222.道術と修験道                      高橋俊隆

陰陽道から修験道

このように、陰陽道は天文歴法・卜占医道などの術をもって早くから宮中に入り、神祇官僚のなかに地位をしめました。中世には卜部とその他とも習合して、固有信仰の領域に混在していきます。以上、道教を中心に見てきましたが、仏教の影響は多大なものがあり、そのなかに道教が吸収されていきます。奈良時代に将来された経典のなかで、書写された百三十部は密教に関するものです。この訳経の部数においては、竺曇無蘭・智通・阿地瞿多・菩提流支などの、古密教・雑部密教が多く見られます。密教呪法や宿曜術との交流によって、密教系仏教や修験道に吸収された要素が多くなり、法師陰陽師を生み出しました。したがって、特有の組織や廟観にはいたらなかったのです。しかし、天文歴法・卜占祓除・祝言呪符などの機能は保持され、武家や庶民の求めに応じて深く定着したのです。(堀一郎著『民間信仰』二八一頁)。この密教思想は僧綱政治の大きな要素となりました。そして、修験道や吉田神道にも摂取されたのです。村山修一先生は、易は迷信とされながらも陰陽道が日本社会で生き続けているのは、長い歴史の中でそれが日本的伝統として、日本人の日常生活に融けこんできたからであるとのべ、社寺発行の暦を見て日常行事の吉凶や婚姻に相性を調べることが、陰陽道に根ざしているとのべています。(『日本陰陽道史話』三一五頁)。日本人のこういう風習や信仰は、これまでにのべてきたように、遙か弥生時代以前から脈脈と続く、民俗の長生と招福を願う本能であると思います。日本に伝えられた密教は、道教の呪術と結びついた呪術仏教という性格をもっていました。そして、これら修験道の修法のなかに吸収された道術は、今日の日蓮宗の祈祷修法のなかにも継承されていると思われます。

◆第二節 道術と修験道の関連

山岳信仰と修験道

修験道は日本版道教といわれるほど道教に酷似しているといわれます。ここでは先にのべた道教の神仙思想に焦点をあて、とくに、修験道に影響をあたえた山岳信仰や呪術信仰をみていきたいと思います。日本には中国や朝鮮、東南アジアなどから多数の民族が、母国の政変などを機に渡来していました。そのおりに稲作耕法や金属器鋳造技術などとともに、母国の信仰も慣習として入ってきました。それらの祭祀儀式は祭具埋蔵物の発見により、年々具体的に解明されています。日本人の山岳信仰は古代よりみられます。前期の縄文人は円錐形の美しい山や、逆に険しく尖った怪異な山を崇めました。静岡県窪A遺跡の墓遺構からは、正面に冨士山を神奈備の山、霊山として仰ぎ見る信仰がうかがえます。同じように群馬県の松原遺跡には、浅間山に死者の頭を向けた長楕円形の墓穴があります。土壙墓の主軸方向の延長線に浅間山を望むものです。中期には冨士山を望むことができる所に、ストーンサークルが散在しています。後期には冬至に岩木山の夕日を拝するためと思われる、青森県の三内丸山遺跡のストーンサークルが見られます。このように遺跡から山岳信仰の存在を知ることができます。弥生時代になり水田耕作が営まれるようになると、水源の谷やその近くに銅鐸や武器型の青銅祭具が埋納されます。銅鐸は水の神を招く楽器であり、祭具は山や森の神霊の依り代と考えられています。古墳時代(四~六世紀)には前方後円墳が造られます。遺骸や副葬品を納めた円型の盛り土に、方型の盛り土を直結させ、ここで祭祀がなされるのは道教の思想によります。その副葬品は死霊を他界に運ぶ土製の鳥・馬・船、死者の生活に必要な品物があります。そして、歴代の天皇陵には山上・尾上・坂上・岡上などの接尾語が付され、山稜と総称されています。これは山中他界観を示すものです。飛鳥時代(五九二~六四五年)には、大和では東の三輪山、南の吉野、西の葛城が霊山として崇められていました。東の三輪山は古来水神・雷神の住まう神奈備とされ、山麓にはこの神を祀る大神神社があり、山中の盤座からは豊穣を祈ったと思われる子持ち勾玉が発掘されています。その西麓の檜原神社は崇神天皇の代に疫病が流行したので、皇居に祀られていた天照大神を倭の笠縫邑に遷して、豊鍬入媛に祭らせた(神人分離という)所とされます。南の吉野は水分山・金山とされ、ここに隠棲した天武天皇が挙兵して、伊勢の神を拝して「壬申の乱」で勝利をおさめ、即位したのちに皇女の大来皇女を斎宮として、伊勢神宮に奉仕させています。西の葛城山にも雷神とされる加茂氏の氏神が祀られていました。その山塊の二上山には謀反の罪で死を賜った天武天皇の子大津皇子が祀られています。

