311,『窪尼御前御返事』~『四条金吾殿御返事』(340)      髙橋俊隆

□『窪尼御前御返事』(三三三)

 五月四日付けにて富士郡久保村の高橋六郎の後家窪尼(持妙尼)への書状で、書付(目録)の通りの供養品を受領したことを記します。五月の田植え時期に加え富士大宮の造営で多忙な時に、生活を支える供養を送ってくれたことを感謝されます。真蹟は三行の断片が甲州妙了寺に所蔵され、『興師本』が大石寺に所蔵されています。なを、『宝軽法重事』に「大宮つくり」(一一八〇頁)とあることから弘安二年とされます。窪尼は日興の叔母で熱原法難の折には当家を拠点とします。

阿育大王が過去に五歳の徳勝童子であった時に、沙の餅を釈尊に供養して大王と生まれた故事を引き、供養の功徳が大きいことを述べます。法華経は更に久遠実成の教えを説くことから、爾前経の釈尊の立場より勝れたことを教えます。ただし、ここでは仏より法のほうが勝れているとします。この功徳により亡夫は成仏し、一人いる娘も長命に幸福を得、人々から褒められる女性になると述べます。その例として中国の西施(せいし)という女性が、若菜を摘み老いた母を養っていたのを越王に見出され后となった故事を引きます。これは孝養の深いことを憐れんで善神が守られたと述べます。

「をやをやしなふ女人なれば天もまほらせ給らん、仏もあはれみ候らん。一切の善根の中に、孝養父母は第一にて候なれば、まして法華経にてをはす。金のうつわものに、きよき水を入たるがごとく、すこしももる(漏)べからず候。めでたしめでたし」(一六四六頁)

父母に孝養を尽くすことは最上の善根であり、善神も仏も加護されるであろう、まして、法華経を信仰することは金の器に浄水を入れると漏れないように全てが功徳となると愛でます。

 

□『一大事御書』(三三四)

○身の上の一大事

 五月一三日付け断簡で真蹟は一紙五行と日付け花押のみで東京の常泉寺に所蔵されます。残存された文章からは宛先や内容は不明です。簡潔な文章と口調から熱原に関して弟子(日興と日昭)に宛てたと思われます。

「あながちに申させ給へ。日蓮が身のうへの一大事なり。あなかしこあなかしこ」(一六四六頁)

四月八日に熱原浅間神社の神事に合わせて、行智は下方の政所と謀って四郎を刃傷します。この事件の重大性とこれからの展開に備えて、聖人の主張を屈せずに申し立てることを命じます。当面した信徒への殺害は教団の危機であると伝えます。

□『四菩薩造立鈔』(三三五)

○「一尊四菩薩」造立

 五月一七日付けにて常忍への書状です。真蹟は残存せず『本満寺本』に収録されています。始めに小袖一枚、薄墨染めの本衣一枚と同色の袈裟一帖、金銭一貫文を供養されたことを記します。変わらぬ志の有難さを言い尽くせないと述べ、対面した時に朦朧とある心中を語り披瀝したいと吐露します。聖人の心境や教団の方向と思われます。最大の外護者であり理解者であったことが窺えます。また、聖人が着用されていた本衣、袈裟は薄墨色であったことが分かります。

常忍の書状に二つの質問がありそれに答えます。最初は「一尊四菩薩」の尊像を造立する時期についてです。

「一 御状云、本門久成の教主釈尊奉造、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕候き。然れば如聴聞者何の時乎云云」(一六四七頁)

 「一尊四菩薩」は本門の釈尊を表したもので、脇士を地涌の四菩薩とするところに、寿量品の久遠実成の説が証明されます。ここに脇士として久成地涌の四菩薩」と記しています。地涌の菩薩も久遠からの脇士なのです。本化の四大菩薩については既に『開目抄』に述べています。そして、「一尊四菩薩」を造立する本尊形式と、十界曼荼羅の関係についての問題があります。『観心本尊抄』は文永一〇年四月二五日の著述になり、七月八日に曼荼羅を図顕されます。これを始顕本尊と称します。本書は造像に視点があります。

常忍に視点を当てますと、竜口後の文永八年一一月二三日に宛てた『富木入道殿御返事』(九三)に、「一大事の秘法を此の国に初めて弘之。日蓮豈非其人乎」と述べ、「経云。有四導師一名上行云云」(五一六頁)の文を引きます。本書に「兼て聴聞仕候き。然れば如聴聞者」と聖人から教授されていたことが分かります。開本両抄を基本として、「一尊四菩薩」を造立する重要性を把握すべきで、『開目抄』以後においては「一尊四菩薩」を造立する論理が成り立ち、『観心本尊抄』「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊可立此国」七二〇頁)に明確にされました。常忍が「一尊四菩薩」を造立する時期を尋ねたのは、「一尊四菩薩」の本尊形式が未曾有のため、広く門下に周知させる目的があった言えます。

「夫仏 世を去せ給て二千余年に成ぬ。其間月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事、僧は稲麻のごとく法は竹葦の如し。然るにいまだ本門の教主釈尊並に本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し。三朝の間に未聞。日本国に数万の寺々を建立せし人々も、本門の教主・脇士を造るべき事を不知」(一六四七頁)

 日本仏教の歴史の中で「一尊四菩薩」を造立した寺はないと述べ、法華経を尊重した聖徳太子や伝教が造立しなかった理由は、正像時代には造立を禁止した「仏の禁を重ずる故」であり、「上行菩薩の出させ給て造り給べき故」(一六四八頁)と未来に造立する者が現れるからなのです。また、インド・中国の竜樹・天親・天台などの論師・人師も同じで、釈尊から付属を受けていないという理由を挙げ造立する時期は末法であり、それを開顕する者は地涌の菩薩であると示します。 

