298.『阿佛房御返事』~『治病抄』(294)          髙橋俊隆

□『阿仏房御返事』(二九二)

○聖人の病「死ぬこと疑いなし

六月三日付けで佐渡の阿仏房に宛てた書状です。著作年時に建治三年説がありますが、「正月至今月六月一日」により弘安元年、聖寿五七歳とします。『本満寺本』に収録されています。

 阿仏房から手紙を受け取り、その内容について了解したことを伝えます。聖人の身体が今年の正月から、この書簡を書いている六月一日に至るまで「やせやまい」(一五〇七頁)が続いていることを知らせます。 

「御状旨委細承候畢。大覚世尊説曰生老病死生住異滅等云云。既受生齢及六旬。老又無疑。只所残病死二句而巳。然而自正月至今月六月一日連連此病無息。死事無疑者歟。経云生滅滅巳寂滅為楽云云。今棄毒身後受金身豈可歎乎」(一五〇八頁)

聖人の病は昨年の建治三年一二月三〇に発病し、この六月頃まで臨終を覚悟する程でした。「痩せ病」と言われています。一説には甲州特有の微生物による風土病とも言います。和歌山県の大台ヶ原と身延一帯が本州で最も雨量の多い所で、水量により森林が微生物の繁殖を促進させます。病は一〇月の頼基の投薬まで続きます。

生老病死の四苦のうち残っているのは病死の二苦であると述べ、その病死に対しての見解を述べます。涅槃経の「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」の諸行無常を引きます。釈尊が前世に雪山童子として後の半偈を聞くために羅刹に捨身供養したことから雪山偈と言います。病苦に悩まされながらも、人身は生滅の肉体であるから、この生と滅とを滅し終わって寂滅の楽とする心境が分かります。この病によって「死事無疑者歟」と死の覚悟をされていたのです。四順・四違の八風(はっぷう)に侵されないことが賢人でありあるべき姿と述べます。

 

□『日女御前御返事』(二九三)

 六月二五日付け、日女御前から銭七貫文を布施された礼状です。真蹟は六紙断片が散在して所蔵されます。内容から『日女品々供養抄』と言います。日女については平賀忠治の娘で宗仲の妻とする説と、松野殿後尼の娘で窪の持妙尼とする説があります。日女には建治三年八月二三日と本書の二通が伝わっています。

 布施の受領を記してすぐに属累品の説明をされます。一説にはこの前に神力品までの説明が存在したのではないかと言います。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二一巻一七九頁)。また、宮崎英修氏は本文を欠失したのではなく別本が存していたと言います。(『日蓮聖人遺文辞典』頁)八六三頁)。本書は属累品から順次に勧発品迄の大意を解説します。日女は法華経の二十八品毎に供養を行なう「品々供養」をしていることを、末代の女人には尊いと褒めます。宝塔品の会座に十方の諸仏菩薩が来集したように、日女の胸中に宝塔品の儀相が具現されると説きます。

「かゝる法華経を末代の女人、二十八品を品品ごとに供養せばやとおぼしめす、但事にはあらず。宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給ぬ。此宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候。(中略)凡夫は見ずといへども、釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり。日蓮又此をすい(推)す。あらたうとしたうとし」(一五一五頁)

と、「品々供養」の功徳と胸中の「心蓮華」について述べます。この「八葉心蓮華」思想は真言密教に近い思想で、依拠とする『蓮華三昧経』は智証の『講演法華儀』により偽作されたので、聖人は採用されていないと言います。教理的には自然本覚思想に堕することから、この部分は考究すべきです。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二一巻二一六頁)。凡夫には見えないが釈迦・多宝・十方の諸仏は守護されているように、供養の功徳は大きいと述べます。周の文王が老人を大切にした徳により、末裔には悪政の時もあったが、文王の功績により周王朝は三七代、八百年間の繁栄が続いたこと。阿闍世王は悪虐を作したが、父の頻婆沙羅王の釈尊を供養した功徳により、九十年間の位を持つことができたことを例えます。

 現在に視点をかえて、日本国は義時(権大夫)・泰時(武蔵前司)の善政により当分は続いているが、法華謗法により長くは続かないと述べます。念仏者が自分達も法華経を信じていると聖人を念仏の敵と批難することに対し、念仏者が言うことが真実ならば疫病・飢饉・兵乱はなぜ起きているのか、また、公場対決をせずに二度まで法華経の行者を流罪にしたのは、法華謗法の大科ではないかと反論します。そして、日女は難信難解な法華経を信じ、法灯を継ぐ人は閻浮提の中にも数が少ないと絶賛されます。 

