299.日蓮聖人の病気の推移~『妙法尼御前御返事』        髙橋俊隆

□『中務左衛門尉殿御返事』(二九五)

 六月二六日付け頼基への書簡です。同日付けで常忍に宛てた『治病抄』と関連して、心身の病気について述べます。『二病抄』と称し真蹟は六紙が京都立本寺に所蔵されています。

 始めに身心の病気について述べ、当時流行している疫病は身病ではないので仙人も治し難く、仏教においても爾前の八万四千の病でもないので、諸宗の僧が祈っても治癒できないとします。『治病抄』とほぼ同じ内容で疫病は年々に増加し、謗国の咎を逃れるような大事が起きるまで続くと言う見解を、『法華経』『涅槃経』妙楽の『文句記』を引いて説きます。法華経の引用は譬喩品の「若修医道 順方治病更増他疾 或復致死 而復増劇」『開結』一七〇頁文です。謗法の罪は世法の投薬では完治できず還って重病を招くのです。『涅槃経』梵行品の阿闍世王の瘡病は、法華経でなければ治癒することはできず、蔓延している疫病は謗法により流行したのであり、治療できる良薬は法華経であると述べます。

○頼基の調剤

 聖人の下痢の症状は昨年の一二月三〇日に起きます。今年の六月三日、四日と日々に悪化して定業かと思う程でした。頼基が調合した良薬を服してからは、日々月々に回復して百分の一程になったと喜ばれます。

「しらず、教主釈尊の入かわりまいらせて日蓮を扶け給か。地踊の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給るかと疑候なり。くはしくは筑後房申べく候」(一五二四頁)

と、地涌の菩薩から妙法五字の良薬を授与されたと悦びを伝えます。詳しい病状や近況については日朗から知らせると伝えます。朝廷はこの五月六月に興福寺や諸神社に疫病を退散させる祈願をします。追伸に頼基からの書簡は二五日の戌の刻(午後八時)に届き、多くの供養も届けられ有難いと感謝されます。「きくせん」とは頼基の使いの名前と言います。使いの者が二五日午後八時頃、供養の品々を届けました。(寺尾英智著『日蓮信仰の歴史を探る』八一頁)。或いは不老長寿の薬とされる菊仙の薬草とも思います。常忍へは直接礼状を送ると述べます。また、日眼女の祖父の死去を悲しく思っていると伝言します。祖父とは旧知の間柄であったと思われます。

聖人の病気の推移

建治三年一二月三〇日(『中務左衛門尉御返事』一五二四頁)に下痢(はらのけ『兵衛志殿御返事』一五二五頁)の病を患うようになりました。「やせやまい」により身が苦しいと述べていたように、庵室の環境と生活は身体的に衰弱させ、門下への迫害も続いていた状態で心労も重なっていました。これから具現化される四十九院紛争・熱原法難への動向が、門下の弘教活動に現れていました。弘教の拡張は迫害を伴うので心身を痛めていたのです。この状態は一一月まで続きます。病状は一旦、小康を得ますが秋頃に大事に至り、これを繰り返し弘安四年には心身共に衰弱したことを知らせます。(『上野殿母尼御前御返事』一八九六頁)。病状は慢性の胃腸疾患で不食気となります。

―日蓮聖人の病気――

第一期

建治三年一二月三〇日 下痢発病~慢性化して持病となる~ 
(『中務左衞門尉殿御返事』一五二四頁)

弘安元年一一月頃迄  快癒しないが治まる       
 
(『四条金吾殿御返事』一六〇〇頁 一六〇六頁)

弘安二~三年     不調ながらも小康       
 (
一六四四頁 『四菩薩造立鈔』一六五〇頁)

第二期

弘安四年一月~     再発し食欲不振と老衰

五月二六日   完全に再発 重病化      
 
(『八幡宮造営事』一八六七頁)

    十月二二日   「老病」「不食気」      
 
(『富城入道殿御返事』一八八六頁)

九~一一月   絶食安静期          
 
(『上野殿母尼御前御返事』一八九六頁)

弘安五年二月一七日~  ほとんど病床にあった       
一八六〇頁『定遺』弘安四年

七月      信者は鎌倉にての養生を勧めた。
 
(『本化別頭仏祖統紀』)

□『兵衛志殿御返事』(二九六)

 六月二六日付けにて宗長から味噌一桶を供養された礼状です。真蹟は一紙が福井の妙勧寺に所蔵されます。本書も『治病抄』『二病抄』と同日に頼基の使いが身延から発ちます。下痢の症状が頼基の施薬により緩和し、味噌を食して心地よくなったとあります。池上一族の安泰を祈願していると信仰を勧奨します。

□『窪尼御前御返事』(二九七)

六月二七日付け窪尼への書状です。日興の写本が大石寺に所蔵されます。窪尼から種々の供養(供養品については記入がありません)が身延に届けられ、有難い心境を大風が吹いて草を靡かすように、また、突然、雷が鳴り響いて驚くように感謝します。皆々が念仏・真言師の教えを信じている中に、窪尼のように法華経を信じ聖人を供養することは不思議として潔癖な信仰心を尊ばれます。

「すず(種々)の御供養送給了。大風の草をなびかし、いかづちの人ををどろかすやうに候。よの中にいかにいままで御しんよう(信用)の候けるふしぎ(不思議)さよ。ねふかければ葉かれず、いづみ(泉)玉あれば水たえずと申やうに、御信心のねのふかく、いさぎよき玉の心のうちにわたらせ給歟。たうとしたうとし」(一五二五頁)

□『妙法尼御前御返事』(二九八)

