302.池上宗仲の勘当~『十月分時料御書』       髙橋俊隆

□『兵衛志殿御書』(二六〇)

 無年号なので『定遺』は建治三年としますが、小松邦彰氏は本書の内容からみて弘安元年とします。(「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収九五頁)。日付は九月九日となっています。真蹟は一紙断片が池上本門寺に所蔵され二行が札幌光徳寺に所蔵されます。宗長に宛て追記に門下一同に示すように伝え、他人には聞かせないようにと念を入れます。

 

○宗仲の勘当が許される

『兵衛志殿御返事』(一四〇二頁)建治三年一一月二四日に再勘当され、建治四年一月二五日付け『四条金吾殿御書』(一四三七頁)に建治三年冬一二月中頃に勘当が解けていた記事があります。宗仲の最初の勘当は『兄弟抄』の系年から文永一二年説がありますが、建治二年四月一六日直前とされ同年中に許されます。再度の勘当は建治三年一一月二〇日頃で翌弘安元年正月に許され、これより父子兄弟が帰依しています。この池上家の問題は教団全体の問題でもあったので日昭が聖人の指導のもとにに対処していました。(『弁殿御消息』一一九〇頁)。宗仲の妻は身延山に聖人を尋ねて指導を受けていました。

 

 ―宗仲の勘当――

最初の勘当  建治二年四月一六日の直前、同年中に許されます。 (『兄弟鈔』九二九頁)

再度の勘当  建治三年一一月二〇日過ぎ、同年一二月に許され父子兄弟が帰依。

(『兵衛志殿御返事』(一四〇二頁)。『四条金吾殿御書』一四三七頁。『兵衛志殿御書』一三八七頁)

○池上親子の和解と入信

六月二六日の味噌桶の供養(『兵衛志殿御返事』一五二四頁)以来の二ヶ月半ほど音信がなかったので、その後の状況を案じています。供養の礼状ではないことから思いあまって書状を送ったと思われます。

「久うけ給候はねばよくおぼつかなく候。何よりもあはれにふしぎなる事は大夫志殿と、とのとの御事ふしぎに候」(一三八六頁)

「よくおぼつかなく」とは甚だ気掛かりに思っていたことを言います。「あはれにふしぎなる事」(一三八七頁)とは兄弟が共に信仰を貫き父を入信させたことです。「あはれ」とは「あっぱれ」に近い表現で、感嘆や賞美の情を込めています。何よりも尊いと思われたのです。

末代の世になると賢人はいなくなり、嘘を言って人を陥れ讒人)、人に媚び諂い(侫人)、拗けた二心をもって悪口し(和讒)、間違った道理を主張する(曲理)者ばかりになる。このような時代は例えば水が少なくなれば池の魚が騒がしくなり、風が吹くと大海の波が穏やかではないように、国土に旱魃や疫病、大雨大風により災害が重なります。そのため心の広い人も狭くなり、道心のある人も邪見の者となってくる人間性を説きます。これらは他人のことであるが、父母、夫婦、兄弟等の肉親が争う姿は猟師と鹿と、猫と鼠、鷹と雉とが敵対するようなものであると述べます。

良観は信者であった父に二人の子供を改信させるため圧力をかけていました。宗仲は熱心な聖人の信者ですので、信仰上において親子の関係は背離していました。良観の狙いはこの親子関係を断絶させ宗仲を窮地に貶めることでした。こういう状況の中で宗長が兄と協力して父を法華信仰に導く姿を褒めたのです。そして、真実の教法である法華経は、末世騒乱の時こそ賢人が出現して広めると述べます。松は霜にも枯れず菊は他の草花が終わる寒い時期に花を咲かせるので仙草と言います。賢人は世の中が乱れた時に出現すると例えます。頼綱・時宗が賢人である聖人の言葉を聞き入れていたなら、建治元年九月七日に蒙古の使者五人を斬首して、蒙古の敵対心を増長させることなく、侵逼の国難を回避できたと後悔するだろうと憂慮されます。

 