「今末法に入れば尤仏金言の如きんば、造るべき時なれば本仏本脇士造り奉るべき時也。当時は其時に相当れば、地涌の菩薩やがて出させ給はんずらん。先其程四菩薩を建立し奉るべし。尤今は然るべき時也と云云」(一六四八頁)

 ここには末法に入ってから法華経を弘通するという末法正意論や、それを広める者は釈尊より別付属された上行菩薩であるという地涌付属論が存します。聖人が感激されたのは「時」にありました。

 

「日蓮は世間には日本第一の貧者なれども、以仏法論ずれば一閻浮提第一の富者也。是、時の然らしむる故也と思へば喜び身にあまり、感涙難押、教主釈尊の御恩報じ奉り難し。恐くは付法蔵の人々も日蓮には果報は劣らせ給たり。天台智者大師・伝教大師等も及給べからず。最四菩薩を建立すべき時也云云」一六四九頁) 

と、社会的には貧者であるが、仏教者としては天台・伝教よりも果報者であると自負されます。この根底に本化上行として法華経を弘通し「一尊四菩薩」の本尊を造立することができた法悦感を窺うことができます。四大菩薩を造立する証文は湧出品(「有四導師一名上行二名無辺行三名浄行四名安立行」)にあり、その目的は薬王品の「我滅度後後五百歳中 広宣流布於閻浮提 無令断絶」の文を引き法華経を断絶してはいけないということです。

 

○教信の「迹門無得道」

 次に大田氏近辺の者が「迹門無得道」と理解していることを強く批判します。大田方とは先に述べた大田次郎親房たちを指します。(『富木入道殿御返事』「かしまの大田次郎兵衛・大進房」一五九〇頁)。 

「是は以の外の謬也。御得意候へ。本迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依べし。一代聖教を弘むべき時に三あり。機もて爾也。仏滅後正法の始の五百年は一向小乗、後の五百年は権大乗、像法一千年は法華経の迹門等也。末法の始には一向に本門也。一向に本門の時なればとて迹門を捨べきにあらず。於法華経一部前十四品を捨べき経文無之。本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時、爾前迹門は正法像法、或は末法は本門の弘らせ給べき時也。今の時は正には本門、傍には迹門也。迹門無得道と云て、迹門を捨てゝ一向本門に心を入させ給人々は、いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ。以の外の僻見也。私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其身に入替て、人をして自身ともに無間大城に墜べきにて候つたなしつたなし。此法門は年来貴辺に申含たる様に人々にも披露あるべき者也」(一六四九頁) 

 仏教流布の時期は正像末の三時において相違すること、その教えも三重に配当されると述べます。

   正法―前五百年―小乗四依――迦葉・阿難等

      後五百年―権大乗四依―竜樹・天親等―――爾前経

   像法―千  年―迹門四依――天台・伝教等―――法華経の迹門

   末法―万  年―本門四依――日蓮聖人―――――法華経の本門

結論は迹門であっても無得道ではなく、本門のみを選択して捨去すべきではないと断言します。本門のみを重視して迹門を無得道とすることは、聖人の本意の法門を習得していない者であると強く教諭します。これに関しては既に建治元年一一月二三日の『観心本尊得意抄』に、教信が『観心本尊抄』に一品二半以外は小乗教・未得道教とある文により、迹門による得脱はないのであるから方便品を読まないと言い出したのです。 

「抑今御状云教信御房観心本尊鈔未得等付文字迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候歟。去文永年中に此書の相伝は整足して貴辺仁奉候しが、其通を以可有御教訓候。所詮、在在処処仁迹門を捨よと書て候事は、今我等が読所の迹門にては候はず。叡山天台宗の過時の迹を破候也」(一一一九頁)

この見解は「不相伝の僻見」であるから、このことを皆に教訓するようにと急いで指示を出されます。迹門不読を論じて本門に偏重する傾向があったのです。この迹門とは天台宗の論じる迹門であると説明されます。本迹の勝劣・傍正の主旨を徹底すべきことを厳命し、

「総じて日蓮が弟子と云て法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はば、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守候べし。其さへ尚人々の御心中は量りがたし」(一六五〇頁)

と、弟子と名乗る者は師匠の教えを遵守することが当然であり、聖人の本意の如くに修行してこそ善神に守護されると説きます。大田方の人が何故このような見解を持ったのか、その心中は分からないと不安が滲みます。教信と常忍の間に亀裂が起き始めていたとも言います。

 

○三位房日行の死去

最後に三位房が死去したことを哀れに思い、霊山浄土に往詣できるように回向したと述べます。宗論に備え門下の英才と言われた三位房を代理に考え、『教行証御書』を与えて指導していました。鎌倉における後継者として期待していました。一説に三位房は不惜身命の折伏義には同調しなかったと言います。、望んでいた宗論が中止になり、建治の末か弘安の始めに駿河方面に遣わされます。そして、熱原問題にて日興と対立し夏に落馬して死去したと言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四二六頁)また、聖人が三位房の出世を嫉んでいたという風聞があり聖人の悲しみが伝わります。自身の体が不調であることを伝え擱筆します。

 

□『松野殿女房御返事』(三三六)

