326.『身延山御書』~『波木井殿御報』      髙橋俊隆

□『身延山御書』(四三二)

 八月二一日付けとされ門弟に示されたと言います。真蹟も曽存した記録はありませんが、『大野本』『平賀本』に収録されています。また、『録内御書』第一八巻に編入されているので、古来より伝えられてきた遺文であることが分かります。著作年時に身延に入られて二年目の健治元年の説があります。文体はこれ迄の書状の文章とは違い異例とされます。鈴木一成氏は聖人が身延を霊山と高揚された時期を弘安二年以後とします。本書がそのピークであり身延出山の直前の遺文とします。(『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四三五頁)。身延の風景や信仰の内実を叙述された名文となっています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇八八頁)。本書の特徴は身延山を霊山浄土として、法華弘通の達成感と法悦の境地を述べていることです。

「庵の内には昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。伝聞く釈尊の住給けん鷲峰を我朝此砌に移し置ぬ。(中略)立わたる身のうき雲も晴ぬべしたえぬ御法の鷲の山風」(一九一五頁)

○身延下山

通説では弟子檀越が聖人の衰弱を感じ常陸(加倉井)に湯治を勧めたとします。常陸は実長の三男、弥三郎の所領があったので、水戸市の加倉井(隠井)温泉の説があります。(『日蓮教団全史』四三頁)。如何なる事があっても身延を離れないと言う気持ちを持っていましたが、故郷小湊に寄り父母や有縁の人の展墓と(林是幹稿「甲斐日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収。三七九頁)、親しい兄弟や信者等に今一度再会したい気持ちが募ったのでしょう。

『本化別頭仏祖統紀』(一八四頁)には常陸の地名や温泉にて湯治をするとの記載はなく、八月には聖人の病状が日に日に悪化します。門人達は僻地よりも鎌倉には名医がいるので、法のため国の為に長生きをして欲しいと願います。聖人はこの意見を受け容れますが、考えがあるとして池上にての療養を決めたと記載されています。

病弱の身でしたが実長の子息と弟子に守られて下山することを決意されます。果たして湯治に行くことが目的であったのでしょうか。偽書とされる『波木井殿御書』には、安房に帰省したかったこと、また、命は不定であるので釈尊の入寂に倣い池上の宗仲の所を入寂の地とされたとあります。日昭・日朗にはその旨が伝えられ、宗仲とは生前より約束されていたかも知れません。池上を教線の一拠点とする意図があったと思われます。紀野一義氏は釈尊と同じく北への道をとられたのであり道中には知り合いがいたと述べています。(『日蓮配流の道』一七七頁)。また、室住一妙氏は九年前に泣く泣く逐われるように、身延山に逃げいった惨めさを整えるため。鎌倉近郊の弟子信徒が集まりやすい池上を選び、『立正安国論』の大義の確信を講演されるためと述べています。(『純粋宗学を求めて』四〇一頁)

池上に向かう道程は富士山を北に回っての進路を選びます。鎌倉から身延には竹の下から富士を通って入りました。この駿河は熱原法難のあったところで、静岡方面は北条氏の領地が広がっており、危険を避けて険阻な回り道をされたのです。体力の落ちた聖人は馬での道中とは言えゆっくりと進みました。馬を好まれた聖人は実長から与えられた栗鹿毛の名馬に乗っての下山でした。弟子数人と名馬の舎人に実長の一族の者が数名つき従っての出立です。

八日、午の刻に草庵を出発し甲斐路を進み、身延からは約五㌔程の距離ですが、その日は下山兵庫四郎(光基)の家に宿泊します。光基の子供が因幡房です。因幡房は最蓮房と比叡山での学友であり、その縁で因幡房は聖人の弟子となります。光基はこれに憤慨しますが聖人が光基に宛てた書状を読み、自らも法華経の信者となり法重房日芳の名を頂きます。地所にあった平泉寺を本国寺と改称し最蓮房を開山とします。寺宝に『撰法華経』・お万の方が刺繍された法華経があります。

九日は下山から北に進み下粟倉、大石野を経て早川を渡ることになります。早川は急流で難所でした。早川を渡り三つ石に出て遅沢、間峠、切石、手打沢、大塩、柳川に進み、大柳川を渡って鳥屋、久保沢、鬼島、小柳川、国見平、長知沢、狩宿、高下(たかおり)、仙洞田を進み善知法印の小室に入ります。そして、鰍沢まで足を進めます。現在は下山から鰍沢への道路は快適に通じていますが、当時は川を渡る起伏の激しい山路でした。鰍沢に入られた聖人は興師と縁が深い大井庄司入道の家に宿泊します。

