213.三種神器の意味           高橋俊隆

三種神器

伊勢神宮において鏡・剣・玉を三種の神器としています。三種の神器のうちに鏡・剣については、前述しましたように道教の影響がみられました。古事記』には天照大神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま。八坂璁曲玉、やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)と、草薙剣を神代として授けたと記され、『日本書紀』の「神代下」にも皇孫瓊瓊杵尊が、アマテラスから三種の神宝(神器)を授けられて天孫降臨したと書かれています。しかし、同じ『日本書紀』の「継体天皇元年二月条」と、持統天皇四(六九〇)年正月条には鏡と剣の二種を神璽とする記事があります。「四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞(よごと)。畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劒鏡於皇后。皇后卽天皇位。公卿百寮、羅列匝(あまねく)拜、而拍(うつ)手焉」。また、養老令(七五七年施行)の神祇令に皇位継承の践祚には、中臣氏は天神の寿詞(よごと)を奏し、忌部氏は神璽の鏡と剣を奉ることが規定されています。惟宗直本による養老令の注釈書である『令集解』(八六二頃。全五〇巻うち三六巻が現存)の古記は、大宝令(七〇一年)の注釈であり現存しない大宝令の本文を知ることができます。ここから、大宝令にも皇位継承の践祚の規定が同じくなされていたと思われます。歴史的にはこの前に飛鳥浄御原令(六八九年)があります。ところが、律令が完成する前の六八六年に天武天皇が死去したため、皇后の鸕野讚良皇女(持統天皇)と皇太子の草壁皇子が律令制定を継承し、服喪があけた後に次期天皇に即位する予定でした。しかし、草壁皇子は持統三(六八九)年四月に急死します。その直後の六月に飛鳥浄御原令が諸官司に頒布されます。律は制定されず令のみであったので、草壁皇子の死による政府内の動揺を抑え、天武天皇の遺志の継承を明示するため急遽公布されたものです。持統天皇四(六九〇)年正月、大極殿に出御した新帝が高御座について即位の儀礼を行います。このときに皇位を象徴する神璽としての鏡と剣が、忌部氏によって奉上されます。「神璽の剣、鏡を皇后に奏上」とあるように、鏡と剣の二種の神璽となっています。忌部氏の事跡を書いた『古語拾遺』(八〇七年)も鏡と剣の二種神宝とあります。これを忌部の鏡剣二種説、中臣の鏡剣玉三種説といいます。養老令の規定からしますと、原則的には二種であったといわれ、玉が神器に入って三種になった時期は不明といいます。オホド大王(継体天皇)以前は、允恭天皇の「璽符」、雄略天皇の「璽」と見えるだけで、継体天皇のときに始めて二種の神器としたのは、王統断絶の危機に瀕して正当性を持たせるためといいます。

ここで注目することは、二種・三種のどちらにしても、鏡・剣・玉のいずれもが弥生時代に入った呪具・祭祀具であったことです。(『日本の古代』7、鎌田元一稿、二八九頁)。三種の神器のうち鏡と剣は大和の笠縫邑から伊勢神宮に遷され、剣は日本武尊のときに尾張の熱田神宮に祀られます。しかし、大和・伊勢・尾張にそれぞれに由来する宝物があり、のちに繋ぎ合わせたともいいます。七〇一年の大宝令により天武天皇が構想した律令が完成し、このなかに即位の儀礼が定められます。そして、三種神器説が定着したのは中臣氏が忌部氏を圧倒し去った九世紀ころといいます。(『神道史大辞典』四三九頁)。何れにしましても、皇位を継承することは神勅に由来し、その皇位の御しるしが三種の神器となっています。