 六月二〇日付けにて松野六郎の子息の妻(松野殿女房)に宛てた書簡です。六月三日に麦一箱、里芋一籠などを供養され、返礼が長引いたことを詫びています。五月一七日付けの常忍宛の書状に体調が不良と述べていましたので、この一ヶ月程は不調であったと思われます。真蹟は断片一紙が敦賀本勝寺に所蔵されています。身延の山々は清浄の地と述べ、昼夜に法華経を読誦し朝暮に『止観』を論談しているので、霊山浄土や天台山と同じ聖地と称えます。その反面、肉体は凡夫の身体であるので衣服を着用しなければ寒風が身にしみ、食事をとらなければ生命を継ぐことができないと述べます。病状が偲ばれます。

「命続がたく、つぐべき力絶ては、或は一日乃至五日、既に法華経読誦の音も絶ぬべし、止観のまどの前には草しげりなん」(一六五一頁)

食料が絶えてくると肉体の力も失せて、それが五日も続くと法華経を読誦する声も絶えてしまい、『止観』の修行にも障害が出てくると述べます。この惨状をどうして気付かれたかと志に感謝されます。

 

月の中に兎あり

そして、兎が正法を修行する者を供養するため自身の肉体を焼いたことを述べ、それを見た帝釈が兎を憐れんで月の中に住まわせたという故事を述べます。

 

「兎は経行の者を供養せしかば、天帝哀みをなして月の中にをかせ給ぬ。今天を仰見るに月の中に兎あり。されば女人の御身として、かゝる濁世末代に、法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ、帝釈は手を合せてをがませ給ひ、地神は御足をいただきて喜び、釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給らん」(一六五一頁)

この因縁により天を仰ぎ見ると月の中に兎がいるとして、女房の供養もこれと同じように尊いことだから、梵天・帝釈・地神も釈尊も守るであろうと感謝されます。なを、「月中の兎」の故事は『大唐西域記』にあります。物語は『今昔物語集』月の兎「三獣行菩薩通兎焼く身語」(みっつのけだものぼさつをぎょうじうさぎみをやけること)にありますが、もとは本生説話(ジャータカ)です。

 ここに、「 兎と狐と猿の三匹が誠の信心から菩薩道を修行していた。わが身を忘れて他を哀れむ彼らの行いは誠に立派と見えた。それを見た帝釈天が彼らの本心を試すべく、老人に化して助けを乞うた。三匹は老人を手厚くもてなした。猿は木に登って木の実を集め、里に出ては野菜や穀物を手に入れて持って来た。狐は墓小屋に行って人の供えた飯や魚を取って来た。しかし何の特技もなく弱い兎は何も手に入れることができない。思いつめた兎は火を焚いてくれと頼み、やがて「私を食べて下さい」と言い残して火中に身を投げたのである。その時、帝釈天はもとの姿に戻り、自己犠牲と利他の菩薩道に殉じた兎の姿を普く人に見せるため、兎を月の中に移した。月に兎がいると言うのは、この兎の姿なのである」、とあります。兎の話は『六度集経仏説四姓経』『撰集百縁経出世菩薩品』に見ますが月については説かれていません。

 

○御本尊(六四)六月

 「比丘尼日符」に授与され、中山の法宣院に所蔵されています。紙幅は縦九四.九㌢、横五三.三㌢、三枚継ぎの御本尊です。

○御本尊(『御本尊鑑』第二六)六月

 二枚継ぎにて天蓋に瓔珞、二仏と経の下に青蓮華の台座を描いています。惣地に金神切りの薄地を施して装丁していたとあります。「正中山霊宝目録」に記録があることから曽ては法華経寺に所蔵されました。

○御本尊((正中山霊宝目録)六月

 「釈子日家」に授与された三枚継ぎの御本尊です。「御判ノ下ニ波ニ蓮華アリ大漫荼羅也ノ也ノ字ノ蓮ノ巻葉ニ遊候」と記録しています。

 

○無学祖元の来日

六月二五日頃に臨済宗破庵派の無学祖元(一二二六~八六年)が鏡堂覚円と共に来日します。虎関師錬『元亨釈書』)祖元は許伯済の子、母は陳氏で中国明州慶元府浙江省寧波市の出身です。一三歳のとき父を失い俗兄の仲挙懐徳に従い浄慈寺にて受戒します。一二三九年に径山の無準師範に学び、一二六九年に台州真如寺に赴任します。宋の弱体により一二七五年蒙古軍が南宋に侵入した時、温州能仁寺に避難していた祖元は元軍に包囲されます。この時「臨刃偈(りんじんげ「臨剣偈」「乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし。喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを。珍重す、大元三尺の剣。電光、影裏に春風を斬らん」)を詠み元軍も黙って去ったと伝えます。一二七二年に天童山に入り環渓惟一のもとで首座となります。

弘安二年に時宗の使者の宗英と徳詮が天童山の環渓に招聘状を届けます。環渓は老体を理由に固辞し祖元を推挙し門弟の鏡堂覚円を随持させます。祖元は五月二六日に出立し六月二日に乗船します。そして、六月二五日ころに博多に着岸します。聖福寺の無象静照が港に迎え鎌倉の建長寺の法座についたのが八月二一日です。時宗は礼を尽くして迎え、徳詮を通訳として参禅します。(『日本仏教史辞典』一〇〇一頁)

 

○元使周福来日

六月二六日に蒙古の使者として范文虎の部下の周福が対馬に来ます。この知らせは大宰府から幕府に通報され、京都には七月に知らされます。国書の内容は前回と同様な文面であったので幕府は対戦の構えに入ります。この件に関しての日本側の史料は少ないと言います。(川添昭二氏『日蓮宗勧学院中央研修会議事録』第一八号九三頁)

 

