319.『両人御中御書』~『富木入道殿御返事』  髙橋俊隆

□『両人御中御書』(三八五)

○故大進阿闍梨の坊

 一〇月二〇日に日朗と宗仲の二人に、大進阿闍梨の坊舎の始末についての書簡です。真蹟は二紙二一行、第一紙の始めの行の間に一二字の追い書きがあります。日付、宛名、自著花押があり完存にて京都妙顕寺に所蔵されています。鈴木一成氏は大進阿闍梨の死去が弘安二年八月なので、坊舎を放置して一年以上を経過した書簡とします。また、花押が弘安三年七月二日以後の蕨手後期の形として弘安三年とします。(『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四一四頁)

 

「ゆづり状をたがうべからず。大国阿闍梨・ゑもんのたいう志殿等に申。故大進阿闍梨の坊は各々の御計に有べきかと存候に、今に人も住せずなんど候なるは、いかなる事ぞ。ゆづり状のなくばこそ、人々も計候はめ。くはしくうけ給候へば、べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よしうけ給候き。又いぎ(違義)あるべしともをぼへず候。それに御用なきは別の子細の候か。其子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計として弁阿闍梨の坊へこぼ(毀)ちわたさせ給候へ。心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそをもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して、ひろ(広)く、もら(漏)ずば、諸人の御ために御たからにてこそ候はんずらむめ。ふゆはせうまう(焼亡)しげし。もしやけ(焼)なばそむ(損)と申、人もわらいなん。このふみ(文書)ついて両三日が内に事切て各々の御返事給候はん」(一八〇二頁)

 大進阿闍梨の住坊が放置されたままなので、詳しく調べると日昭に譲っていたことが分かります。早々に解体して日昭の所へ運ぶように指示ます。日昭は譲り状をもって自坊に寄付せよとは言わなかったのです。日朗が宗仲に指示して建材を運び、日昭の坊を広くして参詣に適した状態にするように配慮されたのです。日昭の坊は狭く雨漏りがし修理が必要であったようです。日朗の房舎はそれほど材料を必要とされなかったようです。日朗と宗仲は日昭の甥になります。日昭は兄印東三郎兵衛尉祐信の邸に居住していたと思われます。冬は火災が多く消失したら損害となり恥になるので、両三日のうちに決めて返事をするよう強く述べます。

 

□『刑部左衛門尉女房御書』(三八六)

 一〇月二一日付けにて刑部(ぎょうぶ)左衛門の妻から、母親の一三回忌供養の金銭二〇貫文を受けた返書です。刑部氏は左衛門府の武官と言われ、尾張高木郡に住む篤信の信徒です。『朝師本』に収録されています。

母の追善供養をされた夫人の孝養に感激され母の恩についてふれます。父母の孝養は法華経を読誦することであると述べます。地神は不孝の者を大地に戴くことを嫌い不孝者の住所を揺らすと説かれていること、提婆が不孝であったので大地が割けて無間地獄に落ちたことを挙げます。『涅槃経』に末法はこれに過ぎた不孝者が大地微塵よりも多く生まれ、孝養の者は「爪上の土」よりも少ないと説きます。そして、母親が体に子供を受胎し九ヶ月に及ぶ苦しさ、出産してからの養育の恩を示します。母の大恩は忘れ難いことであるのに、

「而を親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。あたゝかなる夫をば懐て臥ども、こゞへたる母の足をあたゝむる女房はなし。給狐独園の金鳥は子の為に火に入り迦夫人は夫の為に父を殺す。仏の云、父母は常に子を念へども、子は父母を念はず等云云。影現王の云、父は子を念ふといえども、子は父を念はず等是也。設ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども、後生のゆくへまで問人はなし」(一八〇五頁)

 

 親は子供をわが身より大切にするが、子供は父母を粗末にするのが通常であり、まして、後生の末迄も父母に孝養を尽くす者は少ないと述べます。一三回忌の追善を孝養の表れとして称えたのです。

 外典の孝経は今生の孝養を教えるが後生の成仏を知らないこと、内典の中にも人天や二乗となる教えは、成仏を説かないので孝養ではないとします。このままでは目連や釈尊は本当に孝養の人と言えるかを問います。

