303, 日蓮聖人の父貫名重忠と承久の乱について       髙橋俊隆

はじめに

父母を仏にしたい。日蓮聖人が出家した目的の一つは父母の成仏にあった。注目されるのは二つ目の要因である承久乱における三上皇の敗退の疑問である。父は流人とはいえ武家の出自である。幼少に関心を持たれたのは父の教育にあると思われる。承久乱が聖人に与えた影響と、それが出自に関していると言われる一端にふれる。

 

1.遠江国における貫名重忠の地位 

日蓮聖人(以下聖人と略称)の父貫名重忠は流人として小湊に在ったが、身分は武士であることを考察する。遠江の貫名氏は『寛政重修諸家譜』に藤原北家良門の三男利世に始まる系図が収録されている。冬嗣の後裔である備中守(遠江守)共資が村櫛に住む。その養子共保が井伊谷に移り住んで井伊氏を称した。実は共保は寛弘七(一〇一〇)年に引佐町の井伊谷八幡社の神井に捨て子とされた。後にこの井伊谷に土着して井伊氏の始祖となったのである。その後、五代の裔となる赤佐盛直の一男が井伊良直、二男が赤佐俊直、その弟の政直が山名郡貫名の郷を領して貫名氏を名のる。この政直の孫の重実、そして、重実の二男が重忠である。

遠江国は『延喜式』によると上国にあたり、荘園数は五〇余り国衙領も南北朝期の『国衙領注文』によると三三郷、御厨・御園は二〇に達する。中世には静岡県磐田市、袋井市の大半の地域を含む山名郡に属し、貫名郷は現在の袋井市広岡地区、妙日寺は貫名氏四代の居住した処とされ、特に熊野神領の荘園であった。(『袋井市史』通史編四九六頁)。

 この地域は熊野新宮造営のための費用を賄う公領となっていた。(『静岡県神社志』)。山名郡は白河・鳥羽・後白河の上皇の三代起請地の一つとして、平安末期には熊野山の所領となる。「熊野本宮神領覚書」に遠江国土橋・同袋井・同木原・上総国川原村・同横田の五所の燈明領が記載されている。(『日本荘園大辞典』三三八頁)。

また、八介の一つを称した井伊氏は遠江国における有力在地領主であっ。ここから、重忠は貫名郷の領主として戸籍・税務・訴訟・警察などの実務を執行した武士であると想定できるのである。(『静岡県史』第三巻四五頁)。

 

2.領家における荘官としての職能 

重忠の弟の藤原民部実信は『本化別頭仏祖統紀』に北面衣冠の武士で藻原に移り小林実信と名のるとある。『本山藻原寺略縁起』には、重忠兄弟は土御門帝に仕えた衛兵曹で、元久元年将軍実朝のとき伊勢平氏の乱に興党し両氏は流刑。重忠は小湊、実信は藻原に放たれたが後に赦免されて京都に帰る。実信の子実長は男金に移り興津佐久間重貞の妹を娶るとある。男金は東条郷に属し子供に新大夫入道・弥四郎の武士と民部日向がいる。重忠が伊勢平氏に加担した史料がないことから、配流の原因を一族の所領の争いと『御書略注』にある。朝敵反逆の者に故実の博士である大野吉清は娘を嫁がせることはないとする。つまり、流人ながらも武士としての身分は保障されていたことを確認したのである。

頼朝は文治元(一一八五)年一一月に総追捕使・総地頭に任じられ、諸国に守護・地頭を設置して全国的な支配が朝廷から公認された。これにより地頭は領地獲得のため殺傷事件を頻繁に起こしていた。小湊の領主は領内の諸問題に対応できる有能な人物を探していた。このとき重忠との出会いがあった。

そこで、重忠の職能が浮かび上がる。高木豊氏は荘官として漁業権の経営管理を行っていたと述べる。(『中世日蓮教団史攷』三頁)。中尾堯氏は中山法華経寺に伝わる紙背文書「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」から「ぬきな」氏の身分は、長専が守護被官であったことから、貫名氏も守護の被官として文筆官僚の系譜を引く家柄としての立場にあったと推測された。(『日蓮』二五頁)。つまり、荘官としての職能を有していたことが窺える。(拙稿「日蓮聖人の親族と教団の形成について」『日蓮教学をめぐる諸問題』所収一頁)

聖人は自らの出自を「安房の国長狭郡東条郷片海の海人が子」(『本尊問答鈔』一五八〇頁)と、この弘安元年に清澄寺の院主であり俗兄とされる浄顕房に述べている。安房国は奈良時代より良質な鮑を朝廷に貢納されていた。海女ではなく海士という男性が採取した。クロアワビ(盤大鮑)・メガイアワビ(羊鮑)の二種は小湊の海域に生息していた。貝殻を加工した石決明は肝機能を整え眼病の症状を緩和する生薬として珍重された。