○阿佛房納骨

七月二日に阿佛房の子、藤九郎盛綱が遺骨を納めに来ました。現在も御廟の側に墓が護られています。盛綱は入道して「後阿佛房」と称されました。父が亡くなった後に自邸を寺としたのが妙宣寺の始まりです。もとは金井町新保にありました。蓮華王山妙宣寺が正式名ですが、一般に阿佛房妙宣寺と言われて親しまれています。宝物の中に一八枚継ぎの縦一五七㌢、横幅一〇三㌢の曼荼羅が保存されています。他に千日尼に宛てた書簡や聖人が着用されていた袈裟があり、境内には佐渡唯一の五重の塔が聳えています。盛綱の孫で阿佛房の曾孫になるのが佐渡阿闍梨日満です。

 

□『乗明上人御返事』(三三七)

 七月二七日付けにて乗明から米一石を供養されたことの礼状です。自署と花押の形態から弘安二年とされます。真蹟は一紙三行の完存で大阪長久寺に所蔵され、力強く流暢な筆跡から健康が回復されたと判断する書簡となります。乗明は建治元年一一月三日(『大田入道殿御返事』)に病気の相談をしています。この頃に入道したと思われ建治三年四月一二日には「乗明聖人」「乗明法師妙日」(『乗明聖人御返事』一三〇〇頁)と呼ばれています。

 貴重な米を一石供養され、この功徳は「福過十号」であると徳を称えます。「福過十号」とは法師品(『開結』三一二頁)に「持経者を歎美せんは其の福また彼れに過ぎん」、また、薬王品(『開結』五二二頁)に法華経を受持する功徳について、七宝を三千世界に満つるほど仏に供養するよりも、法華経の一句でも受持する功徳のほうが多いと説きます。この文を妙楽は『文句記』十双歎第七双に、法華経を供養する人の功徳は十号の福徳を具えた仏を供養するよりも勝ると解説しました。(「若悩乱者頭破七分。有供養者福過十号」)。乗明の功徳は多大なことを示されたのです。常忍から大田方の「迹門無得道」についての相談がありました。乗明は関連しませんがこの問題に絡んでの供養とも窺えます。

 

○御本尊(六五)七月

 「沙門日法」に授与され岡宮光長寺に所蔵されています。紙幅は縦一〇四.五㌢、横五四.五㌢、三枚継ぎです。この御本尊から不動愛染の梵字の起筆部分が宝珠型に造形されます。讃文には多くの経文を引用しています。同じ光長寺に所蔵されている弘安元年一一月二一日の御本尊(五七)と同じ引用で、「若於一刧中常懐不善心作色而罵仏獲無量重罪、其有読誦持是法花経者須臾加悪言其罪復過彼、有人求仏道而於一刧中合掌在我前以無数偈讃由是讃仏故得無量功徳歎美持経者其福復過彼、若悩乱者頭破七分有供養者福過十号、讃者積福於安明、謗者開罪於無間」の文を書き入れて、法華経の行者を護り供養することの功徳を示しています。

○御本尊(『御本尊鑑』第二七)七月

 「沙門日春」に授与され紙幅は縦一一八.四㌢、横五四.九㌢です。(『鎌倉遺文』第一八巻一九〇頁)。弘安四年四月五日付けの御本尊(一〇五)にも「僧日春」授与が書かれており、同一人物かは不明ですが「沙門日法」と「比丘日法」のように、同名異人の例があるので速断し難いのです。(『御本尊集目録』一四九頁)。六月七月に曼荼羅をまとめて染筆されていることから聖人の体調が良かったと思われます。

 

○元使を斬首

六月に筑紫に来着した元使でしたが、幕府は七月二九日に筑紫博多で重ねて蒙古の使者周福を斬首しました。これは、日本の意思は対戦に応じるとの表示ですので、フビライは日本遠征の計画を実行の段階に進めます。使者斬殺について聖人は批判します。(『兵衛志殿御書』一三八八頁)。謗法の根源である念仏や真言の僧は放置して、罪のない蒙古の使者を斬首することは道義に反するという考えです。斬首すべきではないと言明したのは、この時代には聖人しかいなかったと言います。(川添昭二氏『日蓮宗勧学院中央研修会議事録』第一八号八九頁)

 

□『上野殿御返事』(三三八)

 八月八日付けにて時光から金銭一貫文、塩一俵、蹲鴟八頭・里芋)一俵、生姜少々を使いの者から受け取ったことを記して礼を述べた書簡です。『興師本』が大石寺に所蔵されています。

暑い時には水が貴重であり寒い時には火を、飢饉の時には米、戦乱の時には武器が財宝となり、海には船、山には馬が宝物であるように、山中にあっては芋や塩が宝であると述べます。そして、草庵の近辺にてたくさんの山菜を採り、食する時に塩がなければ味は土を食むようなものであると例えます。山菜を食していたことが分かり、塩一俵の有難いことを伝えます。米を手に入れるために塩と交換していましたので、調理や食材の保存の他にも重宝されました。

「あつきには水を財とす。さむきには火を財とす。けかちには米を財とす。いくさには兵杖を財とす。海には船を財とす。山には馬をたからとす。武蔵・下総には石を財とす。此の山中にはいえのいも・海のしほ(塩)を財とし候ぞ。竹子・木子等候へども、しほなければそのあぢわひ(味)つち(土)のごとし」(一六五三頁)

 

○焼種・生種

 金銭の布施についても身分の上下に関わらず金銭は価値があり、米などの食用のように生命を継ぐために必要なことに例えます。食用品や什器備品など生活のためや仏事のためには金銭が必要なことから、「銭」はさまざまに活用ができ重宝なことを述べます。銭は中国の銅山にて製造されていました。三千里の海を渡ってきた一文は宝石のように貴重なものでした。その玉のような銭が法華経のために布施されたと伝えたのです。

