315.『上野殿御返事』~『かわいどの御返事』        髙橋俊隆

◎五九歳 弘安三年 (一二八〇年)

フビライは日本侵略のために遠征行省を設けます。司令部の将軍に忻都・洪茶丘・范文虎を任命し、高麗には金方慶に出兵を命じました。日本遠征は翌年一月の予定で船舶や兵糧の準備を始めていました。この情報は商船によって日本に伝わり、朝廷・幕府は二月に社寺に対し敵国降伏の祈祷を命じます。七月二九日に朝廷は元の牒状を評定し処置を幕府に委ねます。幕府は元使を博多にて処刑します。(『勘仲記』『関東評定衆伝』)。一〇月二四日に幕府の武士は鎮西下向のため上洛します。(『帝王編年記』)。一二月に幕府は鎮西守護・御家人に蒙古からの外寇に備えさせます。

 

□『上野殿御返事』(三五九)

○元三の奉納

一月一一日付けにて時光から正月の元三に当り、蒸し餅六〇枚、清酒一筒、山芋五〇本、柑子二〇個、串柿一連を供養され、法華経の御宝前に飾り供えたことを知らせます。供養の功徳を次のように譬えます。

「春始三日種々の物法華経御宝前に捧候畢。花は開て果となり、月は出て必ずみち、燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。其上元三の御志元一にも超へ、十字の餅満月の如し」一七二九頁)

花は咲いて果実を結び月は一夜ごとに満ちます。灯に油を足せば明るさを増します。草木は雨が降ると勢いよく伸びます。このように善根を行うと人生が栄えると述べ志を悦びます。元旦(元一)にも供物を届け、正月三日(元三)にも供物を供えています。

一月五日に相股村史正左衛門の妻薩華優婆が児を懐いて登詣します。鎌倉より身延へ入る道中の相又村で、薩花正左衛門夫妻と出会い粟飯の供養を受けていました。夫妻は身延で最初の信者と言います。庄左衛門の妻は難産に苦しんでいましたが、聖人に安産の祈願を頼み無事出産していました。その翌年に夫が死去したため安産のお礼と夫の菩提を弔うために登詣しました。そして、仏門への願いを受け入れ高峯院妙了日仏、その子を是好麿と名付けます。

下之坊の地を賜り弘安五年に下山するまで身辺で衣食の世話をしたと言います。粟冠の姥と呼ばれ八役給仕の誠を奉じたと称されます。自筆のご本尊を二幅授与されています。下之坊は文永一一年九月八日に建てられます。草庵に弟子や信者が集まるようになり宿舎としての役割を持ちました。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一五六頁)。

 

□『秋元御書』(三六〇)

○器の四失と与同罪

 一月二七日付け秋元太郎への書簡です。漆塗りの竹筒形の御器一具三〇個と、盃(皿)六〇枚を送られ、供養の謝礼と功徳を説きます。筒御器は水や酒、油、酢を入れる容器です。盃も奉納されていますので神仏に供えるため、また、参詣者を労う御酒に用いたと思います。『筒御器鈔』とも称し『朝師本』に収録されています。

 秋元太郎は下総の印旛郡白井荘白井市に住み藤原勝光、後に太郎左衛門と称します。松葉ヶ谷法難(文応元年八月二七日)を逃れ常忍の元にて百日百座の説法をした折りに入信したと言います。若宮の奥之院は常忍の居宅の跡で初転法輪の道場と称します。秋本太郎と常忍、乗明、教信と親しいことは『秋元殿御返事』(四〇六頁)、『慈覚大師事』(一七四一頁)に見えます。

本書は謗法を黙視することは与同罪であり、不惜身命の覚悟をもって訶責すべき信心を教えます。受領した漆塗りの(「漆浄く候へば」一七三一頁)御器に因んで、器は大地の窪み水が溜まると池のようになり、月を映すのは我等の肉親に法華経の功徳が入るのと同じであると譬えます。逆に器は四つの欠点があるとして覆・漏・汙・雑の四失を挙げます。覆とは伏せたり蓋をしていることです。漏とは水が漏れることです。汗(う)は汚れていること、雑とは飯に砂や土が入っていることを言います。つまり、器として役に立たないことで、これを成仏を妨げる理由とします。

「器は我等が身心を表す。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。法華経と申は、仏の智慧の法水を我等が心に入ぬれば、或は打返し、或は耳に聞じと左右の手を二の耳に覆ひ、或は口に唱へじと吐出しぬ。譬ば器を覆するが如し。或は少し信ずる様なれども又悪縁に値て信心うすくなり、或は打捨、或は信ずる日はあれども捨る月もあり。是は水の漏が如し。或は法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申は、飯に糞を雑へ沙石を入たるが如し。法華経の文に但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈等と説は是也」一七三〇頁)

覆した器のように法華経を信じようとせず、聞くことも口に唱えようとしない者を譬えました。漏とは少し信じても悪縁によって捨て去ることを言います。汙とは邪教により汚れていることです。雑とは念仏信仰を捨てずに題目を唱えることで飯に砂を混ぜる信仰を言います。つまり、法華経を信じない行為を器が用をなさない四失に譬えたのです。譬喩品(『開結』一七四頁)の「不受余経一偈」の文は、他経を混ぜてはいけないと言うことです。特に種・塾・脱の三益における下種にふれ、これを法華経の大事な肝心であると述べます。

 