「良観等の天魔法師らが親父左衛門大夫殿をすかし、わどの(和殿)ばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有しゆへに、二のわ(輪)の車をたすけ二の足の人をになへるが如く、二の羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入まいらせさせ給ぬる御計、偏に貴辺の御身にあり。又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出べしと見へて候。喩へば松のしも(霜)の後に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人不見。代の乱たるにこそ聖人愚人は顕候へ。あはれ平左衛門殿・さがみ殿日蓮をだに用られて候しかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切せまいらせ候はじ。くやしくおはすならん」(一三八七頁)

 次に安徳・明雲と承久の乱を挙げ、弘法・慈覚・智証の真言の悪法を用いたため、逆に「還著於本人」の経文のように自分たちが負け、しかも国を滅ぼし無間地獄の業を作ったことを述べます。そして、幕府が蒙古調伏を真言師に任せたのは三度目であり、過去の事実からして日本が負けることは自明のことと述べます。この理由は釈尊の使いである聖人を二度の流罪に処し、弟子を殺害・追放した罪科とします。また、白癩などの重病を患う人々が多くなるとして、法華経の行者としての覚悟を定めて弘通するよう促します。

 追伸に書簡は宗長に宛てているが、門下一同にも読ませるようにと伝えます。ただし、「他人に聞せ給な」と公言しないようにと注意します。『神国王御書』にも同じように「他門にきかせ給なよ。大事の事どもかきて候なり」(八九三頁)とあります。これは真言密教の修法による滅亡を述べたところです。つまり真言師が亡国の原因であることは重大な教えであること。これを今の時期に言えば危険が伴うとみて他言を禁止したのです。池上家と良観との確執、また、人々は蒙古の襲来を恐れている最中のことでした。

 

○御本尊(名古屋聖運寺)

 九月一五日付けにて治部卿に授与されます。日蓮宗新聞に紹介されました。(昭和六〇年二月一日号)。縦九八.四㌢、横四九、八㌢の三枚継ぎの本尊です。名古屋の聖運寺に所蔵されます。ただし、聖人の曼荼羅と類型が異なると言います。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』二二頁)

 

□『上野殿御返事』(三〇六)

 九月一九日付けにて時光から塩一駄・生姜を供養された謝礼の返書です。延徳年間(一四八九~九二年)の古写本が京都妙蓮寺に所蔵されています。身延は正月から雨が多く七月に入ってからは大雨になりました。南に波木井河、北に早河、東は富士河があり大雨のため河が氾濫して舟止めになっている状況と、西は深山で山が崩れ土砂や岩石が道を防いでいる状態を知らせます。道は閉じられて食料などの物資が流通せず、七月には塩一升を銭百貫文と交換し、その塩五合を麦一斗と交換していました。今は金銭よりも価値がある塩もなくなり、品物と交換する手立てがなく味噌も絶えて生活に不安を抱いていた時の供養でした。 

「小児のち(乳)をしのぶがごとし。かゝるところにこのしほを一駄給て候。御志大地よりもあつく、虚空よりもひろし。予が言は力及ぶべからず。ただ法華経と釈迦仏とにゆづりまいらせ候。事多と申せども紙上にはつくしがたし」(一五七二頁)

□『本尊問答抄』(三〇七)

 九月二〇日付けにて浄顕房から本尊授与の依頼を受け本尊の疑問に答えます。真蹟は現存せず直弟の日興の断片の写本が北山本門寺に所蔵され、中老賢秀日源の写本が岩本実相寺に所蔵されています。『常修院本尊聖教事』には、「一、御書箱」に「本尊問答抄一帖」とあります。

○浄顕房へ法華経の題目本尊

 古来より「法本尊」の根拠となる文言があり、『開目抄』『観心本尊抄』『報恩抄』の「人本尊」と見解を異にして疑義があります。直弟の日興・日源の写本が存在することから疑うべきではないとします。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇五五頁)。本書から清澄寺別当に何らかの事情があったと思われます。浄顕・義浄房は真言の者であったので、本尊を与えたときに大日や弥陀もこの南無妙法蓮華経から生まれたと説き、題目の能生を本尊とされた教化をしたと言います。つまり、本書は浄顕・義浄房に対しての教訓とします。特に真言宗には題目本尊を説いたと言います。(茂田井教亨著『本尊抄講讃』中巻五九〇頁)。田中智学氏は法本尊は対外門、仏本尊は対内門と言う解説をします。(『妙宗式目』)。本書は問答体より始まります。冒頭に、

