317.『千日尼御返事』~『盂蘭盆御書』   髙橋俊隆

□『千日尼御返事』(三七一)

○阿仏房の聖霊

 七月二日付けにて阿仏房の一周忌に登詣した藤九郎守綱に託して千日尼に宛てた書間です。真蹟は二三紙完存にて佐渡妙宣寺に所蔵されます。藤九郎は母より預かった金銭一貫五百文・のり・わかめ・ほしい(干飯)等を持参しました。第一紙は七行、第二紙は十行と大きめな文字で書き進めます。第十九紙の安足王が人を馬にした譬の所は他筆にて文章を補っています。これは読み易くするためと思われ一四ヶ所みられます。日付、花押の後に「故阿仏房尼御前御返事」と書かれています。

 阿仏房の成仏と孝行な子供に恵まれたことを述べ千日尼の心を慰めています。始めに方便品の「若有聞法者無一不成仏」(『開結』一一四頁)、妙楽の『釈籖』「若弘(依)法華 凡消一義 皆混一代 窮其始末」を引いて、「若有聞法者無一不成仏」の文字は十文字であるが、釈尊一代の諸経を読まなくても、法華経の一句を読んだだけで一切経の全てを読んだのと同じ功徳があるとします。(『維摩疏』「小則容大如尺面之鏡大像亦現))

「但法華経の一字一句よみ候へば、彼々の経々を一字もをとさずよむにて候なるぞ。譬へば月氏・日本と申は二字。二字に五天竺・十六の大国・五百中国・十千の小国・無量の粟散国の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし。譬へば鏡はわづかに一寸二寸三寸四寸五寸と候へども、一尺五尺の人をもうかべ、一丈二丈十丈百丈の大山をもうつすがごとし。されば此の経文をよみて見候へば、此の経をきく人は一人もかけず仏になると申文なり」(一七五九頁)

法華経受持の功徳を示して「受持成仏」、聞法による「聞法下種」など、法華開会による悉皆成仏を示しています。日本の二文字に全国を収め、鏡は小さくても人の姿や大きな山を映すように、法華経の明鏡に入れば一人も欠けずに映ることを例えにして「無一不成仏」を説きます。九界六道の人の顔が違い好みや価値観は違うけれど、法華経の信仰に入れば全ての人は同じ仏になると述べます。多くの川の水が大海に入り同じ塩味となり、多くの鳥が須弥山に近づけば金色の一色となることと同じである(『大智度論』)と例えます。また、法華経には罪の提婆達多も十大弟子の羅睺羅も同じく仏となりました。邪見を持っていた妙荘厳王も智慧第一の舎利弗も同じように成仏が保証されました。法華経は成仏を実証した教えなのです。そして、千日尼と阿仏房はもと念仏の信者であったので弥陀信仰では成仏できないことを諭します。 

「四十余年の内阿弥陀経等には舎利弗が七日の百万反大善根ととかれしかども、未顕真実ときらわれしかば七日ゆ(湯)をわかして大海になげたるがごとし。ゐ(韋)提希観経をよみて無生忍を得しかども、正直捨方便とすてられしかば法華経を信ぜずば返て本の女人なり。大善も用事なし。法華経に値ずばなにせん。大悪もなげく事なかれ。一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。此等皆無一不成仏の経文のむなしからざるゆへぞかし」(一七六〇頁)

千日尼達は長年のあいだ念仏を称え大善の功徳を積んできたと思っていました。聖人は爾前経は方便の教えであるから大善を修めても無益とします。しかし、謗法の大悪を犯しても嘆かずに法華経を信仰すれば提婆達多のように成仏できると教えます。そして、阿仏房の聖霊はどこにいるかの疑問に答えます。

「されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑とも、法華経の明鏡をもつて其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝仏の宝搭の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(一七六一頁)

 阿仏房は釈尊・多寶仏・十方諸仏の実語であるから、同じ霊山浄土の多宝仏の宝搭の内にいると述べます。釈尊は霊山においては東面して法華経を説きました。インドでは東を尊い方向としました。多宝仏は東方宝浄世界より涌現します。このとき多宝塔は東にあり西に向いています。宝塔内の釈迦・多寶の二仏は東に並座しています。阿仏房はこの宝塔内に対座されていると述べ、霊山浄土に往詣した姿を「寂光の浄土」にいると述べます。もし虚妄となるならば十方の諸仏は大妄語の罪により無間地獄に堕ちるとまで述べます。