「世間の学匠は法華経に余行を雑ても苦しからずと思へり。日蓮もさこそ思候へども、経文は不爾。譬ば后の大王の種子を孕めるが、又民ととつげば王種と民種と雑て、天の加護と氏神の守護とに被捨、其国破るゝ縁となる。父二人出来れば王にもあらず、民にもあらず、人非人也。法華経の大事と申は是也。種・熟・脱の法門法華経の肝心也。三世十方の仏は必妙法蓮華経の五字を種として仏に成給へり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。真言五戒等も種ならず。能々此事を習給べし。是は雑也」(一七三一頁)

と、妙法蓮華経の五字でなければ仏種とならないとします。法華経の大事はここにあると述べ、その他は雑種であると排斥します。完器ならば水が失せないように、五字を受持するならば、宝塔品に「平等大慧 教菩薩法 仏所護念」と説いた釈尊の平等の智水は枯れないのです。この御器は特別に固く厚く漆も清く施されていることから、秋元太郎の信心も堅固で清浄であることを顕していると褒めます。この功徳は毘沙門天や浄徳夫人の供養心と同じであるから成仏も疑いがないと述べます。

 次に日本国に十の名前があることと男女の人数を挙げ、男の中でも国中から憎まれた第一であると述べます。その理由は四箇格言を標榜したためで、それにより自身の流罪のみではなく信者も所領を剥奪され過料を徴収され、しかも、信徒を殺害した者に褒美を与えていると暴露します。

 

「而を日蓮一人、阿弥陀仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗持斉等は国賊也と申故に、自上一人至下万民父母の敵・宿世の敵・謀叛・夜打・強盗よりも、或は畏、或は瞋、或は罵、或は打。是を・者には所領を与へ、是を讃る者をば其内を出し、或は過料を引せ、殺害したる者をば褒美なんどせらるゝ上、両度まで御勘気を蒙れり。当世第一の不思議の者たるのみならず、人王九十代、仏法渡ては七百余年なれども、かゝる不思議の者なし。日蓮は文永の大彗星の如し、日本国に昔より無き天変也。日蓮は正嘉の大地震の如し、秋津洲に始ての地夭也」(一七三二頁)

 どれほど憎まれたかを、日本に二六人の謀反人がいたが、これらの罪人でも聖人よりも憎まれた人はいないと述べます。憎まれる理由は「法華最第一」を蔑視し謗法が充満したため国が滅びる。それを止め末法正意の法華経を宣布しようと他宗の僧侶を批判したためです。

 次に法華経を修学する者の心得に三義あるとして、謗法の人・謗法の家・謗法の国を挙げます。法華経の教えに背反することは謗法になることを教えます。謗人は戒律を持っていたが、大乗を誹謗して無間地獄に堕ちた勝意比丘・苦岸比丘・無垢論師・大慢婆羅門を指します。また、弘法・慈覚・智証も法華経を誹謗した者であるから、讎敵(しゅうてき)となって無間地獄に堕ちたとします。ここで聖人は法華誹謗の者を破折しなければならないと述べます。それが仏使としての責務であり、その活動をしないと謗法の人となり大怨敵となると述べます。 

「勝意比丘・苦岸比丘・無垢論師・大慢婆羅門等が如し。彼等は三衣を纏身。一鉢を当眼、二百五十戒を堅く持て、而大乗の讎敵と成て無間大城に堕にき。今日本国の苟萌・慈覚・智証等は持戒は如彼等智慧は又彼比丘に不異。但大日経真言第一、法華経第二第三と申事、百千に一も日蓮が申様ならば無間大城にやおはすらん。此事は申も恐あり。増て書付までは如何と思候へども、法華経第一と披説候に、是を二三等と読ん人を聞て、恐人恐国不申、即是彼怨と申て、一切衆生の大怨敵なるべき由、経と釈とにのせられて候へば申候也。不恐人不憚代云事我不愛身命但惜無上道と申は是也。不軽菩薩の悪口杖石も非他事。非不恐世間唯法華経の責の苦なれば也。例せば祐成・時宗が大将殿の陣の内を簡ざりしは、敵の恋しく恥の悲しかりし故ぞかし。此は謗人也」(一七三三頁)

 法華色読の経文のように、不軽菩薩が軽毀されても世間を恐れずに弘教したのは、謗法の罪の責めを恐れるためであると述べます。例えとして、曾我祐成(一一七二~九三年)と時致(ときむね。一一七四~九三年)の兄弟が、安元二(一一七六)年に父河津祐泰が工藤祐経に殺された事件があります。長じて建久四(一一九三)年に、頼朝の富士野の狩場で祐経を襲い敵討ちを果たします。しかし、頼朝がいる陣の内ですから祐経の家臣の仁田忠常に殺されます。信念を果たせないことが恥であり辛かったからです。曾我祐成の母は曾我祐信に再嫁したので曾我の姓を名のりました。工藤祐経の娘は日昭の母となります。印東祐昭は父となります。