安房は部民集団に属し貢納・奉仕の関係を伝統的に根強くもっており、小湊の人々は天皇の食材を貢ぐ御食国の義務を担っていた。ここに、天皇に直属して贄を捧げてきた禁裏供御人と、海上輸送に長けた海人の集団が小湊に居住していたと考えられる。供御人は関・渡・津・泊などで通行税を賦課されることなく自由に通行できた。広い商業交易にて外部の情報を熟知していた存在である。(稲垣泰彦著『荘園の世界』八二頁)。

安房の長狭氏は平安末期の長狭郡全域を領有した最大の平家の武士である。長狭常伴は安房へ逃れた頼朝を襲撃したため滅ぼされ、討滅した三浦義澄に継承された。頼家誕生の際に頼朝が東条庤宮へ奉幣使として遣わしたのが三浦義村であった。寿永二(一一八三)年に長狭郡の一部東条が頼朝から伊勢神宮の外宮に寄進され、翌元歴元年五月三日に朝家安穏と私願成就(平家討伐)のために改めて東條御厨となった。頼朝敬神の事実として『吾妻鏡』に記される。御厨を管理したのは伊勢神宮の権禰宜であった会賀正倫で、頼朝から伊勢神宮との連絡役として鎌倉に居宅を与えられていた。

和田義盛を倒した建暦三(一二一三)年五月の和田合戦は北条義時による執権政治を確立し、長狭郡の東條御厨は名越氏の所領になったという。宝治元 (一二四七) 年、時頼は三浦氏一族を滅ぼし安房にも北条氏の勢力が拡大した。三浦氏のあとは、安東・東条・安西・丸・多々良・山下氏の名がみえ、所領の規模は安東・東条氏が多い。

建長二(一二五〇)年、時頼が伊勢神宮の祈念祭礼日に弊物を捧げたとき、東条次郎大夫を御使として発遣している。建治元(一二七五)年の「六条八幡宮造営注文」に見える東条悪三郎は東條御厨の領主とされる。(『天津小湊の歴史』上巻一六三頁)。この悪三郎は景信の先代で、重時の家人として宝治合戦以後に急速に勢力を伸ばした。同じ東条には水上交通に長けた伊豆狩野氏と同族で、天津を領有していた工藤吉隆がいる。吉隆と聖人の関係からすると、天津御厨の雑掌にも重忠が関与していたと考えられる。

 領家と地頭景信との対立が激しくなるのは時勢であった。領家とは一般的に中流の貴族や官人が、天皇家・摂関家・大寺社といった上級権力に土地を寄進して任命される地位をいう。実際の荘園を経営しているのは預所・下司などに任せていた。領家の尼は名越氏の一族と特定できないが、領家は地頭御家人級のもの在地性が強いと言う。(川添昭二著『日蓮とその時代』一六三頁)。東條郷の地頭は承久乱後、近傍の地を侵略しながら地頭領主制を形成していった。東條御厨は景信の支配になったことは小松原法難に明らかである。住民の境界など領有をめぐる係争は精通した専門家が要求される。浦には網中と呼ばれる農村と異なる生産構造があった。しかも狼藉行為に及ぶことが多かったので、武力にも長けた人物が必要であった。領家の領有する荘園における訴訟や公事の徴収、そして、治安維持にあたった者が重忠と考えられる。 

3.日蓮聖人の武家的・荘官的性格

 重忠はどのような人物であったのか。幼少時の父親の影響を探ってみようと思う。幼児期における体験や教育は人格の形成に強い影響を与える。重忠は源平の合戦を経験した武士であった。それゆえ平和な国家意識を教えたのではないか「日蓮は此関東御一門の棟梁也」(『佐渡御書』六一二頁)、「我一門の者のため」(『開目抄』五八八頁)との文章は武家言葉であり一門意識が窺える。塚原問答の折り法論が終わり帰ろうとする本間重連に向かい、

 

弓箭とる者はをゝやけの御大事にあひて所領をも給り候をこそ。田畠つくるとは申せ。只今いくさ(軍)のあらんずるに、急ぎうちのぼり、高名して所知を給らぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべし」(『種々御振舞御書』九七五頁)

と、武士の心構えを説いている。戸頃重基氏は聖人が武士を引き寄せることができたのは、武士の忠節や孝行や廉恥名誉や所領に対する要求に応えることができたからと述べる。(『鎌倉仏教』六八頁)。