五比丘の一人で釈尊の叔父と言う釈摩男は手にとった石を珠に変え、北インド健駄羅国に大法塔を建てた金粟王は砂を黄金に変えたことを挙げます。それと同じように法華経は心のない草木までも仏とする、まして心のある人は必ず成仏すると草木・闡提成仏を教示します。

 

「法華経は草木を仏となし給。いわうや心あらん人をや。法華経は焼種の二乗を仏となし給。いわうや生種の人をや。法華経は一闡提を仏となし給。いわうや信ずるものをや。事々つくしがたく候。又々申べし」(一六五三頁)

と、法華経の功徳は一念三千の成仏を説くことから草木も成仏すると述べます。焼種は芽が出ないように、成仏できないとされた二乗の者も成仏できると説いた二乗作仏を喩えたのです。また、極悪非道で謗法の闡提も成仏できると述べます。時光はこれらの草木や焼種の二乗や一闡提と呼ばれる謗法とは違い、順縁の法華経の信者であるから成仏は間違いないと述べたのです。使者が帰りを心配するので早急に認めました。

 

○弥四郎の斬首事件

四月に浅間神社の神事があり流鏑馬の最中に狼藉がありました。熱原では「弥四郎男」の頸が切られる事件があり、その犯人は日秀らであるとされました。この迫害者の中に曽ては鎌倉にて教団を支えていた大進房が再び背いて加担していたのです。大進房は乗馬して馳せ周りながら指揮します。この八月一七日以前に落馬して死去します。この事件が九~一〇月の熱原法難に展開します。熱原法難は頼綱と安達泰盛とが締結してのことであり、聖人はそれを予測していたとの指摘があります。(岡本錬城著『日蓮聖人』六四一頁)。

 

□『曽谷殿御返事』(三三九)

 八月一七日付け曽谷道崇宛の書状です。『朝師本』に収録されています。道崇は教信(二郎法蓮)の長子、山城守直秀のことです。入道して始めに典崇と名乗り後に道崇と改名します。宛名に「曽谷の道宗」(一六六四頁)とあることから、弘安二年には入道していました。深い信解があったと言います。その証左として千葉県野呂の妙興寺(建治元年。由緒寺院)の開基となります。開山は中老日合、道崇の一字を受け長崇山と言います。旧地の八反目台貝塚付近に歴代の墓所が残っています。

 道崇の父教信は孝養心が深いことは先の『法蓮鈔』に窺えます。母の蓮華比丘尼も篤信であったことが伝えられています。本書は道崇から祖父の一七回忌供養として焼き米二俵を受け取った返書です。焼き米とは新米を籾のまま炒り搗いて殻を取った米炒米)のことです。『日本書紀』には湯や水に浸して食べたとあります。人の命は世界の宝を持っても代え難いことから、命を継ぐ米を供養されたことに感謝します。米を油に喩えて、

「米は命を継物也。譬ば米は油の如く、命は燈の如し。法華経は燈の如く、行者は油の如し。檀那は油の如く、行者は燈の如し(一六五四頁)

と、命と米、法華経と行者、行者と檀家の関係を教えます。

 

○法華経は五味の主

 次に『涅槃経』の五味を挙げます。五味とは牛の乳の乳味から酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味に次第に熟成された成分のことです。そして華厳時を乳味、阿含時を酪味、方等時を生蘇味、般若時を熟蘇味、法華時を醍醐味として、教と衆生の機根が成熟することに譬えます。法華・涅槃は同じ醍醐味であっても、法華経は五味の主でありて最勝の経であると述べますこの相違を示すために妙楽の『弘決』を引いて、 

「妙楽大師云若論教旨法華唯以開権顕遠為教正主。独得妙名意在於此云云。又云故知法華為醍醐正主等云云。此釈は正く法華経は五味の中にはあらず。此釈の心は五味は寿命をやしなふ、寿命は五味の主也」(一六五五頁)

と、法華経は開権顕実と開近顕遠を説くので『涅槃経』とは違い醍醐の「正主」であると解釈します。つまり、法華経は五味の教の主体、正主であるとします。故に法華経のみが妙と名付けられると説明します。顕遠は本門の久遠実成のことで顕本遠寿とも言います。故に、

「諸経は五味、法華経は五味の主と申法門は本門の法門也」(一六五五頁) 

と述べます。この五味は教えの内容の浅深ですので目的は法華経に到達することです。法華経の命を養育する過程と言えます。「寿命は五味の主」「法華経は五味の主」と言うのは五味に養われた寿量品の顕本遠寿を指します。

ところで、天台宗では五味の解釈に二説あると述べます。第一には華厳より法華迄は同じ醍醐味とすること。第二は爾前経を前四味とし法華経を醍醐味とする説です。第一の場合は爾前経と法華経を相似とします。前四味と法華経を同じ醍醐味とするのは、開会と未開会の異なりはあっても同じ円融相即を説く(円教)ので同一とします。これは約教釈で約教当分の与釈と言います。聖人はこれを迹門の論理とします。天台の学者は法華経を五味の主とする教義を知らないから、諸宗との勝劣を判断できずに誑かされていると述べます。これに対し爾前の諸経は五味で法華経は五味の主であるとするのは法華経の「本門の法門」であると述べます。そして、妙楽の『弘決』「若し教旨を論ずれば」との教旨とは法華経の「題目」と解釈します。

「此釈に若論教旨とかゝれて候は法華経の題目を教旨とはかゝれて候。開権と申は五字の中の華の一字也。顕遠とかゝれて候は五字の中の蓮の一字也。独得妙名とかゝれて候は妙の一字也。意在於此とかゝれて候は法華経を一代の意と申は題目なりとかゝれて候ぞ。此を以て知べし。法華経の題目は一切経の神、一切経の眼目也」(一六五五頁)  