 次に謗家とは謗法の家のことです。謗法の教えを信仰している家に生まれても無間地獄に堕ちると述べます。正法を誹謗した勝意比丘や苦岸比丘の家に生まれ、その弟子とか檀那になった者は、謗法の認識がなくても同罪を作り堕獄すると述べます。その例として頼朝に仕えた有力御家人侍所の初代別当)和田義盛(三浦義宗の子)が、義時によって滅ぼされた「和田合戦」(一二一三年)を挙げます。合戦後に固瀬川(境川)に梟された和田一族の首級は二三四と言われ、一族は追及処罰されてほぼ滅亡します。妊娠中の胎内にある子供も腹を裂かれたと言います。この和田一族の悲惨な例を挙げて、謗法の寺の信徒も連座して堕獄すると述べます。法華経と釈尊を卑下している比叡山や東寺などは謗法の寺(家)となります。譬喩品の若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 或復顰蹙 而懐疑惑 汝当聴説 此人罪報 若仏在世 若滅度後 其有誹謗 如斯経典 見有読誦 書持経者 軽賎憎嫉 而懐結恨 此人罪報 汝今復聴 其人命終 入阿鼻獄」『開結』一六七頁の文の通りならば、三大師の邪義を継ぐ諸寺の僧侶や檀那も堕獄すると述べたのです。

「今日蓮が申弘法・慈覚・智証の三大師の法華経を正く無明の辺域虚空の法と披書候は、若法華経の文実ならば、叡山・東寺・園城寺・七大寺・日本一万一千三十七所之寺々の僧は如何が候はんずらん。先例の如ならば無間大城無疑。是は謗家也」(一七三四頁)

そして、謗国とは国内に謗法の者が住んでいれば、その一国が謗法の無間大城の国になると述べます。大海へ全ての水が集まるように禍も集まると譬えます。まさに『立正安国論』(二〇九頁)に「「この災難の原因は世の中の全ての人びとが正しい教えに背いて悪法邪法に帰依したため、国を護る諸天善神はこの国を捨てて天上に去り、正法を広める聖人も去って還ってこないから、その隙に乗じて悪魔や悪鬼が押しよせてきて、次々に災難が起こる」(『日蓮聖人全集』第一巻一五六頁)と述べた謗法による三災七難の悪国のことです。

「謗国と申は、謗法の者其国に住すれば其一国皆無間大城になる也。大海へは一切の水集り、其国は一切の禍集る。譬ば山に草木の滋きが如し。三災月々に重なり。七難日々に来る。飢渇発れば其国餓鬼道と変じ、疫病重なれば其国地獄道となる。軍起れば其国修羅道と変ず。父母・兄弟・姉妹を簡ばず、妻とし、夫と憑ば其国畜生道となる。死して三悪道に堕にはあらず。現身に其国四悪道と変ずる也。此を謗国と申」(一七三五頁)

 

悪世には国に四悪趣の者が満ち溢れること、大荘厳仏の弟子の普事菩薩を迫害した苦岸比丘たちが堕獄したこと、獅子音王仏の滅後に喜根菩薩を誹謗した勝意比丘が堕獄したことを挙げます。この人々と同じで結果は無間地獄に堕ちると述べます。

『報恩経』には死体の父母兄弟のみならず、生きている人間を殺して肉を食べたとあるように、今の日本も同じようになっていると述べ、その原因は真言の邪法にあるとします。『頼基陳状』に述べたように龍象房がその例です。人肉を他の肉に交えて売り、すし(鮨)として食べていた者が大勢いたのです。

「龍象房が人を食しは万が一顕たる也。彼に習て人の肉を或は猪鹿に交へ、或は魚鳥に切雑へ、或はたゝき加へ、或はすし(鮨)して売る。食する者不知数。皆天に捨られ、守護の善神に放されたるが故也。結句は此国他国より責られ、自国どし(同士)打して、此国変じて無間地獄と成べし」(一七三五頁)

この理由は「善神捨去」により、結局は自界叛逆・他国侵逼により国土が無間地獄となると述べます。この謗国を予見して『立正安国論』を奏進しました。ここには「与同罪の失」「仏の呵責」「知恩報恩の為」に国家諫暁をされた理由を示しています。

 

「日蓮此大なる失を兼て見し故に、与同罪の失を脱んが為め、仏の呵責を思故、知恩報恩の為め国の恩を報ぜんと思て、国主並に一切衆生に令告知也」(一七三五頁) 

 そして、不殺生戒にふれます。殺生は内外典において禁断であり重戒であるが、法華経を阻害する害敵は殺生を認めていることを説きます。ここに、謗法断罪を認めたていたことが分かります。この論拠を仙予国王・覚徳比丘・阿育大王の殺生を示して、法華経の怨敵を退けることは「第一の功徳」と述べます。

「蟻子を殺者尚地獄に堕つ。況魚鳥等をや。青草を切者猶地獄に堕。況死骸を切者をや。如是重戒なれども、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説給也。況や供養を可展哉」(一七三六頁) 

釈尊が過去世に仙予国王であった時、バラモンが大乗経典を誹謗したので即座にその命を断ったが、この功徳により地獄に堕ちなかったと『涅槃経』の文にあります。同じく『涅槃経』に覚徳比丘が謗法の比丘から殺害されようとした時、有徳王が悪比丘と戦って助けます。王は全身に傷を受け絶命します。この護法の功徳で阿閦仏の国に生まれて第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となります。その王とは釈迦仏と説かれています。阿育大王(あそか)「残虐阿育」と呼ばれるほど残虐で、『阿育王経』に十万八千人の外道を殺害したと説かれます。後に仏教を尊崇し法による支配を根本としました。八万四千の塔を造り仏舎利を供養します。今の日本もこの時と同じであると述べます。