一〇日は笛吹き川沿いに進みます。鰍沢から一四.五㌔程の、進む距離は少ない曽根の次郎宅に宿泊します。釜無川を渡るのに時間がかかったのか、体調のためか、何かしらの事情があったようです。一一日は黒駒に泊まったと伝えますが場所は不明です。一二日は御坂峠を越えて河口湖畔にある河口陣屋の梅屋に泊まります。梅屋の主人は本庄采女と言い、聖人が身延に入られてから秋本房日元の案内で甲斐地方を巡教した時に寄りました。采女の弟(真言宗御室派の御蔵寺の住持をしていた)法玄が聖人の教化に従い弟子となり日領と名乗ります。大嵐山蓮華寺の開山になります。

一三日は梅屋本庄家から山道に入り霜山を越え屋根沿いに進んで呉地(暮地、くれち、くれじ)に降ります。旧名は古屋と言います。この峠のことを「おっ越し」と言うのは聖人が峠を越えてお越しになられたことが由来です。本庄家からは直線で六㌔程の行程ですが難儀な峠越えだったのでしょう。この麓の遠山平三郎の家に泊まります。一四日は明見(あすみ)、鳥居地峠を越えて内野、山中湖東岸の平野へ抜け、三国峠、明神峠の難所を越えて上野部落へ出ます。ここから旧道を通って棚頭、諏訪之前、下一色、馬伏川を渡り竹の下にて泊まります。竹の下から平塚迄は身延入山の時と逆の経路になります。一五日は関本(雨坪)にて下田五郎左衛門の家に泊まります。ここに不動尊を祀った不動堂があったのを、中老僧の日弁が弘安年中に寺を建て関本山弘行寺と名付けました。ここには養珠院お万の母である性珠院の墓があり、お万が奉納した金蒔絵の碁盤が伝わります。ここ迄は暮地に住む遠山家の親戚が二名、聖人に付き添って関山まで見送ります。そのまま関本に定住したと言います。関本という地名は足柄関所の麓にある所のことです。

一六日は泰時の親族で弟とも言う平塚左衛門泰知(やすとし)、『風土記』では江馬氏になっている泰知の招きで平塚に泊まります。泰知は頼基から法華経の信仰を勧められており、酒匂川を渡り海道にて平塚に向かっていることを知り迎えたと言います。この時に長谷川常徳や鶴岡宮の社司である鶴若太夫藤次など一六〇人程が、聖人を迎えて教えを聞いたと言います。後に屋敷を寺として松雲山要法寺と名付けました。平塚の地名は桓武天皇の孫の高見王の子供がこの地で亡くなり、菩提を弔うために塚を創ったのが崩れて平になったのを「たいら塚」と呼んだのが由来と言います。関本から矢倉沢往還を通り厚木に抜けると距離的に短縮されるのですが、酒匂から平塚、そして、内陸に道を進めたのは信者との関係や宣時の領地を避けて通ったとも言います。

一七日は海道から北上して用田、飯田、瀬谷(瀬野)に進みます。平塚から北上して坂戸、中原、田村から相模川を渡り、一の宮、倉見、本郷、河内、大矢(谷)、国分寺下、尼寺、そして、座間入谷にて休息されます。ここに建てられたのが円教寺で、佐渡に配流された時にも休息された霊跡です。栗原、鶴間から境川を渡って五貫目の鈴木又兵衛の家に寄ります。矢倉沢街道の道中回所名主で、この鈴木氏の案内で天台宗妙光寺に泊まります。福昌山妙光寺の創建は白雉年中とされる名刹で、住持の文教は聖人の教化により改宗し、蓮昌山妙光寺と山号を改称します。

一八日は鈴木氏の他に飯島氏・北島氏の三人に案内されて、瀬谷から川井、白根、寺山、中山で鶴見川を渡り、佐江戸、大棚、山田、野川、小田中、中原(小杉陣屋)、多摩川の丸子の渡しを経て進みます。早朝に出立したと思われ午の刻(昼ころ)に武蔵国千束郷池上に入り、宗仲の家に荷を下ろし休息します。この時に聖人の好物と言う引きずり豆腐を作ったと言います。一八日の入山会にはこの豆腐汁を供養します。途中、中原街道沿いにある千束池の御松庵に休まれます。この池で足を洗ったことから「洗足池」と称されたと言います。当時の千束池は大きな池でした。池上氏は平将門の乱(九四〇年)の時に京都から来て、千束池の畔に居を構えたことから「池の上(ほとり)」の池上を姓にされます。