 他にも、一介の漁民の子供に清澄在山が可能であったのか。川添昭二氏は父親が清澄寺の寺領支配の系列に荘官―名主級として位置していたことが機縁になったと述べる。(『日蓮とその時代』一六四頁)。鎌倉や叡山遊学も漁夫の子供としては異例であり必要もなかった。一六年にも亘る自由な学生の身分を保障されていた資金源はどこにあったのかが問われる。父母に墓があるのはある程度の地位があったことで、最底辺の庶民に墓があるのは例外となる。佐々木馨氏は二七名の武士を引用した資料的事実から思想の中に歴史的武士性が内在すると述べる。(『中世仏教と鎌倉幕府』三五九頁)。さらに、高木豊氏は檀越の主体は武士で将軍の直臣としての御家人やその被官が多かった。左衛門尉・大夫志・兵衞志など任官したものがあるが、武士階級の上層を占めるものではない。田堵名主的地主層・地頭的領主層が多い(『日蓮攷』三一八頁)。下人を使い慣れている等の指摘がある。

笠井正弘氏は聖人に特徴的なのは荘園管理に関わった荘官の職務の中でも、訴訟事務に当たる沙汰雑掌の性質があると指摘されている。(「日蓮における雑掌的性格と政治行動」『宗教研究』第五十二巻第三輯所収二一九頁)。さらに、聖人の特徴的な宗教性は武家法である関東の『貞永式目』に正当性を認めていたと指摘する。法華最勝を論じるときに用いる文証・現証が、一般的な用法として道理・証拠・証文を示すことに共通する。つまり、「依法不依人」の法治主義である。ここに、雑掌的な習性を示す証拠とされた。道元や法然にはこの概念の使用が観察されず、親鸞にもほとんどないことと対照的と述べる。訴訟関係は叡山にとっては、強訴の常連と言われるほど手馴れたもので、各地で国司と訴訟を引き起こした。しかし、聖人の訴訟の実務は叡山で取得したのではなく、重忠の雑掌的能力を体得していたと言える。

 

領家に依頼された景信との訴訟に勝利

具体的な訴訟として領家の尼の荘園領保全のための、地頭東条景信との争論がある。極楽寺系北条氏政治権力との対抗関係とも言えるが、この当時は領主権が吸収され押奪されることが頻繁に起きていた。『清澄寺大衆中』に、

 

「東條左衛門景信が悪人として清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東條が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじょう(精誠)の起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけていのりて、一年が内に両寺は東條が手をはなれ候しなり」(一一三五頁)

 景信を悪人と名指し飼鹿を狩猟したことを一つの理由として起訴した。武士は刀・弓矢・馬術に堪能であることが必須だった。狩猟の目的は弓矢と馬術に習熟することになる。清澄寺をそのための狩倉にすることだったのか。冬狩倉と夏狩倉があり普通は冬に行う。それは葉が落ちて見通しがよいこと、動物も寒さに備えて皮も肉も厚くなっている。夏の狩りは主に鹿で子鹿や夏鹿に白斑があり高価であった。また、武具の調達のためとも思われる。当時は合わせ弓で木と竹を膠で貼り糸をまきしめる。弦も膠を使って強くした。この膠は煮る皮で鹿の皮や腱から作る獣膠が優れていた。皮革は鎧など武具の材料となる。(服部英雄著『武士と荘園支配』八頁)。狩りにも公事を賦課する問題もあった。(黒川正宏著『中世惣村の諸問題』八九頁)。また、聖人が精誠を書いて祈願したのは山房の法師を念仏に改宗する謗法行為を阻止するためであった。

この景信と領家の争いは、清澄・二間の両寺の支配権にある。四至の榜示が明確でなかった。『荘園志料』に「東條御厨、豊受宮領なり寿永三年源頼朝之を献ず、今郡中和泉村より小湊浦までを云ふ」とはっきり明示していない。そのため景信が地先水面の領有を主張して領家と争ったと言える。その煩雑な領有権の訴訟に領家が勝訴したことは、二間川以北が領家の所領となったことであり、清澄寺にとって聖人は恩人となる。『神鳳抄』に「白濱御厨(東條御厨内・号阿摩津御厨)」とあり、白濱御厨と天津御厨は同一の御厨で東條御厨の内とある。これが白濱の新御厨の成立と関連し、在地領主の工藤吉隆と天津神明社に関連することは充分に考えられることである。(伊藤一男著『日蓮誕生』一〇一頁)。聖人が裁判に出向いたのは父親の荘官としての職責を代理したと言えるのである

『問注得意鈔』にみる問注所における態度

文永六年五月九日、常忍に問注所から訴状がきて呼出された。常忍と同じ有力武士から法華信仰が過激で守護の職務を遂行できていないという信仰に発している。常忍は問注のあることを当日に聖人に知らせた。緊急の事態であり双方共に直接会う余裕がなかったため、筆を整える余裕もなく問注の場における心得を書状で指示された。「三人御中」へ宛てた他の二人とは太田乗明・曽谷教信の二人に金原法橋の八幡庄付近に住む者である。(中尾堯著『日蓮真蹟遺文と寺院文書』四〇頁)そして、問注の裁決は別とし敢えて心構えを説く内容に注目される。 