そして、阿仏房亡き後の夫への渇仰の思いを名文にて綴ります。 

「さては、をとこははしら(柱)のごとし、女はなかわ(桁)のごとし。をとこは足のごとし、女人は身のごとし。をとこは羽のごとし、女はみ(身)のごとし。羽とみとべちべちになりなば、なにをもんてかとぶべき。はしらたうれなばなかは地に堕なん。いへにをとこなければ人のたましゐなきがごとし。くうじ(公事)をばたれにかいゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たがいしをだにもをぼつかなしとをもいしに、こぞの三月の二十一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆる事なし。今年もすでに七つき(月)になりぬ。たといわれこそ来らずとも、いかにをとづれはなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし菓も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入て又いでぬ。雲はきへて又来る。この人の出でゝかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をらうれう(粮料)とたのみまいらせさせ給て、りやうぜん浄土へまいらせ給て、みまいらせ給べし」(一七六二頁)

 夫を失い魂が抜け公事の心労を心配されます。春や秋の季節は変わらずに巡って来るのに、どうして阿仏房は千日尼のもとに戻らないのか。天も恨めしく地も歎かわしく思っていることでしょう。ですから急ぎ急ぎ法華経を旅の食糧とされ霊山浄土へ行き阿仏房に会われるとよいと慰め、浄土にて再会することを勧めたのです。

 次に子供は仇であるとする経文と、子供は宝(財)であると言う経文を引きます。千日尼の子供は孝養心の深いことを知らせるためです。『心地観経』に「世の人は子のために多くの罪を造り、三悪道に落ちて長く苦しみを受ける」の文を引きます(熊鷹)や鷲の親は雛を可愛がりますが、育った子は還って親を食物とします。梟鳥も生まれると母を食する例を挙げます。人の中にも畜生と同じ親不孝な者がいるとして、インドの玻瑠璃(はるりおう)が強引に父波斯匿王の位を奪い取ったこと。阿闍世王が父の頻婆沙羅王(びんばしやらおう)を殺したことを挙げます。中国の安禄山と言う逆臣は養母の楊貴妃を殺し大燕国皇帝と自称します。しかし、その子の安慶緒により殺されます。その安慶緒も子の史師明に殺され、その史子明はまた史朝義という子に殺されます。釈尊の前生での子である善星比丘は、苦得外道と計略を廻らし父の釈尊を殺そうとした例を挙げます。子は敵である例を挙げました。

孝養の例として安足王が人を馬にした伝説を述べます。『心地観経』に「その男女追いて福を修すれば大光明有りて地獄を照らし、その父母に信心を発さしむ」の文を引きます。これは、追善供養をする功徳により大光明が地獄を照らし、その人の父母を仏道に導いたと説く経文です。世間にも孝養の深い例があるとして、インドの安足王を挙げます。王は馬を愛好して遂には人を馬としました。他国の商人をも馬とします。故国ではその商人の一子が父を捜すため旅の仕度をします。母は一人になると嘆きますが安足国まで尋ねて行きます。小さな家に宿を借りたところ馬にされた商人が馬屋に繋がれていると話します。その馬は栗毛で肩に白い斑があると聞きます。子は王宮に入り葉の広い薬草を馬になった父に食べさせ元に戻します。これを知った大王は子の孝養心に感動して人を馬とすることを止めたと言う話です。ここでは、本当に親思いの子でなかったならば、危険な他国へまで父を探しに行くことはないことです。また、目連尊者は餓鬼道に落ちた母の苦しみを救い、浄蔵・浄眼の兄弟は父妙荘厳王の邪見を改めさせたことを挙げて、子が親の財宝となることを示されます。阿仏房も孝養の深い藤九郎と言う子供を持ったと述べ、同じく法華経の行者であると褒めます。

更に阿仏房は北海の島の夷の身分の者であるが、法華経の教えを聞いて出家したことを述べます。

「而に故阿仏聖霊は日本国北海の島のえびすのみ(身)なりしかども、後生ををそれて出家して後生を願しが、流人日蓮に値て法華経を持、去年の春仏になりぬ。尸陀山の野干は仏法に値て、生をいとひ死を願て帝釈と生たり。阿仏上人は濁世の身を厭て仏になり給ぬ。其子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利を頚に懸、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登て法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登て慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財なし子にすぎたる財なし」(一七六五頁) 