「今日本国も又如是。持戒・破戒・無戒、王臣・万民を不論、一向の法華経誹謗之国也。設身の皮をはぎて法華経を奉書、肉を積で供養し給とも、必国も滅び、身も地獄に堕給べき大なる科あり。唯真言宗・念仏宗・禅宗・持斉等の身を禁て法華経によせよ」(一七三六頁)

謗国であるため楽法梵志のように身の皮を剥いで法華経を書写しても、雪山童子のように肉を積んで法華経に供養しても効験はないと述べます。亡国と堕獄を逃れる方法は、邪宗の謗法者を禁じ法華経に帰依することと述べます。しかも、法華経を根本とする天台宗の高僧が真言宗を褒め讃え、念仏・禅・律宗に与同していると批判します。例えとして田口成良(成能。しげよし)と三浦義村と同じと述べます。田口成良は『平家物語』に壇ノ浦の戦において平氏を裏切り三百艘の軍船を率いて源氏側に付いたとあります。三浦義村は従兄弟の和田義盛を裏切って北条義時に付きます。

また、法華経を讃め讃えても、誤って理解をしていることも堕地獄の因となるとして、中国の慈恩(窺基)・嘉祥(吉蔵)を挙げます。法華経を唯識論・三論宗の立場から解釈したからです。このように天台宗を批判されたのです。慈覚は座主を真言師としたため比叡山の学僧も従ってしまいます。弘法は伝教が教化した嵯峨天皇を真言の信者とし、承和元(八三四)年に天皇の住居の宮中内裏)道場を置くことを許され、真言院と呼ばれる内道場を造りました。これを認めた天台宗を批判したのです。

真言の邪義による亡国の例として、安徳天皇と後鳥羽上皇を挙げます。源平合戦で安徳帝を奉じた平氏は、比叡山の明雲に頼朝調伏の祈禱を命じます。明雲は一山三千人の法師を率いて五壇の祈禱を行います。しかし、明雲は源義仲の軍に殺され、安徳帝は壇ノ浦の決戦で平氏一門と共に入水します。後鳥羽上皇尊成王)は承久の乱にて幕府を倒すべく内裏に大壇を立てて、天台の座主慈円、真言東寺の座主親厳、仁和寺の御室道助法親王、園城寺常住院・良導等の高僧四一人、伴僧三百余人が、真言の十五壇の秘法を修しましたが敗戦します。

聖人は源平合戦と承久の乱は、法華経を捨て真言宗を依拠としたことが敗因であるとします。この史実を先例として蒙古再襲の国難に真言師を重用していることは、日本滅亡の兆しであると述べます。この謗身・謗家・謗国の三失を逃れるためには、父母兄弟に法華経を説き国主に諫暁することを促します。

「悲哉、我等誹謗正法の国に生て大苦に値はん事よ。設謗身は脱ると云とも、謗家謗国の失如何せん。謗家の失を脱んと思はば、父母兄弟等に此事を語申せ。或は被悪歟、或は信ぜさせまいらする歟。謗国之失を脱れんと思はば、国主を諌暁し奉て、死罪歟流罪歟に可被行也。我不愛身命但惜無上道と被説、身軽法重死身弘法と被釈是也」(一七三七頁)

 法華経を信じ謗身の失は脱れても謗家と謗国は個人の力では叶いません。謗国に生まれた因縁として飢饉や他国侵逼に遭う総罰の苦があるのです。謗家を逃れるには父母や兄弟に法華経の教えを説くことです。それにより憎まれるかも知れません。。謗国を回避するには国主を諌暁することです。それにより死罪・流罪は覚悟しなければならないと述べます。破邪顕正を勧め不惜身命の信心を説くのは聖人の行者意識に発します。秋元太郎の親族に弘教の意義を示したのです。

しかし、迫害を恐れて行う者はいないと述べ、私たちが今に至まで仏にならないことが証拠であり未来も変わらないと述べます。それは命を惜しむことにあります。

「過去遠々劫より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐て云出さざりける故也。未来も亦復可如是。今日蓮が身に当てつみ知れて候。設此事を知る弟子等の中にも、当世の責のおそろしさと申、露の身難消依て、或は落、或は心計は信じ、或はとかうす。御経の文に難信難解と被説候が身に当て貴く覚え候ぞ。謗ずる人は大地微塵の如し。信ずる人は爪上の土の如し。謗ずる人は大海、進む人は一滞(一七三八頁)

三千塵点・五百億の塵点経歴と同じく、謗法を糾弾しなければ未来も成仏は叶わないとして、断固、「死身弘法」を勧め、これこそが「難信難解」であると説きます。しかし、法華経の行者となる者は爪上の土(『守護国家論』一二〇頁)、大海の一滞(一滴)のように極めて少ないのです。これを龍門の滝の例えを引き、法華経を弘める難しさはこれよりも過大と述べます。(『上野殿御返事』一七〇七頁)。釈尊の禁戒である『涅槃経』には如何に戒律を持ち智慧が深くても、謗法者を黙視する者は「仏法中怨」として無間地獄に堕すと説かれています。(『開目抄』六〇七頁)

○「与同罪」と身延入山

秋元太郎は武士であるので重ねて与同罪を述べます。自分は謀反を起こさなくても、謀反の者を知りながら国主に言わなければ同罪と見なされます。南岳の『安楽行義』に法華経の敵を見て呵責しない者は無間地獄の上に堕ち、見て言わない智者は無間地獄の底に堕ちて出ることはできないとある文を挙げます。聖人はこの戒めにより謗法を責め流罪・死罪にあったと述べます。この罪も消え失も逃れたので鎌倉を去って身延に入山して七年を経過したと述べます。

