249.『合戦在眼前御書』  高橋俊隆

□『合戦在眼前御書』

 一一月ころと見られる一紙三行の断簡で、三島本覚寺に所蔵されています。『曽谷入道殿許御書』の草案ともいいます。(『日蓮聖人全集』第一巻四七〇頁)。宛先は不明ですが全文が漢文で書かれていますので、富木常忍氏などの武家に宛てたものと思われます。ここには「後五百歳」の第五、闘諍堅固の末法にあたり、蒙古との闘諍合戦が眼前となったことにより、法華経が流布することは疑いのないことであるとのべています。この前文には四箇条の項目をあげ、それらの項目が経文に符合したという文章が書かれていたことが分かります。

「(前欠)先四ケ條既如経文。第五闘諍堅固末法于今相当。随見聞当世 闘諍合戦在眼前。以之惟之法□□□□□疑心」(八三九頁)

 その四箇条とは『大集経』の「五箇の五百歳」(「正像末の三時」・「五五百歳」)のうちの、前の四箇を指すと思われます。

・五箇の五百歳

 正法時代一千年(一千歳)

第一の五百歳―「解脱堅固」といい、智慧により自ら悟りを開く者が多い時代

第二の五百歳―「禅定堅固」といい、禅定の修行が広く行われる時代

この一千年間を仏の教えが正しく伝わる時代という意味から正法時代といいます

 像法時代一千年

第三の五百年―「読誦多聞堅固」といい、経典を読誦し学問が広く行われる時代

第四の五百歳―「多造塔寺堅固」といい、寺院や仏塔の建立が盛んになる時代

この一千年を正法の学行が形骸化していくことから像法時代といいます

 末法時代

第五の五百歳―「白法隠没・闘諍堅固」といい、釈尊の教が完全に衰え人々の心が乱れ争う時代

これ以降を仏法が次第に衰微し絶えていくことから末法といいます

 「先四ケ條既如経文」というのは、正法・像法の四箇の五百歳のことをいい、その時代の歴史的な事実を経典の文に当てはめたものと思われます。

身延に隠棲されたとはいえ、常に心中にあったのは蒙古襲来のことでした。『立正安国論』において自界反逆・他国侵逼の難が来ることを経典を根拠として予言していました。自界反逆難は文永九年二月一一日に、北条時輔の謀反(二月騒動)として現れました。そして、再三、幕府や平頼綱に諫暁した蒙古の襲来が十月に的中したのです。「文永の役」以後に書かれた書状からうかがえることは、この蒙古襲来は日蓮聖人にとって、更なる法華弘通を強めていくことになったことです。法華不信の者には蒙古軍による日本人の惨状を示して改宗の心を起こさしめます。門弟一同にたいしては不惜身命の信心を貫徹するようにと引き締めています。このような状況のなかで、次第に身延における活動が整っていきます。身延での日課は建治三年八月とされる『富木殿御書』に、 

「以此等意案之 我門家夜断眠 昼止暇案之。一生空過万歳勿悔」(一三七三頁)

と、夜は眠りを断ち昼は暇を止めて(「止暇断眠」)法華弘通に邁進することを教訓されています。これは、身延にいる弟子たちにおいても課せられていたでしょう。山林に居しても安閑と過ごすのではなく、法器を養成する道場になっていたのです。『身延山御書』に、

「庵の内には昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす」(一九一五頁)

と、のべていることから身延山での、「昼夜常精進 為求仏道故」(涌出品『開結』四〇七頁)の日課がうかがえます。日蓮聖人の講義は弟子が少なくても間断なくされたようです。弟子たちもそれぞれ研鑽しています。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五九三頁)。日興上人や日向上人の講義録が写本として伝えられ、日法上人の『連々御法門聞書』が現存しています。また、日蓮聖人所持の太宗皇帝の言行録で、政治の要諦を書いた『貞観政要』が三種残っています。これは、子来より帝王学の教科書といわれるものです。そして、「一代五時」など図録の吊りものがたくさん残されていることから、身延は若い弟子の教育の場となっていたことがわかります。儀礼として天台大師講が毎月二四日に行なわれていたといいます。(林是幹稿「甲斐日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収四〇三頁)。このときに、天台大師の『三大部』などの講義がされたのです。