「問云、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定べきや。答云、法華経の題目を以て本尊とすべし」(一五七三頁)

と、法華経の題目を本尊と規定し、いわゆる題目本尊を示しています。文証として法師品と『涅槃経』、天台の『法華三昧懺儀』の文を引きます。法師品は経巻所住の所に塔を建てることを説き、舎利を安置することは必要ないという文です。涅槃経の第四如来性品の文は諸仏が師とするのは法であることを説いています。天台の文は法華三昧の行法の道場には法華経一部のみを安置して、仏像や舎利、余経を安置してはならないとする釈です。法華経を本尊とすることは普賢経の二文を引用します。両文は三世十方の諸仏は法華経によって成仏することができたことを明かします。 

「問云、然者汝云何釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答、上に拳るところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定給へり。末代 今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とする也。其故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目也。釈迦大日総十方諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とする也。問、其証拠如何。答、普賢経云此大乗経典諸仏宝蔵。十方三世諸仏眼目。出生三世諸如来種等云云。又云此方等経此諸仏眼。諸仏因是得具五眼。仏三種身従方等生。是大法印印涅槃海。如此海中能生三種仏清浄身。此三種身人天福田応供中最等云云。此等の経文、仏は所生・法華経は能生、仏は身也、法華経は神也」(一五七四頁)

法華経をもって本尊とする理由は、普賢経に十方の諸仏は法華経より出生されたとの文にあります。故に能生の法である法華経を本尊とします。そして、この論理から木画の開眼は法華経に限ると説きます。

 次に法華経本尊と大日本尊の勝劣について述べます。ここからは真言宗の破折をされます。法師品の「已今当の三説」を文証として、法華経本尊が勝れているとします(一五七五頁)。しかし、弘法・慈覚・智証の三師の教義においては大日が勝れていると説くことを挙げ、問難において弘法の修学について述べます。

「慈覚大師は下野国人、広智菩薩の弟子也。大同三年御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登て十五年之間、六宗を習、法華・真言の二宗を習伝、承和五年御入唐、漢土の会昌天子御宇也。法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に値奉て、顕密の二道を習極給。其上殊に真言秘教は十年之間、功を尽給。大日如来よりは九代也。嘉祥元年仁明天皇の御師也。仁寿・斉衡に金剛頂経・蘇悉地経二経の疏を造、叡山に総持院を建立して、第三の座主となり給。天台の真言これよりはじまる」(一五七七頁)

と、比叡山の天台宗が台密となったのは、慈覚の謗法が根源であると述べます。答文にこの回答をするに当り、中国仏教・日本仏教史における真言宗を概観し、伝教は帰国後、大日経は法華経に劣ること、大日経の疏は天台の理論を真言宗に取り入れたと述べます。聖人は弘法が伝教より真言を法華経に劣ると判じられたことを遺恨に思ったと見ます。故に真言を取り入れた慈覚等を批判されるのです。 

「あはれ慈覚・智証、叡山・園城にこの義をゆるさずば、弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし。彼両大師華厳法華の勝劣をばゆるさねど、法華真言の勝劣をば永弘法大師に同心せしかば、存外に本伝教大師の大怨敵となる(一五七九頁) 

弘法の邪義を慈覚・智証の二人が天台宗に取り入れた為に、弘法の僻見が日本国中に広まったことを指摘されたのです。日本国中の僧も寺社も真言宗となって開祖伝教の教えに背いた大怨敵とします。

○「片海の海人が子」

聖人は各宗の教えを学びその邪義を究明された経緯を述べます。清澄寺にて出家して虚空蔵菩薩に日本第一の智者となり、仏教の真実の教えは何かを知るための祈願をされます。しかし、学問的な寺ではなかったので、最高の学府である鎌倉・叡山等にて修学したことを述べます。

