198.庚申信仰                             高橋俊隆

庚申信仰

また、日本に伝来し定着した道教信仰に庚申信仰があります。各地に庚申塔庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着しています。青面金剛が祀られたのは江戸初期のことです。江戸時代には結核の原因が三尸としたり、伝染病は邪悪な虫の侵入によって生ずるという俗信がありました。(宮田登著『カミとホトケのあいだ』一七二頁)。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られます。古くは『捜神記』などにみえ、『雲笈七籤』巻七九「符図」章に、詳細な庚申信仰について書かれています。紫式部の『源氏物語』や、藤原定家の『名月記』のなかにも道教の泰山府君信仰や、方違(かたたが)えなどの方角に関する禁忌が書かれています。神道密教修験道など民間信仰や習俗などが見られる複合信仰です。柳田国男氏は庚申信仰を日本固有といいましたが、中国の道仏二教の守庚申の儀式や信仰と、中世以前の日本の庚申信仰を比べると、日本固有の行事や信仰ではないといいます。(窪徳忠著『道教入門』二三三頁)。

この庚申信仰が日本に伝えられたのは、皇極天皇(六四二年)のときといわれ、文武天皇の大宝元年(七〇一年)の一月七日に天王寺において始めて庚申待が行われます。庚申信仰は道教の三尸説(さんしせつ)をもとにしています。この起源は中国の三国時代から西晋にかけての三世紀中頃に道教で説いた「三尸」にあります。『抱朴子』によりますと、人の体内にいる三尸(霊魂・鬼神)という虫が、庚申の夜に人が眠りに入ると天にいる天帝にその人の罪を告げるというもので、天帝は罪深き者を早死にさせるといいます。この虫はその宿主を早く死なせたく思っています。宿主が死ぬと虫は自由に歩き、死者に供えたものを食べることができるからといいます。それで、庚申の夜になると天に昇って宿主の過失を報告するというのです。これを防ぐために庚申の夜は眠らないで身を慎む守庚申がなされました。これが、庚申待(おさる待ち)といい、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする日本の民間信仰です。平安時代の貴族は庚申御遊といって、碁・詩歌・管弦の遊びを催してその夜を過ごしたといいます。三尸は三彭・尸虫・尸鬼・三虫などともいいます。平安期に丹波康賴が著した『医心方』に、三虫は長虫(ヘビ類の俗称)・赤虫(オオユスリカ・アカムシユスリカの幼虫)・蟯虫(袋形動物線虫綱の寄生虫)を指し寄生虫のこととします。尸は祖先の祭に神霊に代わって祭を受ける形代・依り代のことで、病気の原因である寄生虫を、悪霊の憑依する呪物としたといいます。これを道教の方術士が天帝に結びつけ、それを陰陽師や修験者が庚申信仰として民衆化しました。また、『雲笈七籤』には三尸は上尸を蓋東、中尸を彭侯、下尸を蝦蟇といい、上尸は眉間の奥三寸の泥丸宮に、中尸は心臓の背後三寸三分の中泥丸に、下尸は臍下三寸のところ下泥丸に宮殿楼閣をもつとあります。その三尸が庚申に天に上るわけです。『淮南子』の天文訓によりますと庚と申は五行のうちの「金」になります。庚申は天神決断の日とされています。北極大帝が諸門を開いて鬼神の訴訟を許すときにあたり、その人々の善悪を聞いて賞罰の判断を行うといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』三〇二頁)。「金」は刑を意味します。刑が執行されるのは辛酉の日です。ですから、辛酉の前日の庚申は三尸虫の報告を受ける日になります。