「目連尊者程の聖人が母を成仏の道に入れ給はず。釈迦仏程の大聖の父母を二乗の道に入れ奉て、永不成仏の歎を深くなさせまいらせ給しをば、孝養とや申べき、不孝とや云べき。而に浄名居士、目連を毀て云、六師外道が弟子也等云云。仏自身を責て云、我則堕慳貪此事為不可等云云。然ば目連は知ざれば科浅もやあるらん。仏は法華経を知しめしながら、生てをはする父に惜み、死してまします母に再び値奉りて説せ給はざりしかば、大慳貪の人をばこれより外に尋ぬべからず」(一八〇七頁)

目連が母を救いきれなかったこと、釈尊が父母を二乗の分限に留め「永不成仏」としたことを追求します。つまり、法華経以外の諸経は阿羅漢・声聞には到達するが成仏ではありません。目連の故事は法華経に入る前のことです。維摩居士から「六師外道が弟子」と揶揄され、これを機に法華経へ進みます。、釈尊は直ちに父母を仏にする法華経を説きませんでした。ですから、釈尊自らが「我則堕慳貪此事為不可」(一八〇七頁)と説いているのです。ここには法華経以外の諸経では成仏できないという前提があります。法華経を説かなければ「本誓」に違背し、全ての人を不孝の罪に堕とすことになります。

そこで、釈尊は本願を満足するため法華経を説きます。この会座に父母はいませんので、父母の滅後であっても方便土にいる父母のために法華経を贈ったと述べます。文証として化城諭品の「是人雖生。滅度之想。入於涅槃。而於彼土。求仏智慧。得聞是経」(『開結』二六一頁)を引きます。これにより父母の成仏を叶え釈尊の孝養の事実としたのです。法華経のみが孝養の教えであることを示されたのです。

「故に仏本願に趣て法華経を説給き。而るに法華経の御座には父母ましまさゞりしかば、親の生れてまします方便土と申国へ贈給て候なり。其御言に云而於彼土求仏智慧得聞是経等云云。此経文は智慧ならん人々は心をとゞむべし。教主釈尊の父母の御ために説せ給て候経文也。此法門は唯天台大師と申せし人計こそ知てをはし候ひけれ。其外の諸宗の人々知ざる事也。日蓮が心中に第一と思ふ法門也。父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給べし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈給て候」(一八〇八頁)

 父母に法華経を読誦してあげることが最上の孝養であると述べます。聖人が出家した目的の一つは父母の成仏でしたので、これこそ心中に第一とする法門であると述べたのです。そして、殊更に父母の孝養を問い糾すのは後悔があったのです。

「日蓮が母存生してをはせしに、仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候があながちにくや(悔)しく覚へて候へば、一代聖教を撿(かんが)へて母の孝養を仕らんと存候間、母の御訪申させ給人々をば我身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間、あらあらかきつけて申候也」(一八〇八頁)

 聖人は父母が生存中に上行自覚の立場から、題目の意義を教え諭したかったと思います。出家として親から離れ世間的には不孝に思えることが多かったのです。父母を慕う聖人の心情と刑部左衛門の女房の孝養心が重なり霊山往詣を述べます。弟子達から教えを聞き学ぶように伝えます。

□『大豆御書』(三八七)

 一〇月二三日付けにて「御所」(おんもと・みもと)から、大豆一石(一八〇㍑)を供養された礼状です。真蹟は一紙一九行にて身延曾存です。供養主は不明です。「御所」とは親王・執権の住居や、そこに住む人を敬う呼称と言います。大豆を「かしこまって拝領」と述べていることは、御所や幕府に仕えている身分の高い方からの供養であったと思われます。大豆一石はかなりの量になります。味噌のようにしたか常食としたかは不明です。弘安期は食料不足であったので僧膳の食料として貴重でした。「法華経の御宝前に申上候」という語例は、弘安期以降に見られ、著述年次を確定する要因となります。大豆一つの尊さを次のように述べます。