スキタイ王朝の三種の神器と、日本の天皇家の三種の神器の意味づけが、ほとんど一致しているといいます。『古事記』をみますと、鏡はアマテラスの御魂として祀るように神勅して瓊瓊杵尊に授けましたので、鏡はアマテラスの神体として天皇家の祭儀の中心とされます。草薙剣は素戔男尊がアマテラスに献上し、のちに倭姫命は日本武尊の東征にあたり授与します。戦闘のシンボルとなっています。八坂璁曲玉は伊弉諾が誕生したばかりの娘アマテラスを高天原の支配者(女王)に任命したとき、この首飾りの玉(御頸珠の玉)をあたえます。そして地上から天上へ昇ったことになっています。アマテラスは生まれたばかりの孫の瓊瓊杵尊を葦原の中つ国の王に任命し、天から地上に降臨させるにあたって、王権のしるしとして玉を授与します。これらの一連の出来事とスキタイ王朝の三種の神器の神話が一致します。御頸珠の名は御倉板挙(みくらたな)の神と記されています。これは神聖な倉に収蔵された稲種のことで、玉には稲の神を表す意味があります。

鏡――宗教――――――――スキタイ王の盃

剣――戦闘――――――――スキタイ王の戦斧

玉――稲作(食糧生活)――スキタイ王の犂(すき)軛(くびき)

これらは、それぞれを象徴する意味が与えられているのです。(『日本の古代』、吉田敦彦稿、三三三頁)。このように、日本の王権の象徴として三種の神器が伝わっていますが、この三種の神器とは別に、「大刀契(たいとけい)」と呼ばれる百済伝来の「神宝」が、三種の神器に準ずる「伝国璽」として存在したといいます。大刀契は内裏の火災などでたびたび焼損しましたが、改鋳して平安・鎌倉期と伝授されてきました。しかし、南北朝の混乱の中で絶えます。北朝第一代とされる後光厳天皇の践祚に当たっては、「大刀契、鈴印、これを渡されず、紛失せしめしか、年来実なし」(『匡遠記』)と記述されていることから推測できます。また、『先代旧事本紀』に物部氏祖神である饒速日命が、天神御祖から授けられたとする十種神宝(とくさのかんだから)があります。澳津鏡・辺津鏡は八咫鏡に、生玉・死反玉・足玉・道反玉は八尺瓊勾玉、そして八握剣・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼は草薙剣にあたります。比礼は女性が肩にかけた薄い布で、貴い女性が使った比礼を振ると呪力が出て、這う虫、飛ぶ虫、悪鳥、悪獣などのすべての妖を祓い邪を退ける呪布とされました。

八咫鏡】

中国では古来より鏡や剣を帝王権力のシンボルとします。天上の神仙世界、死者の羅鄷(らほう)世界、それに現実の人間世界の三世界にわけてみるのが道教の教えで、生と死の世界を一体化させるために、死者の遺体のそばに鏡と剣を置きます。唐代の道教の天師である司馬承禎の『含象剣鑑図』に、天上の帝王の権威と地上の帝王の権威をあらわすことをのべています。つまり、地上の帝王は天上の帝王の配下にあり、その委託によって地上を支配するとします。天上の帝王の権威を象徴する鏡と剣は、どうじに地上の帝王の権力の象徴になるのです。また、道教の見地から陶弘景は『真誥』『刀剣録』に、鏡と剣は道士の修行に不可欠のものであり、宗教的な霊力をもつことを説いています。(福永光司著『道教と古代の天皇制』三〇頁)。天理市柳本町の三世紀末頃の前方後円墳である黒塚古墳より、平成九年に三三面の三角縁神獣鏡が出土しました。穴石室は真北を向き被葬者の頭も真北に向けられていました。このことからヤマト王権には被葬者の頭を真北に向けて埋葬する風習があったことがうかがえます。棺内の被葬者の頭のところには画文帯神獣鏡と、その頭の両側にをおき、棺外の東壁側一五面、西壁側一七面の三角縁神獣鏡を内側に向けて、木棺と壁の間に立てられていました。三角縁神獣鏡は葬儀・埋葬のために作成されたことがわかります。古代において、鏡・玉・剣の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、支配者一般の象徴であったと考えられています。弥生時代の墳墓や古墳に三種の副葬が広範に見られることから、古代の王権のシンボルとなっていたことがわかります。