「今日召合御問注之由承候。中略但兼日雖有御存知鞭于駿馬之理有之。今日御出仕望於公庭之後設雖為知音向傍輩可被止雑言。両方召合之時御奉行人訴陳之状読之之尅付何事御奉行人無御尋之外不可出一言歟。設敵人等雖吐悪口各々当身之事一二度可如不聞。及三度之時不変顔貌不出麁言以耎語可申」(四三九頁)

 奉行人が訴状と陳状を読み上げる。その内容が事実と違っていても奉行人から尋問がなければ一言も述べてはいけない。相手が悪口雑言しても二度までは聞かぬふりをし、三度に及んだときに顔色を変えず丁寧な言葉使いをして対応するように注意される。また、供の雑人にも何があっても騒動を起こさないようにと留意させる。このように市川の国衙(『全篇解説日蓮聖人遺文』二八六頁)にあった問注所における「三事相応」した態度を指示された。『御成敗式目』の第一二条には、問注の時に悪口をしたら系争している土地を相手に引き渡すか他の所領を没収するとある。聖人が隅々にわたる心得を述べたのは、法廷の現場を熟知した証拠と言える。問注の実態を示す文献として貴重な史料となっている。

③『頼基陳状』にみる忠義と書式の熟知

建治三年六月九日、三位房と龍象房との「桑ヶ谷問答」に端を発し、頼基は連座したと言う理由にて主君から下文があった。聖人への帰依を止めなければ、二箇所の所領を没収すると改心を迫り起請文を要求した。同輩は問答の実態を捏造して失脚を狙った。頼基は直ちに経緯と不退の信仰心を記して対処を求めた。聖人は頼基に代わって弁明の陳述を記した。

「去六月二十三日御下文。島田左衛門入道殿・山城民部入道殿両人の御承として同二十五日謹拝見仕候畢。右仰下之状云、龍象御房の御説法の所に被参候ける次第、をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍一方ならず同口に申合候事驚入候。徒党仁其数帯兵杖出入云云。此條無跡形虚言也。所詮、誰人の申入候けるやらん、御哀憐を蒙て被召合実否を糾明せられ候はば可然事にて候」(『頼基陳状』一三四六頁) 

冒頭に、六月二五日に江間氏の家臣である島田入道と山城入道の二人が、御下文を届けたと記し、龍象房の説法の場に徒党を組み兵仗を帯して臨んだとする仰下之状について虚言と弁明する。そして、進言した者と公場にて真偽を糾すことを願い出て詰問の条々に答弁する。桑ヶ谷問答の経緯を明かし悪口等の悪行は無いとして、その場には頼基を知っている者が多数いたので、それらの者にも証言を得て謀略した者を究明したいと重ねて願い、江馬光時の怒りが冤罪であることを述べる。理路整然と忠義を示す論調は説得力があり巧みな弁証を知ることができる。そして、陳状書を大学三郎か瀧太郎か常忍に浄書をしてもらうように指示された。聖人は陳情書の規定に則した書式を熟知した証拠と言える。

④熱原法難における問注の指示

弘安二年九月二一日に滝泉寺院主代行智は日秀の信者紀次郎の田を勝手に刈り取った。農民と乱闘になることが目的であった。行智は法華信者が寺領に弓矢を持って立ち入り、作毛を刈り取らせ持ち帰ったと苅田狼藉を捏造した。行智と結託していた下方の役人が大挙して神四郎達二十人を捕らえる。弥藤次(神四郎の兄)が訴人となり百姓を幕府に提訴したので即刻鎌倉に拘引された。日興は熱原の農民が捕縛されたことを聖人に知らせ鎌倉に向かう。一〇月一〇日、常忍が代表して陳状の草稿を聖人に送り指示を仰ぐ。その陳状の添削をして問注の具体的な指示と不当を弁明して釈放を要求したのが『滝泉寺申状』である。

「駿河国富士下方滝泉寺大衆 越後房日弁・下野房日秀等謹弁言。当寺院主代平左近入道行智、為塞條々自科遮 致不実濫訴無謂事。(中略)訴状云 今月二十一日催数多人勢帯弓箭打入院主分之御坊内。下野房乗馬相具 熱原百姓紀次郎男立点札苅取作毛取入日秀住房畢云云」(一六七七頁)