池上迄の行程は身延入山の時に通った駿州路ではなく、富士山の北を回る甲州路を経て竹の下まで出て池上に入りました。身延から池上に至る一日の距離は、身延から下山まで四㌔、下山から鰍沢まで二〇㌔、鰍沢から曽根まで一二㌔、曽根から黒駒まで一〇㌔、黒駒から御坂峠を越えて河口まで一六㌔、河口から暮地まで八㌔、暮地から三国峠、明神峠を越え竹の下まで三〇㌔、竹の下から足柄峠を越えて関本まで一二㌔、関本から平塚まで三二㌔、平塚から瀬谷まで二〇㌔、そして、瀬谷から池上まで約三〇㌔の行程です。約一五〇㌔の道中を一一日かけて池上に到着しました。峠や川等の自然状況と北条氏や他宗の迫害を想定していたので、体力の全てを尽くして進まれた道中でした。信徒との再会が気力となりました。道元は晩年の建長五年に京都に戻り没します。聖人が池上に歩まれた理由は法華弘通の責務を果たすことでした。

□『波木井殿御報』(四三三)

○墓所と栗鹿毛の名馬

九月十九日に実長に身延山在山中のお礼と、墓所地としての依頼をされます。本書は興師が代筆されたもので、身延に曽存されていました。『朝師本』『平賀本』等に収録されています。

池上に至る困難な道中を公達に護られて来たことを感謝され、自身の墓所を身延に建てたいこと、また、栗鹿毛くりかげ)の馬の今後の世話についての願いをされます。代筆で判形も自署できない状態でした。最後の書簡となりました。九月二五日に『立正安国論』を講義され公式説法の最後となります。この後、重態になります。(室住一妙著『純粋宗学を求めて』四〇一頁)

「畏申候。みちのほど(道程)べち(別)事候はで、いけがみ(池上)までつきて候。みちの間、山と申、かわ(河)と申、そこばく大事にて候けるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候て、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入候ながら悦存候。さてはやがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば、不ぢやう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ぬる御心ざし申ばかりなく候へば、いづくにて死候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候。又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。ひたち(常陸)のゆ(湯)へひかせ候はんと思候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほかいたはしくをぼへば、ゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら殿もとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候てはをぼつかなくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此とねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申候。恐々謹言。九月十九日。日蓮。進上波木井殿[御侍]所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事、恐入候」(一九二四頁)

茂原は向師に縁のある所です。茂原の領主斎藤兼綱は聖人に帰依し、邸内に堂宇を建て常楽山妙光寺と称しました。天正一九(一五九一)年に藻原寺と改められます。遺言に従い名馬は池上から茂原迄移されます。「馬つなぎの杉」の名残りと乗馬された馬の鞍が保存されています。池上の葬送の時に名馬を誘導したのは亀王童瀧王童です。

○肥立ちの湯

ここに「ひたちのゆへひかせ候はんと思候が」とある文を「常陸湯」と考えましたが、大川善男氏は愛馬の疲れを癒やすための「肥立ちの湯」と指摘します。身延からの長旅で疲れた馬の湯治をされたとも解釈できます。(『日蓮遺文と教団関係史の研究』五四頁)

□『波木井殿御書』(四三四)

 一〇月七日付けにて実長に宛てた書状です。『本満寺本』に収録されています。古来より偽書とされ諸遺文の自叙伝を抜粋した傾向がみられます。しかし、本書の文章は信仰の大きな指針となり読み伝えられてきました。

「波木井殿に対面有しかば大に悦び、今生は実長が身に及程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へ、と契りし事はただごととも覚えず。偏に慈父悲母の波木井殿の身に入かはり、日蓮をば哀れみ給歟。(中略)此則霊山の契り也。
(中略)
日蓮ひとつ志あり。一七日にして返る様に、安房国にやりて旧里を見せばやと思て、時に六十一と申弘安五年壬午九月八日、身延山を立て武蔵国千束郷池上へ著ぬ。釈迦仏は天竺霊山に居して八箇年法華経を説せ給。御入滅は霊山より艮に当れる東天竺倶尸那城跋提河の純陀が家に居して入滅なりしかども、八箇年法華経を説せ給山なればとて御墓をば霊山に建させ給き。されば日蓮も如是、身延山より艮に当て、武蔵国池上右衛門大夫宗長が家にして可死候可。縦いづくにて死候とも、九箇年の間心安く法華経を読誦し奉候山なれば、墓をば身延山に立させ給へ。未来際までも心は身延山に可住候」(一九三一頁)