 阿仏房夫妻の給仕は周知のことですが、藤九郎も同じく帰依し親子揃って信仰をされていたのです。藤九郎は入道して後(のちの)阿仏房と呼ばれました。孫の興円が佐渡阿闍梨日満です。日満は日興の弟子になり、元弘二(一三三二)年七月に旧地新保の阿仏房を現在地に近い真野竹田に移し、妙満寺の基礎を作ります。同年一〇月一六日に日興より置状『定補師弟並別当職事』を受け北陸七ヶ国の大別当となります。

 追伸に絹の袈裟を一領送られたと書かれています。この袈裟「宗祖常用の袈裟」(宗宝)阿仏房妙宣寺に格護されており、千日尼に生き形見として与えたとされます。(『日蓮宗寺院大鑑』六二七頁)。豊後房は千日尼の近辺にいて佐渡・北陸方面の布教をされ、佐渡の門下を統率し指導していました。その豊後房に北陸道の教化をするには学問が足らないので、九月一五日迄に急いで登詣するように命じます。台密に対応した教えや『観心本尊抄』等の深い教義理解を教えるためと思われます。丹波房は同地近隣から経典類の収集のため身延から派遣されており、記録した聖教を預けるように指示します。丹波房は日秀と言い上総墨田郷の高橋次郎時忠の第二子です。『本化別頭仏祖統紀』に上総妙満寺の開山とあります。山伏房は流罪中の弟子で修験僧と言います。身延へ呼び千日尼から手厚い庇護を受けていることを感謝します。

 追伸は二三紙の本文に書かれ、余白とその上下に弟子への指令があります。「こう入道の尼ごぜんの事」の本文四行は第一紙の端書になります。この時に国府入道の妻が逝去したことが窺えます。夫の国府入道に聖人が嘆き悲しんでいると伝えるよう依頼します。(北川前肇著『日蓮聖人からの手紙―身の財より、心の財第一なり』所収六七頁)。阿仏房夫妻と国府入道夫妻は聖人を命がけで護った人です。夫達は身延入山の聖人を訪ねた人でした。特に国府夫妻には子供がいないので、老後には身延に来て暮らすようにと案じていました。(『こう入道殿御返事』九一四頁)。この後、佐渡の弘教は後阿仏守綱が中心となります。康永二(一三四三)年八月一五日に八九歳にて没します。

 

□『上野殿御返事』(三七二)

○熱原新福地社の神主

七月二日付けにて時光に宛てた書簡です。真蹟は初めの三紙と追い書き一行の断片が大石寺に所蔵されています。去る六月一五日に身延に登詣した時光との再会を悦ばれます。前年九月の熱原法難より神主を自邸にて保護しましたが、匿いきれないようなら身延へ避難させるよう指示します。時光は熱原の状況と今後の対策を相談されたのです。神主とは日興の『本尊分与帳』にある、「冨士下方熱原新福地」社である熱原浅間神社の神職のことです。日秀の弟子となっている関係から妻子には危害が及ばないであろうから、事件が沈静するまで時光の所に預かって欲しいと依頼します。

「去六月十五日のけさん悦入て候。さては、かうぬし(神主)等が事、いまゝでかゝへをかせ給て候事ありがたくをぼへ候。たゞし、ないないは法華経をあだませ給にては候へども、うへにはたの事によせて事かづけ、にくまるゝかのゆへに、あつわら(熱原)のものに事よせて、かしここゝをもせかれ候こそ候めれ。さればとて上に事をよせてせかれ候はんに、御もちゐ候はずは、物をぼへぬ人にならせ給べし。をかせ給てあしかりぬべきやうにて候わば、しばらくかうぬし等をばこれへとをほせ候べし。めこ(妻子)なんどはそれに候とも、よも御たづねは候はじ。事のしづまるまで、それにをかせ給て候わば、よろしく候なんとをぼへ候」(一七六六頁) 

この頃も行智や政所から弾圧されていたのです。頼綱は信者を排除すべく陰険に企てます。時宗の意に反するため露骨にできないのです。方々の熱原の信者に難癖をつけており、その弾圧が時光に及ぶことを心配されます。国権に責められた時に無闇に抵抗するのは物事を知らないことで、世渡りの下手な人の仲間入りをすると警告します。弾圧に対する処世の仕方を教えます。時光は租税の過分な取り立てや人足の割り当てを課せられていました。乗る馬もなく家族は衣食にも困窮していた苦しい立場が窺えます。そこで妻子には危害が及ばないので、一先ず神主らを身延へ預けるように述べたのです。