富士下方は今泉・原田・吉原・伝法・鷹岡など一帯を言う。滝泉寺の大衆としての身分を持つ日弁・日秀達は謹んで訴状に対し弁明すると書式に随って始まる。まず、行智は自分の罪や悪行を隠すために訴訟を起こしたと反論する。正当な立証も無く訴えられたと陳状する。そして、三項に訴状の核心である熱原の苅田狼藉について行智の訴えの不当を主張した。そこで訴状は虚誕と弁明しこの訴えは矯飾であると賢察を促し、行智の非法について六項目を提起した。

得宗領における裁判は得宗家公文所にて被官頼綱が審理に当たった。一〇月一五日、頼綱の個人的な裁決により三名を斬罪に処した。一七日午後六時に日興よりこの報告を受けた聖人は、午後八時に淡路房を鎌倉に急行させ一七名を釈放させる訴訟を命じた。(『変毒為薬御書』一六八三頁)。この問注が功を奏し時宗の上聞に達し頼綱の抑圧が緩み、一一月六日以前に勝訴し一七名が釈放された。日興や常忍でさえも信仰の事とは言え訴訟の指示を求めていたのである。用語の一つからも訴訟に堪能であることが分かる。

⑤律宗寺院が関料を徴収した供御人の情報

正嘉三(一二五九)年に律宗の西大寺流極楽寺は創建され、弘長二年(一二六二)に良観が鎌倉の極楽寺に入り幕府のもとで慈善事業を始めた。幕府行政における現業分野を西大寺流極楽寺が担っていた。(湯浅治久著『戦国仏教』三五頁)。鎌倉の港湾は極楽寺の権益となって和賀江湊の管理や関料の徴収を行い、漁民の管理、貿易、商業活動に関わる事務を行っていた。船橋御厨(夏見)も律宗の安養寺が通行税を徴収していたように、極楽寺の動きが全国的な規模に広がった。

聖人は律宗寺院が津・港湾の管理運営をして、幕府と癒着していたことを「律国賊」と批判した。『聖愚問答抄』(三五三頁)に極楽寺が飯島の津で六浦の関米を取り、諸国の七道に木戸を作っていたとの記述がある。これは重忠が御厨の供御人や海人と携わっていたので、海運の行商に詳しかったと言える。

同じように、「例世間小船等カ自筑紫至坂東鎌倉より、いの(江ノ)嶋なむとへつけとも、唐土へ不至。唐船必自日本国至震旦国無障也」(『薬王品得意抄』三四〇頁)。「鎌倉よりつくし(筑紫)、みち(陸奥)の国へもいたる」(『乙御前御消息』一〇九六頁)などの文面に見える。

房総半島は古代より紀伊半島と海上交易で繋がっていた。平安末期に京都の新熊野社の所領支配となり、安房は熊野新宮の造営費用を賄う国に指定された。従って熊野信仰に伴う御師との関わりが深かった。これら御師や供御人から極楽寺を首領とした律宗寺院の利銭借請や、関米・木戸銭の実態を聞いていた。そういう権益による土木事業の非法を糾弾し、その事業を支持した幕府の宗教行政を批判したのも(佐々木馨著『中世仏教と鎌倉幕府』二三〇頁)、育った環境にあったと言える。

⑥男女の人数把握と物価を換算する能力

 細かな端数に至るまで正確に把握する性格から、年貢の徴収に関連した一切の事務を行う所務雑掌の素養が見られる。例えば弘安二年八月十七日付け『曽谷殿御返事』に、

「今日本国の人々四十九億九万四千八百二十八人の男女(中略)日本国の三千一百三十二社の大小のじんぎ」(一六六三頁)  (2504頁)

と述べ、弘安四年閏七月一日付け『曽谷二郎入道御報』に、

「日蓮云夫日本国者道は七国は六十八箇国郡は六百四郷は一万余長三千五百八十七里也。人数四十五億八万九千六百五十九人或云四十九億九万四千八百二十八人也。寺は一万一千三十七所、社は三千百三十二社矣」一八七三頁

と述べている。日本国の周匝、六八の諸国の国府と郡へ繋がる駅路七道、人口は飢饉や疫病等にて減少したのである。億の位は現在の十万の位になる。寺は一万一千三十七、仏教伝来以来の堂塔などを加えると「国々郡々郷々里々村々に堂搭と申、寺々と申、仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり」(『中興入道御消息』一七一三頁)と、非常に細かな処まで調べている。とくに年貢徴収・使役に当たっては、男女の違い年齢の把握は最も重要なことであった。安房は「遠国」(『本尊問答鈔』一五八〇頁)と述べたのは『延喜式』の庸調物が中央に届けられる期限で、往路三四日、帰路一七日、一二月三〇日と決められていた。