古代の日本では山麓の神社は氏神の源流をなすもので、春の新年祭、秋の新嘗祭の祀りを行いました。都祁国には集落ごとに岳山(だけやま)と呼ぶ神体山があり、ダケとは神の憑坐、神の坐す処で、琉球では御岳(うたき)といいます。里人は霊山を神の棲む聖地として入山を謹んでいました。山岳修行を説く道教や仏教が渡来すると、霊山は修行を行う聖地として受容されました。早くに日本に来た渡来人のなかには、道教の入山修行を行うため山岳に入っていた者がいました。(宮家準著『修験道と日本宗教』八頁)。また、神仙思想や陰陽五行思想などの道教的な知識は、留学僧によって渡来しています。この神仙思想は『日本書紀』雄略紀の「浦島子伝」により古くから日本に伝わり、大江匡房の『本朝神仙伝』につながります。ここにある神仙伝は不老長生であること、昇天・飛行ができること、鬼神を呪縛したり甁鉢を自由に飛ばす能力をもつこと、深い山に住み食物を断ち仙薬を服すなど、中国の神仙思想の内容がふくまれています。不老長生は誰でもが願うことですから、神仙思想は人間の生存欲を充足し、後の医学に貢献したことになります。修験道は日本の古代の民間信仰を基盤として中国の神仙説が加えられ、そこに仏教の組織や体裁に習ってまとめられたものであり、不老長生を主な目的とする呪術的な傾向が強いのはそのためです。修験道には道教の中核である神仙思想が入っているのは確実なことで、日本民族が道教を取捨選択した日本版といえます。(窪徳忠著『道教入門』二二八頁)。そして、この上に仏教思想が大きく山岳修行を発展させます。たとえば、吉野の竜門寺は久米仙人が修行したところ、比蘇寺は官僧(法相宗の元興寺)が虚空蔵求聞持法を修する道場となっています。興福寺僧は呪験のある陀羅尼呪を暗誦するため、室生寺に籠って虚空蔵求聞持法を修しました。行者は神威を増進するため神前で読経し、地方の豪族は氏族繁栄を願い神宮寺を建立しました。霊亀年中(七一五年より)から元慶二(八七八)年にかけて、神前にて読経された経典は般若経典が多く、ついで法華経となっています。葛城山は加茂氏の役行者、行基、道鏡が優婆塞として修行しています。『抱朴子』にみられるように山は神聖な場所であり、不老長生を実現する最適なところとされたのです。つまり、道教の神仙思想は山岳を抜きにしては成立しないのです。このような神仙思想をもった者は、深山幽谷の間に修練を積みます。大和の葛城・吉野や、冨士・大山・霧島などの山がその道場とされ、神仙になる修行をしています。仏教を思想とする修験者と違うところは、俗人との交渉をきらい人眼に見せなかったことです。しかし、共通するところもあります。それは人跡の至らない山中の幽谷であること、天から仙(神)が降りてきて神聖なところ、俗界を離れた清浄な仙境の土地をもっていることです。この顕界に幽界との交渉を認めるところは、古代の神道思想と一致するといいます。(宮地直一稿「山岳信仰と神社」『山岳宗教の成立と展開』所収。一一六頁)。さらに、修験道は古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と、前述しました陰陽道仏教に習合しました。七夕祭りも道教の「章醮(しょうしょう)の儀式」とよばれる星祭りの一種が原型で、それが陰陽道へ発展していきます。(福永光司著『道教と古代日本』一二二頁)。後述する妙見信仰はその一例です。このことからしますと修験道は、日本古来の民俗信仰・神祇信仰と融合し、仏教信仰に結びついた信仰といえます。中核となるのは密教と関連する呪術であり、修行の場としての山岳信仰に意義を見いだすことです。時代の経過からは陰陽道との関連から、地下に潜行した呪禁が密教を通して摂取されたという見方もできましょう。(下出積与著『道教と日本人』一九四頁)。その内容は教学的部門・倫理的部門・養生的部門・方術的部門の四っつに分けられます。これらについては前述しましたが、養生的部門・方術的部門について修験道との関わりからみていきたいと思います。