 世間は身分の上下に拘わらず誰しもが悲しみや苦しみを持っていると述べます。雉が鷹を恐れ餓鬼が毘沙門を頼みにするが、その鷹も鷲に襲われ毘沙門も修羅に攻められるとして、誰もが安心できない世情を例えます。幕府の高官が蒙古の襲来に怯えているのもその一つであるとします。 

「そのやうに当時日本国のたのしき人々は、蒙古国の事をきゝてはひつじの虎の声を聞がごとし。また筑紫へおもむきていとをしきめ(妻)をはなれ、子をみぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうやかの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、はうちやうし(庖丁師)がまないた(爼)にをけるこゐふなのごとくこそおもはれ候らめ」(一七六七頁)

蒙古の噂を聞くと羊が虎の吠える声を聞いて恐怖を抱くようなもの。九州へ派遣される武士は、皮を剥ぎ身を破るような妻子との別離の悲しみでした。蒙古の強い軍隊や兵器に襲われたなら、蛇の前の蛙のように竦み俎上に乗せられた鯉鮒のように簡単に攻め滅ぼされると述べます。そして、弾圧する者は今は権力を行使しているが、死後に一三六の地獄に堕ち永遠の苦しみに彷徨うと述べます。一三六の地獄とは八大地獄にそれぞれ一六の小地獄があり一二八となります。それに八大地獄を加えたのが一三六地獄です。これは最も罪の重い者が堕ちる地獄です。それに比べれば法華経の信者は今生の小苦は後生善処の楽しみになると励まします。 末尾に、この書簡は他見させないで内密に神主たちを身延に寄こすようにと指示します。熱原法難の逼迫した影響が続いていることが窺えます。

「我等は法華経をたのみまいらせて候へば、あさきふちに魚のすむが、天くもりて雨のふらんとするを、魚のよろこぶがごとし。しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし。国王一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ。(中略)人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし」(一七六七頁)

 

□『浄蔵浄眼御消息』(三七三)

 七月七日付けにて松野氏から生米一俵・瓜籠一個・根芋等の供物を奉納された礼状です。写本は鳴滝の三宝寺に伝えられています。系年に弘安二年説があります。本書に甲斐公(日持)の名前があることから、親の松野氏へ宛てたとされます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二四巻二七三頁)

 まず、楽徳長者と使用人の往事を挙げます。酷使された使用人は後に他国の関白となり自国を討ち取ります。長者は恐れ悔い財物を献上し命乞いをします。これを第六天の魔王と私達の関係に置き換えて説明します。つまり、第六天の魔王の「相伝の者」が法華経を信じ「仏の御子」となれば梵天帝釈が守ります。魔王は法華経・釈尊を恐れるので供養をすることに例えます。しかし、これが嫌なため六道の衆生を何としても法華経を信じないように画策していると捉えます。このように魔王が邪魔をしているのに、幾たびも供養することは釈尊が松野氏の身体に入れ替わったように尊いと述べます。

 また、親より先立つ子息が父母を導くため心に入ったと述べます。妙荘厳仏は浄蔵と浄限の二人の子供に導かれて法華経に入信したことを重ね合わせます。甲斐公が容姿も性格も智慧も人より勝れていたと悲しみ、深く考えれば亡き子が母を入信させ、父を追善供養を大切に志す後世者としたとの話しを伝えます。

「甲斐公が語りしは、常の人よりもみめ形も勝れて候し上、心も直くて智慧賢く、何事に付てもゆゆしかりし人の、疾はかなく成し事哀れさよと思ひ候しが、又倩思へば、此子なき故に母も道心者となり、父も後世者に成て候は、只とも覚え候はぬに、又皆人の悪み候法華経に付せ給へば、偏へに是なき人の二人の御身に添て勧め進せられ候にや、と申せしがさもやと覚え候。前々は只荒増の事かと思て候へば、是程御志の深く候ひける事は始て知て候。又若やの事候はば、くらき闇に月の出るが如く、妙法蓮華経の五字、月と露れさせ給べし。其月の中には釈迦仏・十方の諸仏乃至前に立せ給ひし御子息の露れさせ給べしと思召せ」(一七六九頁)