「南岳大師云、法華経の讎を見て不呵責者は謗法の者也。無間地獄の上に堕んと。見て申さぬ大智者は、無間の底に堕て彼地獄の有ん限は出べからず。日蓮此禁を恐るゝ故に、国中を責て候程に、一度ならず流罪死罪に及びぬ。今は罪も消え、過も脱なんと思て、鎌倉を去て此山に入て七年也」(一七三九頁)

そして、「四山四河」の中に手の広さ程の平らな所に草庵があることや生活を知らせます。飯野、御牧、波木井の三郷は実長の領地で身延は波木井郡に属します。北は身延、南は鷹取、西は七面、東は天子と四方四山と、富士河、早河、波木井河、身延河の四河に囲まれます。東海道一五箇国とは常陸・安房・上総・下総・武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊勢・伊賀・志摩・甲斐を言います。

「爰に庵室を結で天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折て身を養ひ、秋は果を拾て命を支へ候つる程に、去年十一月より雪降り積て、改年の正月今に絶る事なし。庵室は七尺、雪は一丈。四壁は冰を壁とし、軒のつらゝは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり。内には雪を米と積む。本より人も来らぬ上、雪深して道塞がり、問人もなき処なれば、現在に八寒地獄の業を身につぐのへり。生ながら仏には成ずして、又寒苦鳥と申鳥にも相似たり。頭は剃事なければうづら(鶉)の如し。衣は冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し。かゝる処へは古へ昵びし人も不問、弟子等にも捨られて候つるに、是御器を給て、雪を盛て飯と観じ、水を飲てこんず(漿)と思。志のゆく所思遣せ給へ。又々可申候」(一七三九頁)

弘安二年の一一月から降り出した雪が、庵室七尺(約二一〇㌢)の建物よりも高い一丈(三〇〇㌢)も積もり、八寒地獄を身に受けていると表現します。身延への道は途絶え人の往来も閉じます。寒さで頭髪を剃らないので毛が生い乱れ鶉の羽のように茫茫となり、衣は鴦鴛の羽が氷ついたように体に密着していると譬えます。薄着の衣を重ねて着衣されていたのです。正月に送られた御器に雪を盛り飯と思い、水を飲んで漿(こんず。おもゆ)と思う心境を述べて結びます。

 

□『慈覚大師事』(三六一)

 一月二七日付けにて乗明に宛てた書簡です。金銭三貫、袈裟一帖の奉納がありました。真蹟は一三紙完存にて法華経寺に格護されています。『秋元御書』(三六〇)と同日に出されています。冒頭に秋元太郎へ出された書簡に、法門を説いているので借用して学ぶようにと指示されていることから、秋元太郎と乗明からの供養が一緒に届けられたことが分かります。また、両氏の親しさから姻戚関係も窺える根拠となっています。本書の著述年次も『秋元御書』と同年とする根拠となっています。『対照録』(上巻五七八頁)は本文中に「自一歳及六十」(一七四一頁)とあることからも弘安四年とします。

「法門事秋元太郎兵衛尉殿御返事少々注て候。御覧有べく候」(一七四〇頁)

 受け難い人間に生を受け会い難い仏法に出会い、六十歳に及ぶ間に多くの物を見てきたが、その中で最も悦ばしいことは「法華最第一」の経文を拝見したことであると述べます。逆に最も卑下すべきことは慈覚が法華経を差し置いて『金剛頂経』を最勝としたことでした。法華経の頭(頂)を切り取り真言の頭に付けたもので、鶴の首を蛙の首に付け替えたのと同じと表現します。

「あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈云所言頂者於諸大乗法中最勝無過上故以頂名之。乃至如人之身頂最為勝。乃至法華云是法住法位。今正顕説此秘密理。故云金剛頂也云云。又云如金剛宝中之宝此経亦爾。諸経法中最為第一三世如来髻中宝故等云云。此釈の心は法華最第一の経文を奪取て、金剛頂経に付のみならず、如人之身頂最為勝の釈の心は法華経の頭を切て真言経の頂とせり。此即鶴の頚を切蝦の頚に付歟。真言の蟆も死ぬ。法華経の鶴の御頚も切れぬ見候」(一七四一頁)

その張本人の慈覚の墓がどこにあるか不明であるが、頭は出羽国の立石寺にあるとの伝聞(山門建立秘訣』四丁)からすると、頭と身体が切り離され別の所にあると対比します。『羅山詩集』(六ノ九丁)には「日光紀行」を引いて、慈覚が死去した時に叡山と慈恩寺の僧徒が遺体を奪い合い首と身が引き裂かれたとあります。立石寺には入寂したと言う入定窟があり平安後期には霊窟とされていました。重要文化財になっている岩上の如法経所碑から分かります。昭和二四(一九四九)年に棺内に収められている遺骨を調査したところ、慈覚の遺骨が埋葬されている可能性が高いことが判明しています。(『日本仏教史辞典』一〇五九頁)

同じように五五・五七代の天台座主であった明雲も、頼朝を調伏したことにより義仲に殺され、首を六条河原に曝されたことを挙げます。叡山はこの明雲座主が真言を最勝とし真言の座主となったとします。故に叡山は釈迦・多寶・十方諸仏の大怨敵であり、梵釈四天の善神の讎敵となります。この道理を心得て法門を考察するようにと結びます。