前述しましたように、天孫降臨思想は岩屋隠れにおける鏡の重要性を示していました。鏡は伊勢神宮の神体となっており、日蓮聖人の天照太神観を知るうえにおいても、神鏡のもつ重要性についての知識は必要です。日蓮宗の祈祷においても「壇鏡」が修法に用いられています。(身延山大学編『日蓮宗荘厳全書』二〇五頁)。日本の鏡については『古事記』に、天岩屋に隠れたアマテラスを招くために、石凝姥命に作らせています。石凝姥命は鏡作の連の祖で、天岩屋戸からアマテラスを招き出すために作られた鏡は、日前宮(和歌山市秋月)の神とあります。この日前宮の近くにある太田という土地は、韓国(からくに)から呉(くれ)の勝(すぐり)が渡来した所です。勝氏は秦氏と同族とされていますので、鏡に関しても渡来系の思想をもっていることがうかがえます。また、八咫鏡の製作者として鴨氏があげられます。鴨族は鏡の鋳造に携わっていたからです。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二二九頁)。

鏡にはおもに中国産の輸入鏡(舶載鏡)と、倭人社会で製作された仿製鏡があります。日本の古墳時代の前期は前方後円墳と三角縁神獣鏡が特色です。三角縁鏡は中国では局地的な分布ですが、日本は広域的に分布しています。舶載鏡と共存することが少ないことから、前漢鏡の輸入が困難な時期であったと思われます。この前漢鏡を補うために、前漢鏡を原鏡として作られた可能性が高いといいます。仿製鏡が日本で作られた製作地は、北九州の鋳造集団以外に、近畿にも存在していたといいます。(『日本の古代』一四、岡崎晋明稿、四五一頁)。奈良時代に入りますと、輸入された唐鏡を型にした踏返し鏡が鋳造されます。平安時代になりますと、次第に日本独自の文様となる和鏡が造られ、その代表的なものが藤原鏡です。鎌倉時代には和鏡は完成され、室町末期には柄鏡に形を変えて江戸時代に至ります。(『神道史大辞典』一九〇頁)。

中国の唐代に「天照」という鏡があります。昭宗天複二(九〇二)年に、帰耕子が序を付した『神仙煉丹点鋳三元宝照法』に、大型鏡の鏡背の文様を指定した鏡に「天照」と名づけられた鏡です。「背上内象紫微星君所居、外列二十八宿。鋳成、若遭五星失度、慧孛(はい)出天、霜雹霖早、開此照、齋潔虔誠、助威揚徳、其災自殄(てん)」とあります。この天照鏡の大きさは直径一一二・三㌢です。このような巨大な鏡は中国では極めて稀ですが、日本製にはこれと似た鏡が、中国歴史博物館に直径七六・五㌢の大型鏡が所蔵されています。日本神道の「八咫鏡」は、天照太神を象徴しており、中国の神鏡が「天照」と名づけられているところに、なんらかの関連性が窺われるといいます。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二一五頁)。伊勢神宮の神体である八咫鏡は、平面鏡と考えられています。しかし、飯田武郷氏(一八二八~一九〇〇年)は、四八年を費やして執筆した明治六年に、『日本書紀』の注釈書『日本書紀通釈』七〇巻を完成させます。そのなかに、神体は「つぼ」であったと実見記録を発表しています。飯田氏は明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見たといっています。神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸といいます。八咫の鏡は舟形の入れ物に二重の缶を置き、その中に安置されていたといいます。最奥の黄金の缶の中には円筒系の酒壺があり、それが八咫の鏡であり神体であるとのべます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二一五頁)。