「一滞の水を大海になげぬれば三災にも不失、一華を五浄によせぬれば劫火にもしぼまず、一豆を法華経になげぬれば法界みな蓮なり」(一八〇九頁)

一滴の水であっても大海の中に入れば、火災にあっても消失することはない。花は五浄居天に入れば劫火にあっても枯れないとされる譬えを引き、一粒の豆であっても法華経の中に供養されれば、この国土が蓮華のような清浄の仏国土となると述べます。『法華玄義』に「妙報国土を以て蓮華と為すなり」とあり、一石もの大豆を奉納され、その一粒の豆でも法華経に供養した功徳は、妙法蓮華の因果倶時のように仏果に到達されます。

 

□『上野殿母尼御前御返事』(三八八)

○故五郎の四十九日

 一〇月二四日付けにて、時光の母より九月五日に先立った七郎五郎の四十九日に当り、供養として金銭二結、白米一駄、芋一駄、摺り豆腐、こんにゃく、柿一籠、柚子五〇個等を送られてきた返礼の書簡です。三ヶ月前の六月一五日に兄の時光と登詣していました。五郎は夫の兵衛七郎に先立たれた時に懐妊していた子供でした。一六歳という若さでの別れでした。本書には釈尊の教えの中で法華経が最も尊いこと、法華経を信仰した五郎は必ず霊山浄土に参ることを述べます。子供を亡くした母尼の悲しさ歎きに寄り添います。真蹟は全二九紙のうち第二六・二八・二九紙が、愛知県長存寺・富士久遠寺・重須本門寺に保存されています。『朝師本』『本満寺本』『三宝寺本』、金川の『妙覚寺本』に収録されています。

 母尼の手紙に子供の供養のために、法華一部経・自我偈を読誦し題目を数多く唱えたと書かれていました。方便品に「唯仏與仏」とある文から、凡夫には法華経の尊さが分かりにくいが、信じることにより仏になったと述べます。法華第一であることを方便品・法師品・安楽行品・薬王品を引きます。諸経が法華経よりも勝れていると言うのは、民が国王よりも勝れていると言うことと同じで、勝劣を弁えないと罪科になり、師匠・弟子・檀家の全てが悪道に堕ちるのは矢を射るように早いと述べます。

 これとは違い法華経を勝れていると陳べることは大きな功徳となることを、無量義経の「四十余年未顕真実」の文を引きます。この文は大王を警護する将軍のように、敵に対しては大弓で射て追い払い太刀で切り捨てるような「利剣の勅宣」と同じと述べます。それを安倍貞任を義家が攻め、清盛を頼朝が打ち滅ぼしたようなものと例えます。つまり、法華経は諸経の中の最上の教えであることを述べます。

 

「華厳経を読む華厳宗・阿含経の律僧等・観経の念仏者等・大日経の真言師等の者共が法華経にしたがはぬをせめなびかす利剣之勅宣也。譬ば貞任を義家が責め、清盛を頼朝の打失しが如し。無量義経の四十余年の文は不動明王の劔索、愛染明王の弓箭也。故南條五郎殿の死出の山三途の河を越給時、煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて、事故なく霊山浄土へ参らせ給べき御供の兵者は、無量義経の四十余年未顕真実の文ぞかし」(一八一一頁)

 

また、「四十余年未顕真実」の文は、不動明王が悪魔を撃退するために使う剣や索のようであり、愛染明王が悪鬼を退治する弓箭であると例えます。不動明王が持つ剣は悪鬼や魔を退治し羂策は煩悩や罪業を縛るものです。同じく愛染明王の持つ弓と箭は障魔を打ち破り煩悩や罪業を射るとされます。法華経を読誦する者を善神が守護することを述べます。死出の山とは秦広王の所に行く初七日迄の険しい山のことです。三途の河は初江王の所へ行く二七日にある河を言います。この死出の重山を煩悩即菩提として越え、三途の大河を生死即涅槃として渡るのが法華経の信心です。五郎の煩悩や罪業が深く迷っても、三途の道中を護るのは法華経であり、信心が定まっていれば必ず霊山浄土に往詣すると方便品・安楽行品(髻中明珠)の文を引き安心を与えます。

 