また、母乳の価値を、

「母の乳をのむ事、一百八十斛三升五合也。此乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし。されば乳一升のあたひを撿へて候へば、米に当れば一万一千八百五十斛五升、稲には二万一千七百束に余り、布には三千三百七十段也。何況一百八十斛三升五合のあたひをや」(『刑部左衛門尉女房御返事』一八〇五頁)

と、貴重な母乳の値を米や布に換算する能力は、年貢・貢納の公事における代銭納として実務的な計算能力と言える。何よりも遺文に必ず供養品の名目や数量や金額を詳細に書き記す習性は幼少の頃に培われたものと言える。その礼状の数は鎌倉の祖師の中でも多いと言われる親鸞でもはるかに及ばない。荘園における荘官などの年貢請取状に類したものが想定されるのである

⑦刀剣にくわしい

 更に注目されるのは刀剣の知識である。文永一一年二月二一日佐渡に北条彌源太から太刀二腰の奉納があった。彌源太の病気平癒の祈願のためである。『弥源太殿御返事』に、

「又御祈祷のために御太刀同刀あはせて二送給はて候。此太刀はしかるべきかぢ(鍛匠)作候歟と覚へ候。あまくに(天国)、或は鬼きり(切)、或はやつるぎ(八剣)、異朝にはかむしやうばくや(干将莫耶)が剣に争かことなるべきや」(八〇六頁)

この太刀は青江恒次作の数珠丸である。本阿弥光悦は天下五剣の名刀と鑑定した。童子切安綱(国宝)・鬼丸国綱(御物宮内庁所蔵)・大典太光世三日月宗近(国宝)そして数珠丸恒次(重要文科財、本興寺所蔵)の五口の名刀のこと。干将と莫耶は中国の二名剣で、干将と莫耶の夫婦が呉王のために作った陰陽二剣のことである。

身延三一代日脱の『身延鑑』(新訂四五頁)に、「御袈裟、扇、解脱同相の御衣の下に帯し給う御太刀二尺八寸、青江なり」と身延の三宝とされている。『亨師目録』の身延山「西土蔵宝物録」に、「第四長持ち黒塗り桐紋内。名筆・妙経・舎利・御太刀・綸旨・御朱印等入」「宗祖御太刀二腰並に荘飾りの二具。袋有之箱入」と記録されている。つまり、聖人が所持されたことを確認できる。本阿弥光甫が蓮華紋の拵えにし、紀州徳川家に移り後に本興寺に格護された。(柴田章延稿「刀匠と法華信仰」『印度学仏教学研究』五七巻一号四〇九頁所収)。刀剣の確かな鑑定眼を備えていたことが分かる。

以上、聖人の性格と言動から父重忠は武士であり、領家のもとにて荘官の職にあったことを遺文に求めてきた。聖人は海上水運の経済体系の中に育ち、父の教育により雑掌としての能力を充分に備え海人との情報網を持っていたことを考察した。

4.承久の乱と皇胤説

なぜ三上皇の配流に関心を持ち出家の動機となったのか。皇胤説の出自を考察すると必ず追求しなければならないことではないか。承久乱は聖人が産まれる前年の事件であった。幼少の頃にもこの事件は民衆に語り続けられたであろうし、疑問を抱いた前提には百王守護の神祇観や天皇の有徳性がある。つまり、重忠の教育にあったと思われる。

『貞永式目』を遵守したように、世俗を超えた法として最も信頼を向けたのは仏法だった。末法思想の渦中にあって平和な国家と生死の問題の解決を仏教に求めた。ゆえに、諸国を遊学したのは真実を解明するためである。法華経に到達されたのは法四依の依法を遵守されたからである

三上皇配流の答えは真言宗への批判となった。天皇が真言の祈祷により鎌倉の北条氏を打倒しようとした。しかし、逆に敗退し三上皇は流罪、朝廷の権力支配は一気に壊滅した。ここに、真言亡国を述べた。『報恩抄』に、

「されば此真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来程に、人王八十二代尊成 隠岐の法王権太夫殿を失と年ごろはげませ給けるゆへに、国主なればなにとなくとも、師子王の兎を伏がごとく、鷹の雉取やうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申せ給しに、二日三日だにもさゝへかねて、佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失て終にかくれさせ給ぬ。調伏の上首御室は但東寺をかへらるゝのみならず、眼のごとくあひ(愛)せさせ給し第一の天童 勢多伽が頚切れたりしかば、調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ」(一二三六頁)

三上皇は真言師の邪法により禍を受けたと述べる。後鳥羽上皇は叡山・東寺・園城寺、南都七大寺に幕府調伏の祈祷をさせ、また、天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、祈願をかけ準備をした。いわゆる承久三年五月一五日に承久の乱が勃発したが、挙兵して一ヶ月、わずか一日の合戦にて、朝廷軍は幕府軍に制圧され首謀者である三上皇はそれぞれ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮冷泉宮もそれぞれ但馬国備前国へ配流され仲恭天皇も廃された。公卿と官軍も処刑にあった。