【草薙剣】

草薙剣は出雲神話のなかで、須佐之男が出雲の簸(ひ)の川上で八岐大蛇を退治し、大蛇の尾を斬ったとき、十握剣が刃こぼれをします。尾を裂いてみるとこの剣がでてきます。尾張氏の尾張は尾を割ったところから名づけたといいます。八岐大蛇は『日本書紀』での表記で、『古事記』には八俣遠呂智とあります。正式な名前は高志之八俣遠呂知といいます。高志とは北陸地方のことですので、八岐大蛇は地方の豪族のこととか、斐伊川(肥の河)のこととする説があります。斐伊川の源流は須佐之男が降りた船通山で宍道湖に流入しています。この流域は鑪(たたら)製鉄の産地で、農村共同体とは異なる生活様式がありました。須佐之男が穀物や食物の神である大気都比売神を殺したとするのは、日本神話における食物起源の記述で、ここには、東南アジアでよく見られるハイヌウェレ神話の特徴が見られます。つまり、排泄物から食物などを生み出す神を殺すことで、食物の種が生まれたとする話です。須佐之男は生まれ出た穀物の種を、宇迦御魂(倉稲魂)などの八人の子供たちにもたせ、稲作の指導をさせたことから農耕の神とされます。また、和国建国の始祖王という見方があります。須佐之男はBC一八八年頃に出雲沼田の郷土布都命の子として生まれ、一九歳頃に出雲木次の製鉄豪族オロチを倒し、二九歳頃には出雲国王に推されたといいます。須佐之男の三男大歳は父の遺命を受け、紀元前一〇三年ころに多くの部族を率いて大和に東遷し、河内・大和から東海・南関東を版図に、同盟を組んだ日本王朝大和国を建国し饒速日と名乗ったといいます。大和国は幾星霜を経て大和国と呼ばれるようになり、その後、中国の魏志は邪馬台国、隋書は耶摩堆と書いたといいます。(山下重良著『日本人の先祖と日本建国黎明史』)。

「ヤマタノオロチ」の「オロチ」の意味として、「オ」は峰、「ロ」は接尾語、「チ」は霊力とする説があります。また、蛇の古語である「ミヅチ」や「ヤマカガシ」を、古来「ヤマカガチ」と呼んだように、「チ」とは蛇のこととする説もあります。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もあります。八岐大蛇の頭上には常に雲気が掛かっていたため、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)と名づけられたといいます。別名に草薙剣(『日本書紀』)・草那芸之大刀『古事記』)といいます。天叢雲剣は、三種の神器の一つです。「天叢雲剣」や「叢雲」の名は、『日本書紀』において本文の注として記されるのみで、『古事記』には見られません。「天叢雲剣」の名の由来となった、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関しては、『史記』や『漢書』からの引用といわれます。この天叢雲剣の別名を草薙の剣ともいいます。また、「クサ」は臭しの語幹で獰猛なこと、「ナギ」は蛇のことといいます。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴となり、現在は熱田神宮神体となっています。

この剣は須佐之男から天照大神に献上され、天照太神は鏡と玉の二種と共に孫の瓊瓊杵尊に授け天孫降臨させます。以来、皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていました。『日本書紀』によりますと、天上から追放された須佐之男は、子供の五十猛神(イタケル)と共に新羅に天下ったとあります。そして、須佐之男は新羅の曾戸茂利(ソシモリ)から舟で、出雲の簸の川上に来たとあります。また、『古事記』には須佐之男の子の大歳(オオトシ)の子として韓神という名をあげており、須佐之男にも渡来系の人達の文化がうかがえます。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』一九八頁)。曾戸茂利は牛頭(ソモリ)州のことで、古朝鮮の穢貊(えはく)族とも言います。(段煕鱗著『日本に残る古代朝鮮』)。牛頭天王は神仏習合では薬師如来垂迹であるとともに須佐之男の本地とされます。祇園社附近はもと八坂郷と称し、朝鮮の渡来人々が住みついて牛頭天王を祀り、日本神話の須佐之男と習合したといいいます。また、「ソシモリ」はソの民(蘇民)として、蘇民将来説話と須佐之男の曾戸茂利降臨と関連づける説もあります。(真弓常忠編『祇園信仰事典』)。須佐之男が救い結婚した少女の名前は奇稲田姫(くしいなだひめ)です。聖なる水田を神格化した名です。この神話には山には水田や人間社会に害を与える神が住むという観念が潜んでいるといいます。奇稲田姫という呼称は不思議に豊かに実る田を人格化しています。重要なのは須佐之男は高天原から天降ったことと、奇稲田姫と結婚して出雲世界の支配者になったことです。日本神話においての稲作は、高天原と支配者とに密接な結びつきを示しています。アマテラスが高天原で食べている稲をもたらすことは、『記紀』神話が基本的に支配者神話だからです。(『日本の古代』一三、大林太良稿、二三頁)。八岐大蛇神話は稲作民の神話といわれるのはこのためです。『記紀』にある神話は水稲耕作文化を母体とする神話が少ないのも特徴です。伊弉諾・伊奘冉尊の国産み神話は、海人の伝承が主体となります。失われた釣り針を求めて海宮に行き、海神の女と結婚する海幸・山幸神話は、インドネシアに類話が濃密に分布します。また、中国東南部にも変形した形で残っているところから、基本的には隼人あるいは海人の伝承であったといえます。