 

○御本尊(七四)正月

 「日佛」に授与され山梨県妙了寺に所蔵されています。紙幅は縦四四.三㌢、横三〇.六㌢、一紙の御本尊です。四天王・諸天善神・先師が省略されています。二月から四月へかけて御本尊をまとめて染筆されます。

○御本尊(七一)二月一日

 「俗日頼」頼基に授与された御本尊です。紙幅は縦八七.三㌢、横四六.四㌢、三枚継ぎの御本尊で堺の妙国寺に所蔵されています。

○御本尊(七二)二月

 「日眼女」(頼基の妻)に授与された御本尊で日付けはありませんが、頼基と同じ一日に染筆されたと思います。紙幅は縦四六.一㌢、横三〇㌢の一紙の御本尊です。四天王と梵天・釈提桓因が省略されています。東京長元寺に所蔵されます。

○御本尊(七三)二月彼岸第六天番

 「藤原清正」に授与された御本尊です。京都妙覚寺に所蔵されています。紙幅は縦九〇㌢、横五三.六㌢の三枚継ぎの御本尊です。

○御本尊(『御本尊鑑』第二八)二月

 「童男福満」に授与されています。、紙幅は縦八八.四㌢、横五五.八㌢の三枚継ぎの御本尊です。嘗て身延に所蔵されていました。

○御本尊(七五)二月

 御本尊の状態が折りたたまれたような跡があり、「俗□□」の授与者名が截落されて判読不明です。四天王は書きこまれず、紙幅は縦五一.二㌢、横三一.八㌢の一紙の御本尊です。真間の弘法寺に所蔵されています。

○御本尊(七六)二月

 「優婆塞日安」に授与された御本尊です。日安は富士下方、熱原六郎吉守のことです。『本尊分与帳』から下野房日秀の弟子であることが分かります。日興の添え書きが右下に残されています。紙幅は縦六三.六㌢、横四一.二㌢の二枚継ぎの御本尊です。四天王の書き入れはありません。京都妙覚寺に所蔵されています。

○御本尊(七七)二月

 「俗吉清」に授与された御本尊です。紙幅は縦五三.九㌢センチ、横三四㌢の一紙の御本尊です。浜松の妙恩寺に所蔵されています。四大天王の書入れがあります。


□『日住禅門御返事』(三六二)

 三月三日付けにて日住禅門に宛てた書簡です。『本満寺本』の写本があり『三宝寺本』に収録されています。日住禅門については不明です。熱原神四郎とする説は神四郎が弘安二年に殉死していることから史実に合いません。内房殿、妙一尼の家臣道妙の子供とする説があります。近世後期の史料のため信憑性に欠け不詳となっています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八六一頁)冒頭の「委細示給候條無是非候」(一七四三頁)の文から、祖父妙厳の遺言を伝えたとされます。それは霊山浄土への往詣と思われます。祖父の願いの通り菩提を懇ろに供養していると応えます。神力品の最後の「是人於仏道 決定無有疑」を引き、この経文を絶えず唱えて成仏を願うように教えます。法華経の行者は決して三悪道(地獄・餓鬼・畜生の三悪趣)に堕ちることはないと安心を与えます。

 

□『上野殿御返事』(三六三)

○孝養の功徳

 三月八日付けにて時光から故父兵衛七郎の一六回目の忌日(文永二年没)のため、僧膳料として米一俵を供養されます。故父の仏前に供え自我偈一巻を読誦し回向すると伝えます。『本満寺本』に収録されています。

 本書は孝養とはどのようなことかを不孝の例を挙げて説明します。極楽を説く時には地獄を説くという、対比の用法をされます。まず、孝養を知る為に不孝の事例を挙げます。酉夢(ゆうぼう・ゆうぶ)中国の伝説上の人物で、自分の父を打った報いにより雷に討たれ身を裂かれたと言います。出典は未詳です。『宝物集』巻一には「酉夢母を罵詈しかば天雷其身を裂く」と母を罵詈したことになっています。班婦(はんぷ)は母を悪し様に言った報いにより毒蛇に飲まれたと言います。出典は未詳です。阿闍世王は提婆達多と結託して父頻婆娑羅王を獄死させ悪瘡の病に罹ります。波瑠璃王は父波斯匿王や釈迦族を殺戮したため、舟上に火災が起き火に焼かれて死にます。(『大唐西域記』)。このように親不孝の罪により現身に地獄に堕ちた実例を挙げます。

 他人を殺してもこれ程の例はないとして、逆に孝養の功徳が大きいことを挙げます。儒教や道教は孝養を説くことは仏教と同じです。ただし、外典の教えは現世に限られ後生の成仏を説いていません。仏教においても爾前経は真実の孝養を説いていないとして「孝が中の不孝」(一七四四頁)の経とします。

その理由は目連は母青提女を餓鬼道から救ったが、人天界へ救い上げたに過ぎず仏界の成仏へ導いていないとします。釈尊も成道後まもなく父浄飯王を化導し、三八歳の時に母摩耶夫人を救ったが、これらは阿羅漢果に入れただけと述べます。つまり、爾前経の教えでは永不成仏なのです。このままでは不孝の失を免れないのです。それを釈尊は「若以小乗化 乃至於一人 我則堕慳貪 此事為不可」『開結』一〇七頁と説きます。釈尊自身が慳貪の罪に堕ちると説いたのです。それを次のように譬えます。