聖人は朝廷側や祈祷に加わった者が制裁を受けたのは、真言の邪法による謗法の罪によるものと解釈し、明雲(『秋元御書』一七三七頁)と慈円(『神国王御書』八八九頁)の真言祈祷を批判した。正法である法華経を主体としてみるときに、後鳥羽上皇は法華経に背反したため妄語の人となったと批判されるのである。

「正直に二あり。一には世間正直、王と申は天人地の三を串を王と名づく。天人地の三は横也。たつてん(立点)は縦也。王と申黄帝中央の名也。天の主・人の主・地の主を王と申。隠岐法皇は名は国王、身は妄語の人、横人也。権大夫殿は名は臣下、身は大王、不妄語の人、八幡大菩薩の願給頂也」(『諫暁八幡抄』一八四八頁) 

さて、聖人の出自に後鳥羽上皇の落胤説を挙げる一つの理由に、日朗が代筆した『伯耆公御房消息』に、

「然に聖人の御乳母のひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給い候て」(一九〇九頁)

と、梅菊は「乳母」との表記がみられることである。高木豊氏は同一人物なのに日朗が乳母としたところに、聖人の幼時に乳母の存在が確かめられると述べる。(「日蓮と女性檀越」『宮﨑英修古稀記念論文集』所収)。また、大久保雅行氏は乳母という意味は乳哺・養育のことであるから、梅菊は生母ではないと述べる。(『日蓮誕生論』二三頁)。つまり、養母と実母の二人の存在が認められるとするのである。

ここに、後鳥羽上皇と白拍子亀菊の子が聖人という説がある。史書としては『承久兵乱記』『星野家譜』を基とし数珠丸を証拠とする。『承久兵乱記』には後鳥羽上皇は承久三年七月一三日に隠岐に逆輿にて出立。このとき供奉したのは殿上人として出羽前司重房、内蔵権頭清範、女房一人、伊賀局、聖一人、医師一人とある。『吾妻鏡』には女房両三輩、清範、施薬院使長成、左衛門尉能茂の名が見える。(『大日本史料』第五編之一。三二頁)。『北条九代記』には女房二人、伊賀の局、白拍子亀菊の名が見える。(佐藤寒山監修『後鳥羽上皇と隠岐島』六五頁)。

このとき、亀菊は後鳥羽上皇の子供を懐妊していた。亀菊は八月五日に後鳥羽上皇と共に隠岐(阿摩郡刈田)に到着。八月一〇日に隠岐を去り、その半年後の貞応元年二月一六日に聖人をお産みになるとの説。隠岐に向かう途中、長江荘の領家なので神崎(尼崎市)にて別れ、数珠丸はこのとき形見として授与されたと言う。(野村日政著『数珠丸記』)。

長江荘にて子供を産んだというが、長江荘の地頭が北条義時であれば危険である。(小山靖憲稿「椋橋荘と承久の乱」『市史研究とよなか』第一号六八頁所収)。ただし、『日蓮教団全史』(二五頁)に亀菊は伊賀局で法名を帰本といい、後鳥羽上皇が崩御されるまで隠岐にて一九年間捧持し、亀菊自筆の「東寺御舎利相伝次第」(広隆寺所蔵)に、弘法大師筆の浄土三部経、定朝作弥陀三尊を厨子に納めて、観経の文を染筆した後鳥羽上皇の宸筆を形見として賜ったことが書かれていることから、後鳥羽落胤説を否定している。

これに付随して内浦西蓮寺と乳人の雪女の伝承がある。亀菊は産んだ子を善日麿と名付け、滝口三郎左衛門の娘雪を乳母としてやとい、薬師堂より西方の宝珠院の留守居西蓮に預け、その子に薬王丸という童名を与えて養育したと伝える。この縁により滝口家は屋号として「御乳」と呼ばれ、雪は聖人の本乳母(西蓮寺文書)とされる。

『星野家譜』(今村和方編、山口信一校訂三二頁)には、後鳥羽上皇と待夜の小侍従との子が星野(藤原)胤実とある。二七歳の安貞元(一二二七年)年に隠岐の後鳥羽上皇、佐渡の順徳上皇を訪ねた後、安房よりの使い五郎作に案内されて、道善房・貫名重忠・六歳の聖人に会ったと記述されている。

