪番の折に草庵や廟所の周辺にそれぞれが庵室を結び住んだのが諸房に発展します。聖人の在世や滅後に建立された房は、下之坊(一二七四年)妙了。志摩坊(一二七五年)中老日伝。竹之坊(一二八〇年)日朗。端場坊(一二八〇年)頼基。山本坊(一二八三年)日頂。本行坊(一二八六年)比企能本。窪之坊(一二九三年)日持。清水坊(一二九四年)日像。北之坊(一二九七年)実長。南之坊(一三〇〇年)日昭。大林坊(一三一二年)円台坊(一三一二年)中老日源。樋沢坊(一三一四年)日向。林蔵坊(一三三二年)日興。七面山(一二九五年)日朗と実長とされます。(林是幹稿「甲斐日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収。三八九頁)。頼基は有髪の出家として廟所の近くに住み二〇年の余生を尽くします。(『日蓮教団全史』七三頁)。 

寺院として、小室山妙法寺(肥前阿闍梨日伝、中老一八人の一人。清澄山の同学ともいう)。下山本国寺(最蓮房日浄、開基因幡房日栄)。休息山立正寺(和泉阿闍梨日法、もと真言宗胎蔵寺)。宝塔山遠光寺(もと真言宗で加賀美遠光公が日最上院宗と改め帰依した)。鵜飼山遠妙寺。定林寺(双子塚)・長遠寺(もと真言宗、開基加賀美遠光)。妙浄寺(もと真言宗、大輪法印日寿)。妙了寺(もと真言宗、妙了日仏の子中道院日了)・遠照寺(中老日辨)・東漸寺(大石寺二世日目)・実相寺・妙円寺・久本寺があります。

滅後の教団は蒙古再襲による社会不安と幕府の政治的な弾圧が続きます。弟子は各地において教団の定着を必死に行うに従い、輪番制は一年余りで困難になります。日興は実長と相談し他の本弟子の了承を得て、弘安八年の末頃に身延に奇住し廟所を守ることになります。日興は院主となり日向も学頭職として門下の教育をしました。しかし、実長の信仰の有り様に二人の意見が対立し不和になります。

一二月に時宗は蒙古戦で死没した敵味方の者の供養のため円覚寺を建てます。寺内に千体の地蔵像を造って無学祖元を開山とします。翌弘安六年にフビライは三度目の日本遠征を計画しましたが、江南の反乱やベトナム遠征の失敗により断念します。時宗は四月に連署に業時を任命し蒙古対策はその後も行なわれます。

 

○滅後の幕府の動向

鎌倉の弘通は浜土の日昭と比企谷の日朗が中心となりました。幕府は頼綱(御内の最有力者。「万民の手足」四二八頁。「天下之棟梁」五〇二頁)が権力を持ち続けます。この傾向は時宗の没後、貞時の時代に顕著になります。頼綱と外様の実力者安達泰盛(秋田城介)との対立があり、教団への弾圧が弱まった一面がありました。幕府は蒙古警護にいつ迄も腐心し、実体として勝利した状態ではなかったのです。聖人は沈黙を守らせていました。

弘安五年暮れに為時を博多に派遣し鎮西の防備を固めます。

弘安六年五月に兼時を播磨に送りさらに強化します。

弘安七年四月四日時宗が死去し七日に貞時が一四歳で執権になります。

六月二〇日に時国を召還し一〇月に殺害し八月に時光を佐渡に流罪します。

良観は鎌倉五大堂大仏別当に補せられます。

七月に元使が対馬にきます

正応五年(一二九二)、高麗の使いが太宰府に国書を伝えます。

  永仁二年(一二九四)、フビライの死去により元の日本遠征は中絶します。

  正安元年(一二九九)、元使は鎌倉に至り国書を呈します。

  延慶二年(一三〇九)、太宰府は元寇の警報を伝えます。

  元弘三年五月二二日(一三三三)幕府倒壊

教団に対しての迫害は弘安七年頃から始まり、八~九年頃が頂上と言います。日興が美作房に宛てた弘安七年一〇月一八日付けの書状、「本尊分与帳」によって推測します。(宮崎英修著『不受不施派の研究』九一頁。「三年は過行候に」日昭などの苦悩を察している)。幕府は諸寺・諸社に敵国降伏の祈祷を命じます。鎌倉の教団にも命じられます。文永一一年に頼綱の申し出を拒んだことがあり、幕府は再び拒否すれば諸堂を破壊し僧を追放して、鎌倉から法華宗を一掃すると圧力しました。日昭・日朗は申状を捧げて陳弁しますが、結果的に承服して教団の危機を逃れます。(日朗・日昭申状。公場対決を望んだ。『宗全』一。二一頁。七頁。日興、『宗全』二、一一二頁)