譬へば太子を凡下の者となし、王女を匹夫にあはせたるが如し。されば仏説云我則堕慳貪此事為不可云云。仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人、清酒をおしみて濁酒をのませたる不孝第一の人也。波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち、阿闍世王の如く即身に白癩病をもつきぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説給て、是人雖生滅度之想入於涅槃而於彼土求仏智慧得聞是経と、父母の御孝養のために法華経を説給しかば、宝浄世界の多宝仏も実の孝養の仏なりとほめ給、十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏也と定め奉りき」(一七四五頁)

 

釈尊は爾前までは不孝第一の人であったが、法華経を説いたので諸経において生死の迷いを超越し悟りの境地(滅度・涅槃)に入った二乗も、それぞれの国土で智慧を求めて法華経を聞くことができることになります。(「是人雖生滅度之想」『開結』二六一頁)。また、釈尊は父母の孝養のために法華経を説かれたので、多寶仏も十方諸仏も来集して孝養第一の仏と証明したと述べます。

そして、日本の人は法華経を信仰しないので皆不孝の人であるとします。『涅槃経』の迦葉品には法華不信の者は大地微塵よりも多いと説いている。故に天地の善神が怒りを起こすと述べます。陰陽師が天変地夭が頻繁に起きると奏上するのは、この善神の治罰の表れとします。そのため小児は驚いて魄を失い、女人は苦しんで血を吐くという症状が頻発したのです。精神的に困憊していたのです。

「今の陰陽師の天変頻りなりと奏し申是也。地夭日々に起て大海の上に小船をうかべたるが如し。今の日本国の小児は魄をうしなひ、女人は血をはく是也。貴辺は日本国第一の孝養の人なり。梵天帝釈をり下て左右の羽となり、四方の地神は足をいたゞいて不孝とあをぎ給らん。事多しといへどもとゞめ候畢」(一七四六頁)

 このような中でも亡父の供養を行った時光は日本第一の孝養の人であるから、梵天・帝釈や四方の地神は護って下さると結びます。三月一四日に大和長谷寺が焼失します。(『一代要記』)。

□『富木入道殿御返事』(三六四)は弘安四年とします。

 

○御本尊(七八)三月

三月に『御本尊集目録』に四幅収録されています。この御本尊を授かったのは「日□上人」で玉沢妙法華寺に所蔵されています。日号の下を剪除しているのは、日伝が上京の折り勝劣問題により、妙顕寺より附興のため切り取ったと言います。(『御本尊集目録』一一六頁)。紙幅は縦五六.一㌢、横三六.四㌢、一紙の御本尊で、御本尊(七八・七九・八〇)共に四天王の書き入れはありません。

○御本尊(七九)三月

第七九は「沙弥妙識」に授けられ鷲津本興寺に所蔵されています。この御本尊より「経」の文字が第四期の書体となります。紙幅は縦五六.一㌢、横三六.四㌢、一紙の御本尊です。

○御本尊(八〇)三月

「日安女」に授与されたもので千葉市の随喜文庫に所蔵されています。紙幅は縦五三.九㌢、横三四.二㌢、一紙の御本尊です。

○臨滅度時の曼荼羅(御本尊八一)三月

三月に三六歳になる日朗に染筆して与えられています。池上本門寺にて入滅に臨まれた際、御床頭に奉懸された御本尊です。(西山日代師「宰相阿闍梨御返事」『宗全』二一二四頁)。故に「臨滅度時の御本尊」と呼称され宗定本尊とされます。題目の書風から「蛇形の御本尊」とも別称され(『本化別頭仏祖統紀』)、鎌倉の妙本寺に所蔵されています。曼荼羅の裏側下に小判形の貼り紙があり日朗の名前が真蹟で書かれています。日朗は巻いて保存しています。特別な講会がある時に掲げていたことが保存の状態が良いことから分かります。紙幅は縦一六一.五㌢、横一〇二.七㌢、十枚継ぎの大きな御本尊です。首題の題目の写しが身延の御廟所に掲げられています。

○御本尊(八二)三月

右下隅に授與書の存したのを截落した形跡があります。沙弥日戴授与のご本尊は当本尊を模写したものと言います。(『御本尊集目録』一二一頁)。紙幅は不明ですが三枚継ぎとされます。四大天王を勧請されています。

四月の初旬頃に内房女房が父の病気平癒と霊山往詣を願って身延に登詣されます。父はこれより一ヶ月後の五月二日に没します。百か日の供養を八月一四日付けの『内房女房御返事』(一七八四頁)に述べています。

 

○身延期の御本尊

身延期に多くの曼荼羅本尊が染筆され弟子や信者に与えられています。曼荼羅や著書には菜種油を原料にした油煙墨が使用され、書状には松材を原料にした筆の走りが良い松煙墨が用いられた傾向があるようです。(中尾堯著『日蓮聖人の法華曼荼羅』三九頁)。始顕本尊を揮毫されてから弘安五年迄の九年間に現存と写本の曼荼羅は約一五〇幅あり、実際には数多くあったと思います。大きさは貼り継がれた料紙の数によって二紙や三紙、多くなりますと二八紙等さまざまです。また、中央の首題と釈迦・多寶、四菩薩は定位置に勧請されますが、菩薩・天神、人師や鑽文は異なっています。それは授与者への意図が表されていると理解できます。