これ迄の供養は儀礼的なことと思っていたが、深い信心であることを知ったと述べます。心の籠もった志を感じたのでしょう。二人に不測の事が起きたら、闇夜に月が出たように妙法蓮華経の五字が月となって周りを照らし、その月の中には釈迦仏や十方の諸仏と子息も現れ、霊山浄土に導くと述べます。

□『盂蘭盆御書』(三七四)

 七月一三日付けにて治部房の祖母(妙位尼)から、米一俵・焼き米・うり・なすび等を供養された礼状です。盂蘭盆に当たり祖先供養の品々を送り盆の由来を尋ねます。目連尊者の母救済の由来を述べて、法華信仰の功徳と治部房出家の功徳を述べます。真蹟一七紙は京都妙覚寺に所蔵されています。『対照録』(中巻二四六頁)は弘安二年とします。国の重要文化財になっています。治部房(一二五七~一三一八年)は中老の一人で日位のことです。駿州菴原郡の南条七郎の子息とされます。蒲原四十九院の住侶をしていたのを、日持の教化により弘安元年に帰依したとされ、後に静岡県池田の本覚寺を開創し、清水市村松の海長寺を改宗して開山となります。

 題号が示すように、目連が神通力を得て母の没後の様子を見ると餓鬼道に堕ちて苦しんでいました。施餓鬼と僧侶を供養する盂蘭盆の意義を示します。母の青提女は「慳貪の科」(一七七一頁)により餓鬼道に堕ちます。十方の聖僧を集めて飲食供養すると苦しみが一劫、減じたと『盂蘭盆経』に説かれています。続いて目連と言う聖人でも母を救えず、まして今の戒律を持つと人を誑惑している僧は、母親の一苦をも救えないと述べます。明らかに良観達を指すと思われます。目連が母を救えなかった理由を浄名(維摩)居士の故事を挙げて説明します。

「せんずるところは目連尊者が乳母の苦をすく(救)わざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申持斉にてありしゆへ(故)ぞかし」(一七七三頁)

そして、目連は法華経の会座に来て自身が仏に成り父母を救えたこと、法華経が成仏を約束する経力を有していることを述べます。

「詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。しかるに目連尊者と申人は法華経と申経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立どころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申。此時こそ父母も仏になり給へ。故法華経に云我願既満衆望亦足云云。目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(一七七四頁)

 平清盛が慢心により東大寺・興福寺を焼却し僧侶を殺した罪により、熱病に罹り苦しみ狂死したことを挙げます。(南都焼討)。清盛の罪は自身のみならず、宗盛・知盛・重衡等の平氏一族が滅亡した事例を挙げ、悪業の因縁は子供や孫も被ることを示します。法華信仰の大善も同じように子孫七代が仏と成るとして、化城喩品の「願以此功徳」の文を引き成仏の得果を教えます。

 法華信仰の功徳は祖先七代、子孫七代に及ぶことを前提に、治部房は未熟な僧であるが法華持経の孫により無上の宝珠を得たと讃えます。

「されば此等をもつて思に、貴女は治部殿と申孫を僧にてもち給へり。此僧は無戒也無智なり。二百五十戒一戒も持ことなし。三千の威儀一も持たず。智慧は牛馬にるいし、威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。例せば虵(蛇)の珠をにぎり、龍の舎利を戴けるがごとし。藤は松にかゝりて千尋をよぢ、鶴は羽を恃て万里をかける。此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし。我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかゝりて妙覚の山にものぼりなん。一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。此の羽をもて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。あわれいみじき御たからはもたせ給てをはします女人かな。彼の龍女は珠をさゝげて仏となり給。此女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給べし。事々そうそう(怱々)にて候へばくはしくは申さず、又々申べく候」(一七七五頁)

 冶部房は無戒であり智慧も劣っているが、釈迦仏・法華経を信じることは、蛇が珠を握っているようであり、竜が法身の舎利を戴いているようなものと譬えます。藤の弦は松に掛かって千尋の谷をよじ登り、鶴は羽を頼りに万里もの遠くを飛ぶと述べます。これは法華経を持つ功徳を説いています。この功徳により妙覚の山に登り仏と成ります。法華経の羽により寂光の空を飛ぶことができ、この羽は父母・祖父母から七代の子孫の菩提を弔うと述べます。孫の治部房は尊い宝物と悦ばれたのです。提婆品の竜女は宝珠を釈尊に捧げて仏と成られたように、姥御前は孫を法華経の行者とされ、その孫に導かれて成仏すると諭します。