七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)は、神功皇后の時代に百済の国からへ贈られたものとされます。発見されたのは天理市石上神宮布留大明神)です。古代ヤマト政権の武器庫といわれ、軍事氏族であった物部氏が祭祀してきました。布都姫という名の斎宮がいたといいます。七支刀は六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄です。全長七四、八㌢で製造地は中国とされています。『日本書紀』には七枝刀とあり、刀身の両側から枝が三本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたとされます。朝鮮半島と日本との関係を記す現存最古の文字史料であり、好太王碑とともに四世紀の倭に関する貴重な資料となっています。

これに対し七星剣は中国の道教思想に基づいて作られた、飛鳥白鳳時代の日本直刀です。現存、歴史的価値を持つとされる七星剣が数点確認されています。七曜剣、七曜御剣ともいい、七星文の他には雲形文・日・月が描かれています。七星剣は長さ約六三㌢ほどの心持ち内反りの直刀です。二筋の樋が刀身にあり、樋の上に七星と雲形、はばき元に龍頭がそれぞれ金象嵌されています。七星は北斗七星のことで、この種の刀は正倉院御物にもあり、熊本県八代の旧妙見宮にもあります。神剣として北斗のもつ国家鎮護の性格をもつものといいます。(吉田光邦著『星の宗教』一八二頁)。大阪の四天王寺に丙子椒林剣と七星剣の二つが国宝として所蔵されています。丙子椒林剣(へいししょうりんけん)は反りのない直刀で、刃長六五、八㌢、鎬造で反りのある日本刀が誕生する以前の形式を示しています。なお、現代の刀剣用語では「剣」とは両刃で左右対称形のものを指し、片刃の直刀には「大刀」の字を当てています。「丙子椒林剣」という名称の由来は、腰元の平地に隷書体の「丙子椒林」の四字が金象嵌で表されていることによります。「丙子椒林」の解釈には諸説ありますが、「丙子」は作刀された年の干支、「椒林」は作者と解釈されるのが一般的です。丙午の日は火の勢いが盛んで鍛冶作業に適したので、この日に刀を作ったと『抱朴子』にあります。古代の刀剣(奈良石上神宮の七支剣)や鏡に「丙午の日」という文字が多い理由です。「椒林」について、「椒」は中国古来では霊木であり、椒は玉衝星(廉貞)が地上に降下し散じて生じたものと、『春秋運斗枢』に書かれています。正月の一日の拝賀のときに椒を盛った盤をすすめ、椒酒を飲んだことが後漢の崔寔の『四民月令』にあります。椒は神秘的な性格を持つことから「椒林」の二字には天界につながる呪的な意味が含まれているといいます。また、玉衝星が「璇璣玉衝」であれば北斗七星のことといいます。つまり、枢、璇、璣、権の四星を璇璣、柄の部分を作る衝、開陽、揺光の三星を玉衝(ぎょくこう)といいます。