「文の心は日本国に一切経わたれり、七千三百九十九巻也。彼々の経々は皆法華経の眷属也。例せば日本国の男女の数四十九億九万四千八百二十八人候へども、皆一人の国王の家人たるが如し」(一八一二頁)

 

七千三百九十九巻と言うのは日本に渡来した経巻のことで、『貞元釈教録』によるものと思われます。一切経の中において法華経は主格であり諸経は眷属と表現されました。四十九億九万四千八百二十八人と言うのは、約五〇〇万人のことです。当時の人口と思われます。これら全ての経巻は法華経に従うものであり、日本の国民の全てが一人の国王の家来であるのと同じでと例えます。武士の妻への内容であることが分かります。

 更に「足代」の例えをもって説明します。足代は一切経で大塔の法華経を説くためのものと述べ、大塔が建立されれば足代を必要としないことが、方便品の「正直捨方便」の文の意味であると述べます。

 

「たとへば大塔をくみ候には先材木より外に足代と申て多の小木を集め、一丈二丈計ゆひあげ候也。かくゆひあげて、材木を以て大塔をくみあげ候つれば、返て足代を切捨て大塔は候なり。足代と申は一切経也、大塔と申は法華経也。仏一切経を説給事は法華経を説せ給はんための足代也」(一八一二頁)

 

 五郎は父親の信仰を受け継ぎ、若年にして法華経の題目を唱えた者であるから成仏は疑いないと述べます。先立つ子供を恋しく思うならば、題目を唱えて父親と同じ所に生まれるよう願うように述べます。同じ題目の種を心に持つならば、亡夫と子供と自分も「妙法蓮華経の国」(一八一三頁)に生まれかわり、三人が再会するであろうから、その時の喜びを楽しみに信心に励むようにと癒します。経文は真実であるから四十九日には、霊山浄土にて諸仏に護念され悦びを享受していると述べます。仏は法華経に命を宿し、法華経のない国には居ないことを心得るよう信心を勧めます。

次いで馬鳴が法華経に七日間、祈念して白鳥を飛び寄せたことを述べます。多寶仏も釈尊が法華経を説いたので証明のため出現したと述べます。このように法華経は不思議な徳を内在しているので、受持の者を天照太神・八幡大菩薩、氏神の富士千眼大菩薩(浅間神社の古名)は守護するとします。逆に法華経を誹謗し行者を迫害する国があれば七難が起きると述べ、蒙古より日本が攻撃されるのは法華経に敵対しているためと述べます。

最後に五郎の四十九日に当たり老いた母親の悲しさを切々と語ります。五郎が信じた法華経を同じく信じたら、霊山浄土にて会えると述べます。父親は霊山浄土にいて母親は娑婆に留まり、両親の中間にいる五郎の心中もさぞ辛く悲しいであろうと述べます。幾重にも母親の心中を察している上野氏一族との親密さが窺えます。

 

「抑故五郎殿かくれ給て既に四十九日也。無常はつねの習なれども此事うち聞人すら猶忍びがたし。況や母となり妻となる人をや。心の中をしはかられて候。人の子には幼きもあり、長きもあり、みにくきもあり、かたわなるもある物をすら思になるべかりけるにや。をのこご(男子)たる上、よろづにたらひ(足)、なさけあり。故上野殿には壮なりし時をくれて歎き浅からざりしに、此子を懐妊せずば火にも入り水にも入んと思しに、此子すでに平安なりしかば誰にあつらへて身をもなぐべきと思、此に心をなぐさめて此十四五年はすぎぬ。いかにいかにとすべき。二人のをのこごにこそにな(荷)われめと、たのもしく思ひ候つるに、今年九月五日、月を雲にかくされ、花を風にふかせて、ゆめ(夢)かゆめならざるか、あわれひさしきゆめかなとなげきをり候へば、うつゝににてすでに四十九日はせすぎぬ。まことならばいかんがせんいかんがせん。さける花はちらずして、つぼめる花のかれたる。をいたる母はとどまりて、わかきこはさりぬ。なさけなかりける無常かな無常かな。かゝるなさけなき国をばいといすてさせ給て、故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給て、常住不壊のりやう山浄土へとくまいらせさせ給へ。ちゝはりやうぜんにまします。母は娑婆にとどまれり。二人の中間にをはします故五郎殿の心こそをもいやられてあわれにをぼへ候へ。事多と申せどもとどめ候了」(一八一六頁)