この天帝を帝釈天と見なし仏教と結びつけます。『四天王寺庚申縁起』には四天王寺の行法尊記上人のもとに、帝釈天の使いが下って「庚申の法」を広めることを勧めます。これは、精進潔斎を教えたものと思います。『長阿含経』忉利天品第七には、四天王が帝釈天に斎戒布施を行う善人がいることを報告し、一同が歓喜する場面が説かれています。ここに、仏教との接点が認められるといいます。(望月良晃稿「法華仏教と庶民信仰」『近世法華仏教の展開』所収、五八七頁)。日本の三庚申は大阪四天王寺の庚申堂・八坂の庚申堂・金谷三光寺の庚申堂(豊田市)です。日本最古の庚申塔は、川口市の実相寺にある文明三年(一四七一年)の板碑です。一般に庚申信仰は室町中期ころから拡大し、日本で確認される最古の庚申縁起は永弘文書の中にある、明応五(一四九六)年の「庚申因縁記」です。これらの庚申縁起を作成したのは、日蓮宗系の僧侶であったといいます。(『日本民族大辞典』上。五九五頁)。庚申縁起によりますと、庚申待に始めは拝礼する神仏はなかったが、室町時代の終わり頃から、特定の神仏を祭祀して三尸昇天を防ぎ、安穏・延命などを祈願するようになったとあります。この庚申信仰と帝釈天信仰を結んだ柴又の題経寺があります。題経寺の縁起によりますと、江戸中期に行方不明であった寺伝の板本尊が、たまたま安永八(一七七九)年四月六日庚申の日に発見されたことから、当時流行していた庚申信仰と結びついたといいます。

帝釈天は漢字に音写して「釈提桓因」といい、日蓮聖人は御本尊を認めるときは「釈提桓因王」と書かれています。日蓮聖人は帝釈天を娑婆を知行する梵天王の眷属とされ、帝釈天は三十三天の主であると同時に四天王を統率しているとのべています。『法華取要抄』に、

「梵王云 此土自廿九劫已来知行主。第六天帝釈四天王等以如是。釈尊与梵王等始知行先後諍論之。雖爾拳一指降伏之已来梵天傾頭魔王合掌三界衆生令帰伏釈尊是也」(八一一頁)

と、梵天・帝釈・四天王の立場を示しています。帝釈天に関する説話として有名なのは、『涅槃経』聖行品にある雪山童子の説話です。帝釈天は羅刹となって雪山童子の修行を試みます。そして、過去仏所説の「諸行無常・是生滅法」「生滅滅已・寂滅為楽」を示します。日蓮聖人はこの説話により、『松野殿御返事』に、

「誠に我身貧にして布施すべき宝なくば我身命を捨て、仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべし。とても此身は徒に山野の土と成べし。惜みても何かせん」(定一二七二頁)

と、不惜身命の法華弘通を示され霊山浄土の法悦を説いています。日蓮聖人において帝釈天は、四天王や日月天王、そして、日本の大小の神祇を司る善神としてうけとめ、法華経の守護を誓った仏弟子として曼荼羅御本尊に勧請されました。

中国が最も国際的であった七世紀の唐の国教は道教でした。日本と中国は多数の使節や留学生・留学僧を送り交流を深めました。道教は気学を完成させ、医術・天文学・科学技術においても高い水準に達していました。道教の正式な道士・天師の渡来はなかったとはいえ、先に挙げた道教の養生・錬丹・方術という神仙術などは、古代日本に伝来していました。それは豪族の氏神信仰と、天皇家の儀式や陵墓にうかがえました。また、中国の陰陽道に近い宿曜道は密教から発展したものです。これ以前の呪術中心の密教を雑密といい、以後のものを純密と呼びます。奈良朝は雑密全盛の時代でした。(村山修一著『日本陰陽道史話』二二一頁)。しかし、天智八(六六九)年を最後として唐との直接交渉が途絶え、一方、新羅との使節の往還が頻繁になります。その背景には天智二(六六三)年八月の「白村江の戦い」による日本軍の敗北、そして六六八年に高句麗と百済が、唐と新羅連合軍に首都平壌を奪われて滅亡し、そして、六七六年に新羅の統一国家ができたことによります。