頼綱の妻が時宗の子、貞時の乳母でした。貞時が内管領になると頼綱が実力者となります。安達泰盛の養娘(安達義景の娘)が貞時の母(時宗の妻)ですので、執権の外祖父である泰盛と頼綱との権力争いに発展します。安達泰盛は弘安八年一一月一七日、頼綱の讒言により孫の貞時に討たれます。頼綱は泰盛の嫡男宗景が源氏姓を名乗り、将軍になろうとしていると貞時に謀ったのです。頼綱は一五歳の貞時の承諾を得て泰盛を討ち取ります。この時、刑部・三浦・武藤・小早川・佐々木・伴野・懐島・太宰・木曾・足利等多くの御家人が泰盛に殉じ、引付頭人金沢越後守も上総垣生に流されます。これを「霜月騒動」と言います。頼綱は幕府の権力を握り弘安一〇年に七代将軍の源惟康が親王となった頃には恐怖政治を行っています。

正応元(一二八八)年六月聖人回忌に、池上本門寺の尊像を日朗・日持・宗仲の造立で開眼供養します。同じく一一月に日興は身延を下山し富士に拠点を作ります。実長は日向を別当と定めます。

永仁元(一二九三)年四月二二日に、貞時は鎌倉大地震に乗じて経師ヶ谷の頼綱邸を襲撃させ自刃させます。これは頼綱が子の飯沼資宗を将軍に立てようと企てたためです。頼綱は貞時により滅ぼされたのです。次男の飯沼資宗も共に滅ぼされ、内管領だった長男の宗綱を佐渡に流罪します。これを「平禅門の乱」と言います。また、時村も北条宗方の陰謀により殺害されます。(「嘉元の乱」)。

永仁二年一月、日持は海外伝道の旅に出ます。同年、日像は聖人滅後一三年に京都に入り関西法華教団の基盤を形成します。同年、フビライが死去し蒙古の日本征伐が中断されます。しかし、蒙古再襲の不安は南北朝時代にも引き続きます。(『後愚昧記』応安元年五月二一日条)

聖人滅後に常忍は聖人の書簡を蒐集を行いましたが、次第に六老僧達は各地における弘教に専念し、分裂のような形で遺文結集の期を逸します。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』一二三頁)。信頼のできる常忍の元に弟子信徒が集まり、真蹟の信憑性を確認し保存されました。―以上―

 

おわりに

 聖人が生きた鎌倉時代は北条得宗の権力支配を中心に展開していました。仏教界も幕府に寄り添うものでした。特に頼綱と良観は聖人を苦しめ、邪悪な陰謀をもって教団を弾圧しました。その中で弟子・信徒と共に迫害に耐え、法華経の信心を貫き通しました。聖人の教えは五網に従い他宗批判の順序や時機を詳細に鑑みました。受難の苦しみは末法為正の本門教学を明確にします。その到達点である三秘を開出するには、未来記である勧持品二十行の経文を身読する必要があったのです。信徒達も幕府の内外にいて行動を共にしました。

蒙古防衛と御家人支配の内外における幕府の政策を把握することにより、鎌倉仏教の動向や教団への弾圧の理由が明確になると思います。聖人の歩みは釈尊への道であり、教えも弟子信徒と共に釈尊に向かう歩みです。勇猛果敢な信徒の信仰心は聖人の行者としての言行にあります。第六部は熱原法難にふれました。頼基や宗仲の信仰上の受難がありました。それらの問題に答える言葉は今に生きて布教の原点となります。本書はこれらの多くの課題を残しています。たくさんの方々から励ましのお言葉をいただきました。今後も御指導をお願い致します。この『日蓮聖人の歩みと教え』が皆様の布教のお役に立ち信仰の励みになることを願って閣筆いたします。                               合掌

   当山開基正中山奥之院中興 智廣院日教上人第四七回忌報恩謝徳

                    平成二十九年十一月二八日                                      円山 妙覚寺 高橋俊隆