 

○八幡宮の火災

 一〇月二八日に鎌倉に大火災があります。中の下馬橋付近から火災が起き、八幡宮の東側の頼朝の廟所と、そこから近い義時の墓も類焼します。鎌倉の中心部に起きた火災でした。八幡宮では神宮寺と千体堂で済みました。ところが一一月一四日亥の刻午後九時から一一時までの間)に火災が起きます。これにより八幡宮の上宮・下宮が消失します。「火本は大學厨子、三ヶ度の炎上に大略残る所無し」(『鎌倉年代記』)とあります。将軍の御所は火災を逃れましたが、頼朝の廟所と承久の乱後の武家政権を創った墓所が焼けたことに人々は動揺していました。そこへ幕府の守護神を祀った鶴岡八幡宮が炎上したことは、蒙古の日本進攻の不安と重なり人々の動揺は大きくなります。朝廷は引き続き蒙古退治の祈願を命じています。

 

□『富城入道殿御返事』(三五一)

○富木尼の病気の経過

 一一月二五日付けにて常忍に宛てた書簡です。来年三月料分の「不断法華経」(一七一〇頁)の布施三貫文と米二斗を受け取ったことを記します。法華経不断読誦会は一例に日時(正月三ヶ日)を決めて七二時間、法華経を読誦することを言います。常忍の妻は文永一二年頃より体調を崩していました(『可延定業御書』八六一頁)。妻の長寿を善神に祈願したことを、尼御前に伝言するように述べています。不断法華経」の供養が絶え間なく届けられていたことが分かります。降雪にて身延への道が閉ざされることを考えて、早めの送金であったと思われます。

真蹟は二紙完存にて平賀本土寺に所蔵されています。『定遺』は「富城入道」の表記は弘安二年以前の書状には見えないこと、本文中に富木尼の病にふれていること、そして、花押の形態から弘安二年とします。『対照録』は本書と『富城殿女房尼御前御書』(三五二)・『兵衛志殿女房御返事』(三五三)・『太夫志殿御返事』(三九六)の四通を、弘安三年一一月二五日の同日の書状とします。(岡元錬城著『日蓮聖人の御手紙』第三巻二〇一頁)。ここでは『対照録』に従います。弘安二年一〇月一五日は熱原の三人が斬首された日です。本書を弘安二年とすると、それから四〇日程で日弁と日秀を常忍の元に送ったことになります。一七名が釈放され熱原に帰郷したのを一一月初旬として、直ぐに下総へ逃避したことになります。苅田狼藉の首謀者とされた二人は、無実を知らせるため残留し弘教していたと思います。事件後の翌弘安三年七月迄、時光は神主を保護しています。(『上野殿御返事』一七六六頁)。一二月には多額の課税に困窮していたことからも、弘安三年の一一月に熱原近辺を離れたと思われます。

 

―富木尼の病気―

 文永一一年一〇月頃に病気となる。翌年一月頃悪化。建治二年三月末まで延引した。

一六三『可延定業御書』(八六一頁)     文永一二年二月           「病軽重事」(『常師目録』)

二一一『富木尼御前御書』(一一四八頁)   建治二年三月 

三五一『富城入道殿御返事』(一七一〇頁)  弘安三年一一月二五日
『定遺』弘安二年)「尼公所労祈于天由」 

三五二『富城殿女房尼御前御書』(一七一〇頁) 弘安三年一一月二五日
(『定遺』弘安二年)「可置越後房下野房由事」

三六四『富城入道殿御返事』(一七四六頁)  弘安四年四月一〇日 
(『定遺』弘安三年)「尼公所労御歎由事」

三八九『富木殿御返事』(一八一八頁)    弘安四年一一月二九日
『定遺』弘安三年)「尼公所労伊予棒令祈由事」

                       「尼公延命事」不明