「然に日蓮は東海道十五ケ国内、第十二に相当安房国長狭郡東條郷片海の海人が子也。生年十二同郷の内清澄寺と申山にまかりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学人なし。然而随分諸国を修行して学問し候しほどに我身は不肖也、人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して、一切経論を勘て十宗に合せたるに」(一五八〇頁)

その結論として倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・浄土・禅・真言宗の教義について概観します。この中でも真言宗の教えは全てが大妄語であり、その根源を隠す巧みな論理に誑惑したと述べます。鎌倉の遊学から帰山した仁治三年の『戒体即身成仏義』には真言の密教を勝れていると受容されていました。その後、叡山一二年の遊学において真言宗の教えを邪義と究めます。「先天竺に真言宗と申宗なし。然有と云云」(一五八二頁)、つまり、インドにはもとより真言宗という宗派はなかったと根本的な誤りを指摘します。真言宗はそれを否定したので大妄語の宗と述べたのです。密教は大日如来より金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空に伝授したと言うが、史実としても虚偽であると述べます。例えるならば、劉聡(りゅうそう)が下劣の身分でありながら、西晋の愍帝を捕らえて出獄のとき馬の轡をとらせて先導役をさせた悪態や、超高は民の身分でありながら皇帝を殺害して帝位につこうとした悪逆と同じとします。

また、南インドの摩臘婆国の大慢婆羅門が赤栴檀の椅子を作る時、その四本の足を大自在天や釈尊等の像として座しました。今の真言師も釈尊よりも上位であると慢心を起こしたと述べたのです。

 

○『立正安国論』著述の理由

 そして、釈尊を卑下する邪義は亡国を招くと述べます。近来の天変地夭や飢饉・疫病等の災難が興起する根源は、邪教を信じた謗法にあると諌暁された『立正安国論』著述の縁由にふれます。謗法を制止しなければ経文に予言されているように自界叛逆・他国侵逼の二難が起きると時頼に諌暁したことを述べます。

「如是仏法の邪正乱しかば王法も漸く尽ぬ。結句は此国他国にやぶられて亡国となるべきなり。此事日蓮独勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集て一巻の書を造る。仍故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名けき。其書にくはしく申たれども愚人は難知」(一五八二頁)

この謗法による国難の証拠として「承久の乱」を挙げます。『立正安国論』は法然の浄土教の批判を中心に諌暁しますが、本書に見るように真言の破折も含まれることが分かります。念仏・禅の破折は真言破折の序分と言えます。(『日蓮聖人全集』第二巻五五七頁)承久三(一二二一)年五月一四日に後鳥羽上皇は、倒幕のため京都守護の伊賀光季と大江親近の二人を召集します。光季は応じず挙兵の動きを幕府に急報します。そのため上皇軍に高辻京極にあった宿舎を襲撃され子の光綱と共に誅殺されます。上皇は義時追討の院宣を五畿七道の諸国に下します。聖人は乱の発端となった伊賀光季の誅殺から述べます。朝廷が敗北した理由は天台・真言の密教を用いて、北条一門を調伏(一五八三頁)した為とします。ここに「真言亡国」の理由を述べます。

聖人が幼少の時に疑問を持ったのが承久乱の天皇の敗北でした。その真言師が行ったのが「十五壇の秘法」です。(『祈祷鈔』六八一頁)これは国敵王敵となる者を降伏して、命を召取て其魂を密厳浄土へ送ると言う修法です。しかも、五月一五日に戦が起き六月一四日に幕府軍は瀬田・宇治の防衛線を突破して決着がつきます。わずか三〇日程での敗北でした。つまり、真言密教の祈祷は無力であり亡国の原因になるします。

「然而(しかるに)日蓮小智を以て勘たるに其故あり。所謂彼真言邪法の故也」(一五八四頁)

と、真言は邪法であると述べます。これら過去の真言師の謗法と国土の災難の由来を述べ、これらの謗法の者たちが鎌倉に再来して諸寺の別当や供僧となっていることを指弾するのです。また、鎌倉のみではなく叡山・東寺・園城寺も幕府に取り入り、日本国は過去の隠岐法皇のように法華経の怨敵となって善神より治罰を受けているとし、後鳥羽上皇の敗北と平家の滅亡は三度目の現証であると断言します。蒙古調伏を真言師に任せるならば、「還著於本人」として現罰の具現として国が滅ぶのは確かで、反対に頼朝が勝ったのは法華経を信仰していた利益であると述べます。