妙楽は法華経の教旨は迹門と本門の開権顕遠にあるとしますが、聖人は題目を教旨とします。「開権」を華とするのは一仏乗の実経を示すためであり、「顕遠」を蓮とするのは久遠の本果を譬えました。つまり、法華経の題目は一切経を集約した神(たましい)の最勝の経であること、一切経の眼目であると述べます。これに関連して開眼供養は法華経に限るとし、大日経をもって木画の仏を開眼すれば、

「日本国の一切の寺搭の仏像等形は仏に似れども心は仏にあらず、九界の衆生の心なり。愚癡の者を智者とすること是より始れり。国のついへ(費)のみ入て祈とならず。還て仏変じて魔となり鬼となり、国主乃至万民をわづらはす是也。今法華経の行者と檀那との出来する故に、百獣の師子王をいとひ、草木の寒風をおそるゝが如し(一六五五頁) 

と、魂のない偶像に過ぎないから祈祷の効験もなく、国家の費用を浪費するから国民の害となり国難の根源であると批判します。この根底には聖人の第六天魔王の魔観があり、久成釈尊でなければ真実の仏像とはならないという論理があるのです。これを『観心本尊抄』には、「天台学者等或同自宗悦 或貴遠蔑近 或捨旧取新魔心愚心出来。雖然所詮非一念三千仏種者有情成仏・木画二像之本尊有名無実也」(七一一頁)と、一念三千の仏種である南無妙法蓮華経の題目でなければ、有情の成仏も木画二像の本尊も名ばかりのものと述べていました。

次に法華経が諸経に超勝することにふれます。ここで輪陀王と馬鳴菩薩の故事を引きます。過去世に輪陀王という閻浮の主であり賢王がいました。白馬の高い声で嘶くのを聞いて安穏に国を治めていました。白鳥を見て嘶く馬でしたから白鳥が消えると声を出さなくなり、王の威厳も損なわれ旱魃・飢餓・疫病が流行ります。このとき馬鳴を召し仏神に祈らせます。馬鳴は外道の邪教を止め仏法を弘通したところ、たちまちに白鳥が飛来し白馬も嘶きます。これにより王も国家も安泰になったと言う故事です。

当時における政治もこれと同じと述べます。天神七代・地神五代の十二代の神代の時代には、神々の先世の戒力と福力との徳によって無難に国家や国民が安泰であったが、人王の世代となり二九代に至る間は、先世の徳が薄くなり三災七難が起き始めます。この時は中国から三皇五帝の書物が渡来したので、これに準じて天地の神を崇拝し災難を鎮め治世ができたと述べます。人王三〇代欽明天皇の時代になると、先世の戒・福が薄くなり人民も悪人が多くなり、外典の書物では防災できず仏教をもって治世したと述べます。このとき百八十神を崇める守屋と、釈尊を本尊とし法華経を崇める聖徳太子との勝負があり、太子が勝って日本国は神国から仏国となったとします。(一六五九頁)

続いて欽明から桓武天皇に至る二六〇余年には、仏を大王、神を臣下として主従の礼儀を重んじていたが国は正しく治まらなかった。このとき伝教は諸宗・諸経の中にも大王と臣下のように勝劣があり、仏教の本末転倒した過失による国難、法華経を喪失した大過により善神の力が弱くなったと解明します。遂に比叡山に円頓の戒壇を建立したと述べます。

「せんする所、六宗を法華経の方便となされしなり。れいせば神の仏にまけて門まほりとなりしがごとし。日本国も又々かくのごとし。法華最第一の経文初て此国に顕れ給、能窃為一人説法華経の如来の使初て此国に入給ぬ」                           (一六六一頁)

 これにより桓武・平城・嵯峨の三代の天皇、二〇余年の間は日本国が天台宗に帰依して法華経の行者であったと述べます。しかし、栴檀の香ばしさを伊蘭の悪臭が邪魔をし、釈尊の教化を提婆が阻害したように、伝教が遷化したのを機に弘法により真言の邪法が蔓延し国難が多発したと指摘します。

 伝教が弘仁一三(八二二)年六月四日に遷化すると、弘法は待っていたかの如く翌年正月一九日に真言宗を第一とし、法華経を第三の戯論の教え無明の辺域等と立てたと述べます。正月一九日は嵯峨天皇が弘法を東寺長者とし、これにより永く東寺を賜り真言密教が急速に発展します。次いで教王護国寺と改称します。『秘蔵宝鑰』『十住心論』は淳和天皇の時に書き終えますが、嵯峨天皇に「申しかすめたてまつりて」(一六六一頁)と、嵯峨天皇の許しを得たと偽って真言宗を七宗に加えたと見ています。慈覚はこれ迄に無かった『金剛頂経』と『蘇悉地経』の疏を作り、大日経を第一、法華経を第二とします。前唐院という五間三面の寺を建て、唐より持ち帰った典籍や図像を安置し平生は禅座していました。

智証も園城寺を建立して真言を弘通します。勢力を拡大し戒壇勅許により叡山と対立し七回も焼き討ちに遭います。高倉の宮を篭城させ戦乱を起こしたように、「国のわざはい(禍)とみゆる寺是也」(一六六二頁)と指弾されます。(『報恩抄』一二二〇頁)。慈覚・智証の二人がいなければ叡山に真言の悪法は起きなかったと述べます。八一代の高倉天皇以後の五人の天皇は臣下のために位を奪われたのも真言の邪見にあります。更に禅宗の大邪法、念仏宗の小邪法、真言の大悪法が流布し、正法が失われ王法も福徳を喪失したと述べます。故に天照太神や八幡大菩薩の威力が失墜し、終には蒙古に攻め奪われる危惧を述べます。