而に女人の御身として法華経の御命をつがせ給釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給なり。此功徳をもてる人一閻浮提の内に有べしや」(一五一六頁)

 なを、本書状より花押の字体・空点が変化します。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』二一六頁)

 

□『富木入道殿御返事』(『治病抄』)(二九四)

 六月二六日付けにて常忍に宛てた書簡です。著作年時に弘安五年の説があります。(『日蓮聖人遺文全集』別巻三五〇頁)。真蹟は一三紙が法華経寺に所蔵されています。『常師目録』は『治病大小権実違目』と題し、略して『治病抄』と称します。頼基が身延に供養品を送り届けると言うことで、常忍等から帷子等の供養を預かって届けます。頼基から漢方薬、宗長から味噌が送られてきました。常忍の書簡に深刻な事態として疫病が流行していると知らされ、その祈祷を要請されたことの返書です。同じく頼基へ宛てたのが、『中務左衛門尉殿御返事』(二九五)です。建治三年から弘安元年にかけて流行した疾病の恐ろしさを伝えた文面から弘安元年とします。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三七五頁)

疫病興盛との書簡を見て、心身の病気には身に四百四病、心に三毒ないし八万四千の病があると述べ、身の病は仏教によらなくても治水・流水・耆婆・扁鵲等の良医が治癒できるが、心病は賢人や神農の薬でも治せないと述べます。心病には浅深勝劣があるとして、この治病には仏教の大小・権実によって勝劣を心得て治病すべきとします。自分の宗が勝れているとする偏見の「劣謂勝見」(一五一八頁)を制止しますが、国主がこの僻見を持てば最勝の法華経でも治癒できず、還って病いを倍増すると述べます。

 次に「心の病」を治す法華経について前半・後半の迹門・本門の違いを述べます。

「法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。本迹の相違は水火天地の違目也。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり。爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有ぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円相似せり。爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異ども始成の辺同ぞかし。今本門と迹門とは教主すでに久始のかわりめ、百歳のをきなと一歳の幼子のごとし。弟子又水火也。土の先後いうばかりなし。而を本迹を混合すれば水火を弁ざる者也」(一五一八頁)

 本迹の相違・勝劣は既に『開目抄』『観心本尊抄』に述べています。末法は本勝迹劣の本門の久遠実成に立脚しているのが教学の特徴です。法華経の迹門においても釈尊は始成正覚の仏で、本門の久遠実成の仏とは異なることが本迹の相違であり、始成正覚の仏身の立場からすると、爾前経と迹門は相似していると指摘します。本門の久遠実成が開顕されたことにより、師弟の因果は始成の弟子と久遠の弟子と判別され、四土の浄土観においても娑婆即寂光土として相違することを説明します。釈尊滅後には天台と伝教の二人だけがこれを知っていたが、本門の「円戒」である題目受持については、「止召三義」を護って伝えなかったとし、末法に入った今は地涌の菩薩が本門法華経を広める時であると述べます。伝教が説いたのは円頓戒ですが聖人はこれを、

「彼円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にあらず」(『下山御消息』一三四四頁)

と、伝教は迹門の安楽行品によって大乗円頓戒壇を立てたが、末法においては無益であるとします。ここに言う円戒とは本門戒と理解されます。仏教の教えに迷妄する諸宗であるから、それらを信奉する国主なども我執を離れることができず、それにより三災七難が起こるのは善神の罰国の表れであると述べます。

「何況彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人々、或は大小権実に迷る上、上代の国主彼々の経々に付て寺を立田畠を寄進せる故に、彼の法を下せば申延がたき上、依怙すでに失かの故に、大瞋恚を起て、或は実経を謗、或は行者をあだむ。国主も又一には多人につき、或は上代の国主の崇重の法をあらため難故、或は自身の愚癡の故、或は実教の行者を賎ゆへ等の故、彼誑人等の語ををさめて実教の行者をあだめば、実経の守護神の梵・釈・日月・四天等其国を罰する故、先代未聞の三災七難起るべし。所謂去今年、去正嘉等の疫病等也」(一五一九頁)

 