数珠丸と後鳥羽上皇は繋がっても、聖人が所持されたのは偶然のことだったのか。後鳥羽上皇が自ら向槌を打たれた秘蔵の太刀と言う。(広野観順著『法剣数珠丸考及聖祖皇統説の一勘検』一二〇頁)。因みに常忍の父行光が因幡の富木郷を去ったのは、後鳥羽上皇の倒幕に参加したためと言う。(高見茂著『よみがえる因幡国府』七五頁)。

常説寺の白輿も注目される。順徳上皇は佐渡へ流される途中、ここに萩堂を建てて半月余り逗留された。承久三(一二二一)年夏に、順徳上皇は寺泊から甲州御岳金峰山に奉幣のため御使用の輿を使わした。勅使は圓乗寺の萩堂に輿を留めて半月あまり天下泰平を祈願した。(「甲斐国志」)。その縁により順徳院山の山号を賜る。(『日蓮宗尼僧教団四十年のあゆみ』一二八頁)。『日蓮宗寺院大鑑』(四二七頁)には、白輿は順徳上皇の捧持された日本最古唯一の配流の輿とある。聖人は甲州巡教のとき圓乗寺に止宿し、順徳上皇に由緒あるのを知る。時の住持乗蓮僧都は一夜の教化により弟子となり、名を安楽院日乗と改め寺号も順徳院山常説寺と改めた。

順徳天皇も正室や側室以外の二人の女房が同行した。その一人は右衛門佐局で天福元(一二三三)年に善統王が出生されている。右衛門佐局の侍女に千日尼と妙法尼の名が挙がる。阿仏坊は遠藤為盛といい一谷入道の近藤清久の二人は順徳上皇の北面の武士という。(『御書略注』『宗全』第一八巻三〇九頁)。これに対し浅井要麟氏は遺文の中に順徳天皇と阿仏房との関係を述べていないこと。『千日尼御前御返事』(一三二二頁)に、「故阿仏聖霊は日本国北海の島のいびす()のみ()なりしかども」の文から佐渡の土着の住人と判断された。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻八八頁)。

 しかし、聖人の父は武士であったが、「日蓮は日本国、東夷東条安房の国の、海辺の旃陀羅が子也」(『佐渡御勘気鈔』五一一頁)と自称された。これは現状の境遇であり、出自は問題としない法華経の行者の自覚の立場から述べている。故に続いて、「いたづらにくち(朽)ん身を、法華経の御故に捨まいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや。各各なげかせ給べからず」と法重身軽・転重軽受の法悦を述べている。そして、書状の相手は清澄寺の浄顕房達へ宛てたことに、そう述べた理由があるのである。佐渡に五〇年過ごした阿仏坊を夷の身と称したのも同じことと言える。

 また、三位房が叡山に遊学し公家へ法談をしたことを自慢したとき、

「日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申は、かたかたせんとするところ日蓮をいやしみてかけるか。(中略)尊成とかけるは隠岐の法皇の御実名か、かたかた不思議なるべし」(『法門可被申様之事』四四八頁)

京都貴族の風に染まり言葉まで京なまりになったことを注意した。そのうえ名前を後鳥羽上皇の諱である尊成と書いたのは不思議とされた。三位房は曽谷教信の弟であるから聖人が後鳥羽上皇の子と知っていて、尊成の名前を書いたとしたらどうだろう。「日蓮をいやしみてかけるか」と、聖人の出自を蔑視してのことか、聖人の弟子でもあるのに甚だ不思議と述べたことに留意しなければならない。

聖人は仁治三(一二四二)年に叡山遊学の途に上る。八〇代道学は後鳥羽上皇の皇子で宝治元年(一二四七)三月に天台座主となり翌年に青蓮院門跡を継ぐ。八一代尊覚は順徳院の第五皇子で建長元(一二四九)年より一〇年在任されている。始めに東塔無動寺谷西方ヶ嶽六房の一つ円頓坊に住み、後に北塔横川の定光院に移る。園城寺等にも入蔵し、洛中の五条坊門の檀所にて『五輪九字明秘密義釈』(寺尾英智稿「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密義釈』について」、『鎌倉仏教の思想と文化』所収二八九頁)を書写できたのはなぜか。武家よりも有力な権威者の存在が窺える。

おわりに

貫名重忠という人物像を日蓮聖人の性格と言動に求めた。父より出自が後鳥羽上皇に関していると聞かされていたなら、否応なしに承久乱に強い疑問を持ち、その真実を追究されるはずである。祖母ぬきなの御局は出生より聖人を影で支えた。母大野梅菊の兄曽谷氏の親族たちも聖人の弟子信者となっている。佐渡の信者が身延に三度も登詣したこと、常忍の母下総局と阿仏坊が身延に埋骨されたのは深い縁があるからである。「依法不依人」の仏言を護る忠誠心を重忠に見ることができた。

  庵谷行亨先生古希記念論文集より)