 浄顕房に対し仏教の道理を体得できたのは父母と師匠の恩であるが、道善房は世間の欲から地頭を恐れ弥陀を信仰したので、中有に漂浪していると心配します。本尊を授与するに当り、景信に迫害された時に義浄房と共に清澄寺を離れて庇護してくれた恩を述べ、これを法華経の奉公と存知して生死を離れるように伝えます。この本尊は釈尊滅後において未曾有の本尊であると述べ、神力品には上行菩薩が生まれて法華経を弘めると予言されていること、自分は先駆として弘通したと述べます。

「此御本尊は世尊説おかせ給後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教ほぼしろしめして、いさゝかひろめさせ給はず。当時こそひろまらせ給べき時にあたりて候へ。経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給べしと見へて候へども、いまだ見へさせ給はず。日蓮は其人には候はねどもほぼこゝろえて候へば、地涌の菩薩の出させ給までの口ずさみに、あらあら申て況滅度後のほこさきに当候也。願は此功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉と祈請仕候。其旨をしらせまいらせむがために御不審を書おくりまいらせ候に、他事をすてて此御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給候へ。又これより申さんと存候。いかにも御房たちはからい申させ給へ」(一五八六頁)

本尊を授与する意図は聖人の法華弘通の功徳を回向することでした。父母・師匠・一切衆生の後生善処を祈請したと述べています。折伏逆化による弘通は一切衆生の救済にあります。聖人一期の功徳を本尊に込めて回向されたのです。浄顕房達の後生も本尊に祈念すべきとします。後便にて重ねて法門を伝えたい旨を述べ、義浄房達にもこれらのことを伝えてほしいと述べます。

 

□『太田殿女房御返事』(三〇八)

 九月二四日付けにて乗明の女房から米一石と十合の穀類(『日蓮聖人遺文全集講義』第二二巻二一九頁)を供養された礼状です。真蹟は存せず『平賀本』に収録されています。

 

○金色王の布施

 米の供養に対し『金色王経』を引き、釈尊が過去世に金色王であったとき国を平安に治めていたが、一二年ものあいだ雨が降らず旱魃が続きます。金色王は国中の穀物を集めて国民に与えます。しかし、一一年を過ぎて終に貯蔵した財物も尽き五升の飯だけになります。金色王は僅かな一日分の食を衆僧に供養し、王を始め万民が餓死する覚悟をします。そのとき雲が起こり天より飲食が雨のように降り、国が富貴になったと説くことを教えます。乗明の女房の米の供養も現世には福徳に恵まれ、後生には必ず「霊山浄土」に往詣して、成仏は疑いないと述べます。「現世安穏後生善処」と「霊山往詣」が説かれています。

□『十月分時料御書』(三〇九)

 著作年時は上包付箋に他筆で弘安元年とありますが、『対照録』は弘安三年とします。真蹟は一紙七行が京都立本寺に所蔵されています。本紙に一の番附けがあり書状の第一紙と言うことが分かります。十月の一ヶ月の分か十ヶ月分(『大田殿女房御返事』一七五四頁)の時料三貫文が送られてきました。他に金銭三貫五〇文が布施されたのか、「大口一」に相当する金額と思います。(『太夫志殿御返事』一八五〇頁)。時料とは斎料のことで僧侶の食費に当てた金銭です。毎月の布施ではなく四季折々に要する費用のことと思われます。この三貫文を布施した人物は不明ですが、『富城殿御返事』に「来年三月料分銭三貫文・米二斗」(一七〇一頁)と、月料を布施していることから常忍からの布施と推察されます。中山近辺の信徒が毎月送られていたと窺えます。また、「大口一」とは大口袴一着と言います。袴は大きく開いた下袴のことで衣の下に着用します。本書の断簡には『摩訶麻耶経』の中から馬鳴・竜樹、『付法蔵経』からも馬鳴・竜樹を挙げて、付法蔵の伝道について教示したものと思います。