○弟子の疫病死

「善神治罰」の表れとして疫病が流行し、その疫病で聖人の弟子達が死去するのはなぜかと問答体をとります。弟子に疫病で亡くなった者がいたと思われます。これについて爾前経の善悪は等覚迄で、妙覚の仏位は善のみで悪はないと説くのに対し、妙覚の位にも性悪があると一念三千の性悪の法門を示します。

「法華宗の心は一念三千、性悪性善妙覚の位に猶備れり。元品法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕たり」(一五二〇頁)

弟子たちが疫病に罹り死去することについて、この一念三千の十界互具の範疇から善神と悪鬼の存在を示します。善神は悪人を退治するが、悪鬼は善人に危害を加え信仰を退転させると述べます。末法悪世は邪法が繁栄するため白法隠没し、悪鬼が便りを得て瓦石や雑草のように蔓延すると説きます。それに反して善鬼は正法を持つ賢人がいないため少なくなると説き、今は悪鬼が充満し疫病を念仏者・真言師・禅宗・律宗の僧よりも、聖人の弟子達に羅病させ死亡に至らしめる筈とします。法華経を弘めようとする者に迫害を加えるからです。しかし、聖人の弟子は邪宗の者よりも羅病する者も死者も少ないのは、信心が強盛なためであると反詰します。

次に日本における疫病流行の歴史と仏教の関係にふれます。神武天皇から一〇代目に当る崇神天皇の御世に疫病が流行り、国の半分近くの人が死去したことがあり、この時に始めて天照太神を国々に祭り疫病が止んだことを挙げます。崇神天皇と尊称されるのはこの由来によります。この時は未だ仏教伝来以前のことです。人王三〇代敏達・三一代用命・三二代崇峻天皇の三代は、神に祈ったが疱瘡と疫病で崩御します。続いて、この前の欽明天皇の時に仏教が伝来したことにふれます。いわゆる「庚寅の法難」、そして、三三代推古天皇の御世の聖徳太子の「乙巳の法難」についてふれ、仏教伝来から三五年の間、年々に三災七難・疫病が流行ったが、聖徳太子の仏教庇護により災難から回避できたと述べます。

この後に起きた三災七難の原因は仏教の邪正にあると指摘し、神の祟りや謗法、国民の嘆きから起きたものもあったと指摘します。しかし、立教開宗し法華経を弘通して後の三災七難の原因は、神の祟りや国民の嘆きと言うことではなく、一重に聖人を誹謗するための怒りであるとします。この怒りは「前代未聞の大瞋恚」であり、「見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり」(一五二二頁)と、聖人に敵対する日本国中の反感を受けていたことが原因と述べます。この災難を回避する方法は、本門を付属された聖人以外に解決できる者はいないとし、それには公場対決をして国民の前に正法である法華経が正しいことを認知させ、題目を受持することであると述べます。

 天台は『止観』の一念三千の観法である十境十乗を説いたが行う者はなく、妙楽・伝教の時は少し行ずる者がいたが、反対し迫害する者がいなかったので何事もなく経過してしまったと述べます。この『止観』に説く「三障四魔」とは、法華経を弘通する者に対して現実化する障害であり、今、聖人が迫害を受けていることがその現われであると述べます。末法という時においては法華弘通に違いがあるからです。

 

○「大難又色まさる」

故に受難として身読している三類の強敵は三障四魔の具現であり、天台・伝教の受難をはるかに超えた厳しいものです。教学的には理事一念三千の相違であり、受難の浅深を比較すれば観念を超越した大難で天地のように異なると述べます。 

「止観の十境十乗の観法は天台大師説給て後、行ずる人無し。妙楽・伝教の御時少行といへども敵人ゆわきゆへにさてすぎぬ。止観に三障四魔と申は権経を行ずる行人の障にはあらず。今日蓮が時具に起れり。又天台伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしをまさりたり。一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。天地はるかに殊也こと也と、御臨終の御時は御心へ有るべく候」(一五二二頁)

 このように法華弘通の色読は思考や観念を超えたもので、「事一念三千」を説く聖人教学の大事なところです。常忍に臨終の時には事一念三千を心得て、時機相応の正観の題目を唱えることを教えます。追伸に、頼基から常忍からの帷子を頂いたこと、新たに入信した方々の供養の品も頂いたと述べます。乗明の方々からの供物も常忍の書き付け通り拝受したことを伝えます。この『富木入道殿御返事』(『治病抄』)に書いた法門の半分は、頼基に与えた書状に書き加えているので、借用して披見するように述べます。