【『注法華経』】

日蓮聖人は叡山版の法華経の経本に書き込みをしています。正式には「私集最要文注法華経」といい、略して『注法華経』といいます。この『註法華経』は文永一一年から建治三年までの間にほぼ完成され、五〜七年かけた弘安初年頃まで、『注法華経』を整備されたといいます。((新編『日蓮宗年表』)。これは、宗論に備えたともいわれています。山中喜八氏は筆跡から建長年間ではなく、文永九年、遅いもので弘安初年であり、大半は文永一一年から建治三年に亘る期間のものと推定しています。また、密教関係の経釈(大日経五章、金剛頂経一章、蘇悉地経一章、瑜祇経一章、分別聖位経一章、不空羂索神変真言経一章、方等陀羅尼経一章、威儀形色経一章、観智儀軌一章、一字金輪時処儀軌一章、法華肝心陀羅尼一章、大日経義釈三章、大日経疏三章、金剛頂義訣一章、顕密二経論七章、秘蔵宝鑰一章、法華十不同一章、蘇悉地経疏二章、大日経指帰三章、講演法華儀一章、真言宗教時義七章、菩提心義八章等)が五十二章みられることから、日蓮聖人が徹底的に密教批判をされたのが佐渡以降のことですので、密教関連の典籍が多く註記された『注法華経』は、佐渡以降、身延入山の場を得てから本格的に整理されたと思われます。同じく、日向上人が日蓮聖人より聴聞して書かれたと言われる『金剛集』(きんこうしゅう)は、この『註法華経』と共通しています。諸宗破邪の大綱を記述し、広く経論疏釈を援引した『金綱集』の引用経釈が、『注法華経』と同文のものが多く見られます。

経本の行間や紙背にに注記された経論釈の要文は二〇六、出典は二七一部といいます。「日蓮聖人真蹟集成」の「注法華経」の釈文と、これに関連する三種類の「索引」を合わせた『定本注法華経』(山中喜八編著 )があります。日蓮宗現代宗教研究所Nichiren Buddhism Modern Religious Institute)のホームページに全文と出典書名が紹介されています。昭和二七年七月一九日に書籍・典籍部門にて重要文化財に指定されました。平成二二年より京都国立博物館の修理場で、光影堂により修理作業が行われ、本年(平成二六年)玉沢妙法華寺に返納されることになります。今回の修理は裏打ち紙を取り除いたことにより、今まで見えなかったいくつかの文が現れ、全ての注記が読めることになります。(日蓮宗新聞。平成二六年二月二〇日)。

入寂の三日前に日昭上人に『注法華経』を授与され、玉沢妙法華寺に所蔵されています。『弁殿御消息』(四三八頁)は文永一二年とされ、同年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)の経論典籍の蒐集を依頼した文面から、このころから活発に『註法華経』のような註釈書を作製していたといえます。一切経を始めとして天台・伝教大師の諸釈など、仏教いがいの資料を蒐集し弟子たちの教化を充実させていったのです。

また、弟子の活動としては、さきの『異体同心事』の記述から、日興上人・日持上人・日昭上人などが、身延以外の地にて布教されていたことがわかります。(『日蓮の生涯と思想』講座日蓮2。六六頁)。その弟子たちの報告や指導を受けるため、たえず弘通地と身延を往還していたこと、そして、日蓮聖人と信徒を結ぶ弟子の往還も行われ始めたことがうかがえます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五〇頁)。とくに、日蓮聖人の積極的な活動とされるのは、御本尊を認めていたことです。御本尊の授与は篤信の者に限って授与されていました。門弟や信徒が増加していたことがわかります。一一月に揮毫された御本尊が二幅(『御本尊集目録』第一四・一五)伝えられています。

◎御本尊(一四)一一月

 一一月付けにて授与者・讃文・先師の添書はありません。釈迦・多寶・本化四菩薩に並んで、文殊・薬王菩薩、舎利弗等が書かれ、次の段に天台・伝教大師が書かれています。紙幅縦八三.四a、横四四.九a、三枚継ぎの御本尊です。沼津光長寺に所蔵されています。この御本尊は本地の地に墨の縁取り線の装飾が加えられています。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』一〇頁)。『御本尊鑑』(八頁)に「同日三幅」(第四・五・六)が記載されており、御本尊(一五)・『御本尊鑑』(第六)がこれにあたります。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上、七八頁)。

◎御本尊(一五)一一月

同じく一一月付けの御本尊です。授与者・讃文・先師の添書はありません。御本尊(一四)と同じ勧請をされていますので、同じ時に書かれたと思われます。紙幅縦八二.七a、横四三.三aの三枚継ぎの御本尊です。近江八幡市妙経寺に所蔵されています。

◎御本尊(『御本尊鑑』第六)一一月

 紙幅は縦四五,二a、横八九.六aの三枚継ぎの御本尊です。左下に日興上人の添え書きと思われる「因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之」、また、中央右下に「但可為本門寺重宝也」の文があります。『亨師目録』などから文永一一年一一月の「同日三幅」が、嘗ては身延の宝蔵にあったことがわかります。