第一〇代崇神天皇のときに皇女豊鍬入姫命は神威をおそれて、八咫鏡とともに皇居から大和の笠縫邑に遷しました。『古語拾遺』には草薙剣の形代の剣を作り宮中に残したとあります。らに、第一一代垂仁天皇のときに豊鍬入姫命の跡を継ぎ、垂仁天皇の第四皇女倭姫命に引き継がれます。倭姫命は天照大神の御杖代として大和国から伊賀近江美濃尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。はじめは伊勢の五十鈴川のほとりに遷し、約六〇年をかけて現在の伊勢神宮内宮に定着しました。これが伊勢神宮の起源となります。(『神道史大辞典』三三頁)。倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに、天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれます。伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は、「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)と、伊勢の地に定住したい旨を託します。(『日本書紀』垂仁天皇二五年三月丙申(一〇日)条)。これに従い斎宮が制度化されます。

そして、第一二代景行天皇のとき草薙剣は、倭姫命から東国の制圧へ向かう日本武尊に渡されます。伊勢神宮でこれを拝受した日本武尊は、東征の途上の駿河国(『古事記』は相模)の焼津で賊の火攻めにあい、この神剣によって草を薙ぎはらい野火の難を逃れたことから、草薙剣という別名ができました。現在の静岡県には焼津草薙など、この神話に由来する地名が残っています。日本武尊は東征の帰りに尾張国で結婚した宮簀媛の元に剣を預け、そのまま伊吹山の悪神を討伐しに行きますが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまいます。伊吹山の毒気に斃れたのですが、この説話は尾張氏の裏切りを暗示するともいいます。熱田神宮は尾張氏が祭祀を行っています。その残された草薙剣は、宮簀媛が建てた熱田神宮に祀られました。草薙剣は『日本書紀』などの記載からしますと鉄剣といわれますが、江戸時代神官が神剣を見た記録があり、それによりますと長さは二尺八寸(八五㌢)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく錆はなかったとあります。この江戸時代の実見録により銅剣とも考えられています。また、草薙剣は盗難にあったことがあります。天智天皇七(六六八)年に、新羅である道行は熱田神宮の神剣を新羅に持ち帰ろうとしましたが、船が難破して取り戻されました。その後は宮中で保管されていましたが、朱鳥元(六八八)年六月に天武天皇が病に倒れると、神剣の祟りだということで熱田神宮に戻されたのです。

【八坂璁曲玉】

霊や魂も「たま」というように、玉(たま)は森羅三千に具有する霊魂の象徴とされます。剣は穢れや邪悪なものを切断する力があると信じられ、鏡は神霊そのものの象徴とされます。真澄の鏡と言うように、一点の曇りも無く太陽のように光輝くところに神の存在を認めたのです。勾玉は日本における装身具の一つです。古事記』には勾玉、『日本書紀』には曲玉とあり、一般には勾玉の字を用いています。勾玉は日本独自の形の玉で、朝鮮半島南部の古墳出土のものは、日本よりの伝来品とされています。丸く膨らんだ一端に穴を開けて紐を通し首飾りなどにしました。鈴木克彦縄文時代初期の玦状耳飾りが原型であるとのべています。形状から元は動物ので作った牙玉とする説、初期の胎児の形とする説、魂の姿を象ったとする説、巴形を模したとする説、月の形を模したとする説などがあります。沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれています。古琉球時代(一四~一六世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土しています。このことから詳細は分かっていませんが祭祀にも使用されたと考えられています。

日本神話の記述では岩戸隠れのときに、玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けます。後に天孫降臨して瓊瓊杵尊に授けたとあります。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)八坂瓊曲玉とも書きます。「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛で、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことで、八尺は(当時の尺は今より短いため)約一八〇㌢、八咫は約一四〇㌢になります。大きな玉で作った勾玉であり、子供の頭くらいの大きな勾玉とも、八尺の緒に繋いだ勾玉ともいわれます。この長さは玉の周、尾を含めた長さ、結わえてある緒の長さであるともいいます。また、「八尺」は単に大きい長いという意味であるとか、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もあります。「八坂」は「弥栄」とも書き栄えるとされました。「瓊」は「丹」ともいい、不老長生の仙薬でもあります。つまり、勾玉には神仙の呪力・霊力が秘められ、不老不死の働きをもつとして、いつまでも栄え長生きすることの象徴となったのです。「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙のことであるといいます。「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説もあります。また、死後の世界の神仙の働きを願って死者に添えられたといいます。