 聖人は『涅槃経』の「仏法中怨」「倶堕地獄」の責めを恐れ、仏使として幕府に諫暁したため大怨敵になったと述懐します。末法は三災七難が起き人心の三毒により飢渇・疫病・合戦が起きると述べ、行者を迫害することにより国難が激化したと述べ、輪陀王と白馬の関係を次のように解釈します。

「今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女、人々ことなれども同一の三毒なり。所謂南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば、人ごとに釈迦・多宝・十方の諸仏を一時にのり、せめ、流し、うしなうなり。是即小の三災の序なり。しかるに日蓮が一るい、いかなる過去の宿しうにや、法華経の題目のだんなとなり給らん。是をもてをぼしめせ。今梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩、日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎは過去の輪陀王のごとし。白馬は日蓮なり。白鳥は我らが一門なり。白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり。此声をきかせ給梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をまし、ひかりをさかんになし給はざるべき。いかでか我等を守護し給はざるべきと、つよづよとをぼしめすべし(一六六三頁)

と、善神は輪陀王であり白馬は聖人、白鳥は弟子信徒であると述べます。白馬の嘶きは一門の南無妙法蓮華経の題目の声であるとし、題目を唱えることにより善神が威光を増し我等を守護すると教えます。

 三月に道崇から仏事供養料として多額の金銭があり、百名程の弟子たちを養育できました。弘安元年一一月二九日の『兵衛志殿御返事』(一六〇六頁)に、六〇人であったのが百人以上に増えていました。体調が勝れなくても多くの者と寝食を共にし養育されていたのです。三月の仏事とは祖父の一七回忌の法事と思われます。建治元年四月に教信は父の一三回忌を行っています。(『法蓮抄』九四五頁)。法門を教授していることを祖父は喜んでいるとして閻浮第一の仏事と述べます。釈尊は孝養の人を世尊と名付けたので、道崇もまた世尊と言えるほど孝養心が深いことを褒めます。

 

○大進阿闍梨の死去

 道崇の弟の大進阿闍梨の死去にふれます。大進は竜口法難の折りには、鎌倉を中心に門下の連絡にあたり教団の結束に奔走した人物です。死去は悲しいことであるが法華経が広まる因縁となると諭します。諸々のことは命を長らえたならば申し上げると擱筆します。

 

○無学祖元を建長寺住持に

祖元は八月二〇日に建長寺に住持として入り翌二一日に着任します。日本帰化して無学派(仏光派)の祖となります。諡号は仏光国師・円満常照国師と言い日本の臨済宗に影響を与えました。時宗は進んで参禅し精神的支柱とします。指導は懇切なことから老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士が参禅します。弘安四年から天童寺を模して円覚寺を造作します。弘安五年に蒙古との戦乱の死没者を供養するため建長寺と円覚寺を兼住します。蒙古対策においては積極的であり、弘安四年の襲来の一ヶ月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫かれ)の書を与えます。蒙古対策についての見解は聖人と相違しています。在日八年目の弘安九年九月三日に没し建長寺後山に埋葬されます。幕府の祈願所として尾張国富田荘・上総国畔蒜荘の二荘を寄進して保護をします。しかし、時宗は伽藍の完成を見ることなく弘安七(一二八四)年に他界します。祖元もその二年後に没します。弟子に高峰顕日(夢窓疎石の師匠)・規庵祖円(南禅寺二世)がいます。

□『四条金吾殿御返事』(三四〇)

熱原法難の渦中の九月一五日付けにて頼基から一貫文を布施されたことへの礼状です。真蹟は八紙断簡が身延に曾存していました。本文中に大進阿闍梨の死去(弘安二年八月)と領地の加増についての記載があることから、弘安二年月一五日とします。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四〇一頁)

 

○頼基は領地を賜る

本書には頼基の信仰を褒め、また、主君より新たに領地を賜ったことを悦ばれます。末法には法華経を信じ難いと退転した者にふれます。まず、賢人や聖人であっても世間に優れている人に嫉妬を起こす心理を述べます。漢の文帝の后である王昭君は美女のため三千人の宮女に嫉まれ、帝釈天の九十九億那由佗の無数の后たちは、夫人である憍尸迦女(きょうしか)を嫉んだこと。日本では前の中書王である醍醐天皇の皇子兼明親王を、小野の宮の大臣藤原実頼が妬んだこと。北野の天神である菅原道真は、左大臣藤原時平に妬まれ筑紫の太宰府に流されたことを挙げます。中書王とは親王で中務省の長官中務卿になった人です。頼基にも同僚の嫉妬があるので注意を促されます。

主君の領地は広いが公達は多く年来の家来は増えるので、分与してと少なくなったと述べます。池の水が少なくなれば魚が騒ぎ、秋風が立てば小鳥が梢を争うように嫉妬が激しくなると述べます。主君の仰せに添わない代わりに所領を返上し鎌倉に居住していました。反感を持たれながらも所領を賜わったのです。世にこれ程の不思議はないと述べます。これこそが陰徳があれば必ず陽報があるという証拠で、偏に主君に法華経を信じさせようと勧めた深い真心にあると称賛します。

「入道殿の御内は広かりし内なれどもせばくならせ給 きうだち(公達)は多くわたらせ給。内のとしごろ(年来)の人々あまたわたらせ給へば、池の水すくなくなれば魚さわがしく、秋風立ば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人々そねみ候らんに、度々の仰をかへし、よりよりの御心にたがはせ給へば、いくそばくのざんげん(讒言)こそ候らんに、度々の御所領をかへして、今又所領給はらせ給と[云云]。此程の不思議は候はず。此偏に陰徳あれば陽れたる報ありとは此也。我主に法華経を信じさせまいらせんとをぼしめす御心のふかき故か」(一六六五頁)