書き進め方は題目・釈迦牟尼仏・多寶仏・諸尊・四天王・不動愛染・鑽文・花押の順で書かれます。臨滅度時の曼荼羅のように大きなものは最初に南無の二文字を書き左右の釈迦多寶を書き、次第に妙法・蓮華・経と書き進められたようです。光明点と呼ばれる長い線も、点画・筆継ぎを見ますと後から補筆していることが分かります。擦れた部分は聖人を偲んで手で触れた信者の指の跡です。

 弘安期の染筆は七七幅が確認されています。弘安元年が一二幅、二年が一二幅、三年が三一幅、四年が一五幅。そして、寂年の弘安五年は一月に三幅、四月に二幅、六月に二幅が伝えられています。現在、更に発見されて十幅ほど増えています。高木豊氏は曼荼羅は一二四幅中一一四幅が身延で図顕されたとします。(『日蓮の生涯と思想』五五頁)。曼荼羅の授与者の内訳については、弟子一七幅、檀越四七幅、無記五七幅、不明三幅とします(前掲書七二頁。授与者名は一〇二頁)。平成一六年五月二八日に、法華宗三条市本成寺に所蔵されていた曼荼羅が真筆として発表されました。中尾尭氏は文永一〇年末から翌一一年にかけて佐渡の信者に与えられたと認めています。

 

○御本尊(八三)四月一〇日

 四月に染筆された御本尊が九幅伝えられています。この年の二月より順次にまとめて書かれたことから、体調が良かったことと需要が多かったことが窺えます。この御本尊は「尼日實」に授与され、紙幅が縦一〇四、三㌢、横五四、二㌢、三枚継ぎの御本尊です。鎌倉の妙本寺に所蔵されています。

○御本尊(八四)四月

 右下の隅にあった授与名が削損されています。紙幅は縦五九、一㌢、横四〇、六㌢の一紙の御本尊で京都の妙覚寺に所蔵されています。

○御本尊(八五)四月

 「俗□□」の授与者名は表具をし直した時に截落したと言います。紙幅は縦六〇、九㌢、横三八、二㌢、一紙の御本尊です。大村市の本経寺に所蔵されています。

○御本尊(八六)四月

 「日妙」に授与され紙幅は縦五九、四㌢、横四〇、四㌢、一紙の御本尊です。近江八幡の妙感寺に所蔵されています。

○御本尊(八七)四月

 右下隅に授与者名があったのを削損した跡があります。紙幅は縦六一.八㌢、横四〇㌢、一紙の御本尊です。本阿弥家に伝来した御本尊ですが、昭和一〇年に加治さき子氏の寄贈により身延久遠寺に所蔵されます。

○御本尊(八八)四月

 「優婆塞藤原広宗」に授与され、紙幅は縦六〇、九㌢、横四〇㌢、一紙の御本尊です。京都の本法寺に所蔵されています。

○御本尊(八九)四月

 「尼日厳」に授与された御本尊です。日源の母とする説があります。紙幅は縦九三.九㌢、横五一.五㌢、三枚継ぎの御本尊で、京都妙顕寺に所蔵されています。

○御本尊「今此三界御本尊」(九〇)

 染筆の年月日は書かれておらず、通称「今此三界御本尊」と称され京都の本国寺に所蔵されています。紙幅は縦二九.七㌢、横三二.七㌢、一紙を横に長くして顕示されています。中央左に首題と「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護」の主師親の三徳の文を書き入れ、その右下に自署花押を書いています。

御本尊(二八)の経一丸に授けた「玄旨伝法御本尊」と同じ譬喩品の讃文であり、弟子の誰かに同じような妙法広布の主旨を委託して授与されたと思われます。四月一二日に香取社造営の宣旨が下り、このあと千葉胤宗が造営を命じられます。

○御本尊(九一)四月一三日

 「盲目乗蓮」に授与された御本尊で、乗蓮とは然阿良忠の弟子である行敏と言います。行敏は文永八年に良観の指示により聖人に訴状を送った人物です。行敏は後に帰依したことが、この御本尊を授与された経緯と思われます。紙幅は縦六〇㌢、横三七.九㌢、一紙の御本尊です。京都本国寺に所蔵されています。

 

□『かわいどの御返事』(四四一)

○河合氏と熱原法難の余波

 四月一九日付けの末尾一紙の断簡です。日興の実家である河合氏に宛てています。東京都孔泰容氏が所蔵されています。

 

「人にたまたまあわせ給ならば、むかいくさき事なりとも向せ給べし。ゑまれぬ事なりともえませ給へ。かまへてかまへてこの御をんかほらせ給て、近は百日とをくは三ねんつつがなくばみうちはしづまり候べし。それより内になに事もあるならば、きたらぬ果報なりけりと人のわらわんはずかしさはずかしさ。かしく」(三〇二二頁)

 河合氏に熱原法難後における処世を教えています。会いたくない人でも会うことがあれば話をし、本心ではなくても柔らかな態度を保つようにと述べています。現状を維持するために百日から三年のあいだ辛抱すれば、御内(得宗)も鎮まるだろうから、言動に注意するように訓戒されます。熱原法難の余波が河合氏にも及び、何事かの問題を起こせば過料などの処罰(「来たらぬ果報」)がありました。また、嫌がらせがあったと言います。(山上弘道稿「日蓮大聖人の思想(六)」『興風』第一六号二二九頁)