このように、勾玉は霊力の強化や多産・豊穣を祈るものとされ、三輪山の場合は王権・国家的祭祀に用いられたとみられます。子持勾玉は滑石質の軟らかい石材で作られ、大型の勾玉の表面は小型省略形の子供をもっています。玉の持つ霊力は特に増殖にかかわる呪術的な遺物とされます。四世紀代の前期古墳に、緑色で透明な硬玉翡翠の勾玉が多く出土しています。大阪府の和泉黄金古墳の中央棺から大小二九個の勾玉が遺体の周囲に副葬され、九個が翡翠の勾玉で首飾りに使われていました。ほかの東西の棺をあわせると二六個の翡翠の玉が使われていました。日本の翡翠産地は糸魚川市の姫川支流の小滝川と、その隣の青海川の二カ所です。これらの翡翠は上流の巨大な岩塊を砕いて採取するのではなく、川原や海岸に丸玉状に石塊になったものを加工したといいます。青梅町には大角地遺跡(縄文前期)・寺地遺跡(縄文中期)、糸魚川市の細池遺跡(縄文晩期)・後生山遺跡(弥生後期)・笛吹田遺跡(古墳前期)・田伏遺跡(古墳中期から後期)、富山県の最東端の朝日町の海岸にある浜山には古墳時代中期の玉作り遺跡があります。海岸に当たるところで翡翠の製作を行っています。古墳後期には衰退し、六世紀ごろから八世紀ころに跡を絶ちます。これは仏教の伝搬による死生観に関係があるとみられています。翡翠にかわって琥珀が登場します。(『日本の古代』一〇、森浩一稿、七三頁)。

大国主命の高志国における妻問いの相手として、ヌナカワヒメまたはヌナガワヒメ(沼河比売・奴奈川姫沼河比売)がいます。沼川は翡翠の産地で瓊の川といいます。奴奈川姫は諏訪大社の祭神、建御名方神(たけみなかたのかみ)の母といいます。(『旧事本紀』)。古墳時代の翡翠の勾玉を製作した遺跡は富山県の浜山玉作遺跡と、新潟県大角地遺跡で発掘されています。大国主命の求婚はこの翡翠を求めてのこととされています。勾玉は権力の象徴として鏡・剣とともに古墳に副葬されています。巫女と見られる埴輪が出土しています。右肩から左脇下にかけて袈裟状の薄い衣をまとい、その袈裟衣は左脇下で大きく袋状を呈することが特徴で、両脇をめぐり背中で交差させた襷や帯で衣を押さえています。これを意須比(おすひ)と呼称されたとみられています。この巫女の首・手首・足首を、それぞれ頸玉・手玉・足玉で飾る例が多く見られます。関東地方から出土する巫女埴輪には鈴鏡を下げるものもあります。玉類を身につけた人物埴輪をみると、勾玉・切子玉・棗玉・平玉・丸玉・小玉などを組み合わせて装飾しています。滑石製の玉には切子玉や棗玉・平玉がみえないことから、滑石製品は祭祀に使われたとみられています。滑石製品にも小孔が穿たれており、榊などに取り懸けて使用されたと考えられています。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、四一六頁)。

八坂璁曲玉は奈良時代には後宮の蔵司が保管し、平安時代からは剣と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれました。壇ノ浦の戦いで平時子(二位の尼)が安徳天皇を抱きかかえ、三種神器とともに入水しました。『愚管抄』には平時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽を具して入水したとあります。『平家物語』によりますと神璽を脇に挟み宝剣を腰に差して沈んだとあります。しかし、玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり源氏に回収されます。源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたともいいます。『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」とあり、神璽・剣・鏡と分けて読みますと神璽は玉のことをさしていることになります。昭和六四年の践祚の後、今上天皇の継承した神器として皇居吹上御殿の剣璽の間に、剣(レプリカ)とともに保管されています。三種の神器の中で唯一、皇居に実物があります。