阿闍世王は釈尊に敵対していたが、耆婆大臣の勧めにより法華経を信じ天下を治めた。妙荘厳王は二人の王子の勧めによって邪見を改めたように、頼基の勧めによって主君も心を和らげたと述べます。

次に根が深ければ枝は栄え、源が遠ければ流が長いという文を引いて、法華経は必ず栄えると天台が説いたことを示します。しかし、現実には退転した者がいました。

「此法門につきし人あまた候しかども、をほやけわたくし(公私)の大難度々重なり候しかば、一年二年こそつき候しが、後々には皆或はをち、或はかへり矢をいる。或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身をちぬ(一六六六頁)

聖人の身に危害が重なると一年二年は付いて来た信者も退転し、還って敵となり矢を射るように反逆した者がいました。また、形だけは信仰しているように見せかけるが実は信仰のない者、或いは信じていても世間を恐れて退転した者がいました。竜口法難の時がそうでした。法華経の信仰は他者からの迫害や脅迫があり、それ故に難信難解であるとします。この難信難解について釈尊と五比丘の事例を挙げて説明します。釈尊は王宮を捨てて出家し檀特山にて一二年の修行をします。伴った五人の者も出家し釈尊と同じく修行に入ります。五人のうち拘鄰(くりん)と十力迦葉は母の親類になり、頞鞞(あび)跋提(ばつたい)拘利太子は父の親類です。六年の難行の時に二人は去り、後の苦行を捨てた六年の時に三人も釈尊を捨て去ります。つまり、釈尊の従者であっても最後まで支えた者はいない例を挙げたのです。それは釈尊在世よりも厳しい迫害があるからです。

今はまさに末法「五五百歳」であると述べ、日で言うと五月十五日の夏至、月では八月十五日の中秋の夜であると例えます。天台・伝教の時は尚早、今から後では残党が敗走するようなもの、大陣は既に破られたのであるから正しく法華経を広める時であると強調します。

 

「今こそ仏記しをき給し後五百歳、末法の初、況滅度後の時に当て候へば、仏語むなしからずば、一閻浮提の内に定て聖人出現して候らん。聖人の出るしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説れて候に、すでに合戦も起て候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出させ給て候らん。きりん(麒麟)出しかば孔子を聖人としる。鯉社なつ(鳴)て聖人出給事疑なし。仏には栴檀の木をひ(生)て聖人としる。孔子は二十五の文を踏で聖人としる」(一六六七頁)

 釈尊の予言が正しければ閻浮に聖人が出現しているとして、その証拠を閻浮第一の合戦と述べます。即ち蒙古襲来を指します。麒麟が現れたのを見て孔子が聖人であると知ったこと、鯉社が鳴るのを聞けば聖人が現われることを知る。栴檀の木が生いて仏が聖人であることを知る。老子は足の裏に二と五の文を蹈み、手に一〇文を持っていたので聖人と知ったことを挙げます。麒麟は牡を麒、牝を麟と言い牡牝を合わせて麒麟と言います。聖人の出現する前に現われる伝説の神獣です。『礼記』には国王がのある政治を行う時に現れる神聖な瑞獣とあります。鯉社は里社のことで神祠(ほこら)のことです。聖人が現れる前に鳴るとされます。出典は文選五三巻の李蕭遠の運命論に「里社鳴って聖人出ず」とあり、その注には「良曰く里社、神祠なり」とあります。

また、中国の伝説に聖人であるという証拠の一つに、一方の足の裏に二の字、もう一方に五の字が書かれていると史記老子伝にあります。つまり、これらの伝説を挙げて上行菩薩が生まれていることの証左とします。では、その人は誰かを判断する方法を述べます。

「末代の法華経の聖人をば何を用てかしるべき。経云能説此経能持此経の人、則如来の使なり。八巻一巻一品一偈の人乃至題目を唱る人、如来の使なり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず、凡夫なる故也。但三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば、如来の御使に似たり。心は三毒ふかく、一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申ば如来の使に似たり。過去を尋れば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石にたがう事なし。未来は当詣道場疑なからん歟。これをやしなはせ給人々は豈同居浄土の人にあらずや。事多と申せどもとどめ候。心をもて計らせ給べし」(一六六八頁) 

 題目を唱える者、最後まで大難を耐えて法華経を説く者こそ仏使と述べます。換言しますと聖人こそが上行菩薩であることを、三類の強敵、「数々見擯出」の色読をもって証拠とします。過去の不軽菩薩に準え色読の必然性と行者の一致を説きます。また、「当詣道場」にふれ、行者を供養する者も霊山浄土に往詣すると述べます。最後に子供の具合が良くなったことを喜ばれます。病気平癒を依頼していたのす。同年四月二三日付けの『陰徳陽報御書』(一六三八頁)の前文にあたる『不孝御書』(一五九五頁)に、祈祷料を添えて依頼されたと思われます。

○大進阿闍梨の死去

また、大進阿闍梨が死去したことについて、末代の耆婆と称される頼基の推察が的中し人々は舌を巻いていたという風聞、三位房やそう四郎のことも符契を合わせたように的中したと言い合っていると述べます。そして、

「日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすし(医師)をば用まじく候なり」(一六六八頁)

と、聖人の病気の治療は頼基一人に一任していると述べ信頼感を表白して閣筆されます。この書簡を受けとった感激が伝わります。