 七月三日付け妙法尼への書簡です。『本満寺本』に収録されています。妙法尼については頼基の母、中興入道の母、日目の父新田五郎重綱の母の説がありますが、本書は尾張次郎兵衛尉の妹の駿河岡宮の妙法尼です。同月に夫に先立たれます。(『妙法尼御前御返事』一五三五頁)

妙法尼より南無妙法蓮華経と題目を唱えるだけで成仏できるのかと質問が寄せられました。末尾に「委しくは見参に入り候て申すべく候と申させ給え」とあることから、病床の夫からの問いでした。この質問を大善根であると喜び法師品の「六難九易」を挙げます。妙法尼の質問はこの六難の中の五番目、「我が滅後に於いて此の経を聴受して、其の義趣を問はん是れ則ち難しとす」(『開結』三四〇頁)の文に当ります。法華経を受持する者は即身成仏すると説き質問に答えます。題目は一切経の肝要であり法華経の骨髄であり人の魂であるから、題目を唱えることは法華一部経を読誦することと同じと説きます。

「法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱候はば正く法華経一部を真読にあそばすにて候。二返唱は二部、乃至百返は百部、千返は千部、加様に不退に御唱候はば不退に法華経を読人にて候べく候。天台六十巻と申文には此やうを釈せられて候」(一五二七頁)

 このように題目を唱える功徳を説き、釈尊は受持・信行しやすい法華経を末法の一切衆生に留め置かれたと述べます。しかし、この教えに迷い邪教を弘める者は堕獄すると述べます。夫の過去の信仰によるもの、また、武士として戦における殺生の罪意識があったらしく、

「をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給て、今生には祈る所願も虚く、命もみじかく、後生には無間大城をすみかとすべしと正く経文に見えて候。さて此経の題目は習読事なくして大なる善根にて候。悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説れて候は、水の底なる石に火のあるが如く、百千万年くらき所にも燈を入ぬればあか(明)くなる。世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり」(一五二八頁)

と、謗法の罪科を説き但信口唱の唱題の功徳を述べ、法華経の信毀・罪福の両方にふれます。そして、法華経の「妙なる御法の御力」(一五二八頁)の善根とは、三因仏性の因により法報応の三身と顕われ、龍女の即身成仏を示して信心を勧奨します。本書には難信難解の法華経を信仰する女性の篤信を褒め、即身成仏を質問したことに対し、龍女の女人成仏を示し唱題成仏を説きました。詳しいことは再会の折りにお話すると伝言して結びます。

○花押の変化

 花押について弘安元年五月以前は金剛界大日如来の種子を表すバン字であり、六月以降は一字金輪仏頂尊の種子を表すボロン字に変わったと言います。(山川智応著『日蓮聖人研究』第二巻二三九頁)。聖人は御本尊や書状には必ず花押を書き自筆であることを示します。特徴は悉曇文字を用いていることです。真言僧に多く見られます。また、音を表す空点の書き方が、鍵手の形から蕨手に変わります。鍵手の変化は二期、蕨手の変化は三期あると言います。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』二一三頁)

○御本尊(四九)七月

 紙幅は縦三三㌢、横二三.九㌢、一紙の御本尊で岩本実相寺に所蔵されます。讃文は薬王品の「此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死」の文が書かれ祈祷本尊と言えます。四天王は書かれず、この御本尊からは天照太神・八幡大菩薩が首題の下部両側に定めて書きます。花押の変化が弘安元年六月二五日付の『日女品々供養』より見られ、この御本尊も同じく花押の変化が見られ以降の特徴となります。

○御本尊(五〇)七月五日

 七月五日付けの御本尊が二幅あります。『御本尊集目録』(七五頁)の第五〇と五一です。第五〇の授与者は「沙門日門」とあり、通称「若宮御本尊・竹内御本尊」と言い頂妙寺の所蔵です。紙幅は縦九四.九㌢、横五三㌢、三枚継ぎの御本尊です。この御本尊から讃文の「仏滅度後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」の文が定型となります。先に述べたように「二十余年」「三十余年」の両方の書き方を併用されます。「竹内御本尊」の由来は、頂妙寺開山の日祝が法華経寺第六世日薩と、文明五年春に若宮の法華堂に参詣したとき、一尊四菩薩像の前に竹筒があり、その中に本御本尊が在中したことによります。法華経寺に所蔵される御書類は門外不出が常忍の遺誡でしたので、この御本尊の発見は異例なことでした。「若宮御本尊」の由来も若宮の法華堂に因むものです。若宮の奥之院から法華経寺に移転されました。

○御本尊(五一)七月五日

 通称「輪宝御本尊」と言います。由来は表装した裂地の紋様にあります。御本尊第五六も同じく紋様に由来します。授与者名は何らかの理由により削損しています。紙幅は縦一二〇.六㌢、横六四.五㌢、三枚継ぎの御本尊で京都本国寺所蔵です。

○御本尊(五二)

 この御本尊は年月日があったのを削損した跡があります。下部に授与者である「比丘日賢」の名があります。紙幅は縦一二六.一㌢、横六六.一㌢、三枚継ぎの御本尊です。御本尊第五一と筆跡や形体が同一なので、同じ時期に染筆されたと思われます。佐賀の勝妙寺に所蔵されます。

○阿仏房三度目の登詣

七月六日に年齢九〇歳の阿佛房が千日尼の亡父一三回忌のため佐渡を発ち、二七日に三度目の身延登詣をしました。この時の聖人の心境を『千日尼御前御返事』に「此山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(一五四六頁)と感激します。