163.『波木井三郎殿御返事』〜『直垂御書』               高橋俊隆

□『波木井三郎殿御返事』(一二七)

八月三日付けにて、波木井実長氏に宛てた書状です。真蹟はありませんが、『興師本』が北山本門寺に所蔵され、「甲斐国南部六郎三郎殿御返事」と宛先の名前が記載されています。波木井実長から法門についての質問があり、それに答えたのが本書です。波木井実長は文永八年の弾圧にも退転せずに、初期の信徒として初心をつらぬいています。日蓮聖人の教えを信じ真摯に法門の教示を仰いでいたことがうかがえます。波木井実長の入信の時期は文永六年から七年ころといわれ、それまで念仏の信仰をしていたといいます。

また、本書の端書きに、鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨という弟子がいて、これらの弟子に佐渡始顕の大事な法門を伝授しているから、招待して教示をうけるようにといわれています。宮崎英修先生は、これを真言の教えを学ぶと解釈して、波木井実長は真言宗を信仰していたとする説を否定しています。『波木井南部氏事蹟考』二二七頁)。また、六郎三郎は実長氏の子実氏、常陸加倉井氏の祖といいます。(前川健一稿『印度学仏教学研究』五九巻第二号二一二頁)。

 波木井実長から質問されたことは、「現世安穏後生善処」と経文に説かれているのに、なぜ日蓮聖人は迫害にあうのか、仏意に反しているのではないか、という疑問です。当世の人に信じがたいという難点だったのです。すでに、このことについては『開目抄』にのべていたことでした。これは流罪にあってから浮上した問題ではなく、当初から予想したことで、留難があるからこそ法華経の行者であるということを、証文をあげて述べていきます。『開目抄』にみられる「現安後善」を法師品・勧持品・涅槃経を引いて説明し、これらの経文は釈尊が仏眼をもって「後五百歳始」を説かれたことで、三類の強敵がなければ釈尊の言葉も誤りとなり、本迹二門の二乗作仏・久遠実成と『涅槃経』の仏性常住を、信用することができないことになると述べています。

そして、経文を引き、仏語が真実であることを証明するために、これらに該当する当世の寺院や僧侶などの名前をあげます。 

「或有阿蘭若住於空処等者建長寺・寿福寺・極楽寺・建仁寺・東福寺等日本国禅律念仏等寺々也。是等魔寺為破比叡山等法華天台等仏寺出来也。納衣持律等者当世着五七九袈裟持斉等也。為世所恭敬是大菩薩者道隆良観聖一等也。云世者当世国主等也。有諸無智人諸凡夫人等者日本国中上下万人也」(七四六頁)

と、実名を指定しています。そして、これら三類の強敵があるならば、悪口罵詈され流罪を被る法華経の行者が存するはずである、法華経の行者がいないとすれば東があるのに西がなく、天があるのに地がないようなもので、仏語が妄語となってしまうのではないかと、行者は誰かを追及します。そして、経文と現実の大難に値う法華経の行者自身であるとのべ、その真意は上行菩薩の再誕であることを波木井氏に明かしたのです。すなわち、

「日蓮為凡夫之故不信仏教。但於此事者如水火当手知之。但有法華経行者可被悪口罵詈刀杖擯出等云云。以此経文配当世間一人無之。以誰為法華経行者。雖有敵人無法華経持者。譬如有東無西有天無地。仏語成妄説如何。予雖似自讃勘出之扶持仏語。所謂日蓮法師是也」(七四六頁)

と、自讃ではなく如上のことから上行自覚をのべて、門下の統率をする必要もあったのです。

 つぎに、釈尊が不軽品に自身の過去の現証である、因位の所行を説いたのは、「末法始」を想定してのことで、不軽菩薩が杖木等の色読により妙覚の仏となったように、日蓮聖人も二度の流罪に値うことから、未来の成仏も疑いがないと諭しています。 

「其上仏不軽品引自身過去現証云爾時有一菩薩名常不軽等云云。又云悪口罵詈等。又云或以杖木瓦石而打擲之等云云。釈尊引載我因位所行勧励末法始。不軽菩薩既為法華経蒙杖木忽登妙覚極位。日蓮此経之故現身被刀杖二度当遠流。当来妙果可疑之乎」(七四六頁) 

付法蔵の師子尊者などの四依の大士が、正像に弘通したときでも留難があったのは、国王の賢愚により行者の用取があることで、仏意によるものではないとのべます。正法像法でさえ、このようであるから、まして末法には法華経を用いる賢王はいないとします。迫害にあい流罪に処せられたことは、幸いのなかの幸いである、と法悦感をのべています。

そして、『仁王経』の「聖人去時七難必起」の文をあげ、この七難とは大旱魃などの天災地災であり、兵乱とは二月騒動や蒙古襲来のことをさします。『最勝王経』の「由愛敬悪人治罰善人故星宿及風雨皆不以時行」の文の「悪人」とは、道隆・良観・聖一などを庇護する権力者たちであるとのべます。そして、「善人」とは国難にあった日蓮聖人であるとし、「星宿」とはこの二十余年の天変地夭であると指摘されます。このことからするなら、日蓮聖人を流罪にすることは国土が滅亡する先兆であるとのべます。そして、日蓮聖人は流罪にあう以前からすでに、『立正安国論』に主張していたことであり、それから二〇年も時を経ていることを歎きとします。

 つぎに、正法時代に龍樹・天親が法を弘めたが実大乗ではなく、像法時代に天台大師は教門の五時八教と観門の一念三千を説いて、小釈迦と呼ばれたが円戒を弘めなかった。仏滅後の千八百年に伝教大師が、比叡山に大乗戒壇を建立して円頓戒を弘通したが、本門の教主釈尊と地涌に別付属した妙法蓮華経の五字は弘めなかった。これは、正像時代は時期が整っていないから、弘めなかったと述べます。薬王品本や天台・伝教大師の経釈によれば、まさに、「末法の始め」にあたる今であるとのべます。このときこそ、釈尊が未来記とした、本仏である本門の本尊と本法である本門の題目が流布する時であるとのべます。すなわち、 

「但仏滅後二千余年三朝之間数万寺々有之。雖然本門教主寺塔地涌千界菩薩別所授与妙法蓮華経五字未弘通之。有経文無国土。時機未至故歟。仏記云我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶等云云。天台記云後五百歳遠沾妙道等云云。伝教大師記云正像稍過已末法太有近法華一乗機今正是其時等云云。此等経釈指示末法始也。外道記云我滅後当一百年仏出世云云。儒家記云一千年後仏法渡漢土等云云。如是凡人記文尚以如符契。況伝教天台乎。何況釈迦多宝金口明記。当知所残本門教主、妙法五字流布一閻浮提無疑者歟」(七四八

 そして、波木井実長氏の不退の信心を賞賛します。日蓮聖人はこれらを充分に教え諭した者でも、佐渡流罪を契機に信心を捨てる者が続出したが、波木井氏はこれまでに二度ほどの数時間しか聴聞していないのに、信心を堅固にたもつことは、妙楽大師がいう「宿種」「妙因」(七四八頁)という、過去の宿善があるからであるとのべます。阿闍世王・提婆達多の悪人成仏の実例をあげ、末代の悪人の成仏は罪の軽重ではなく、法華経の信不信であるとのべます。波木井氏は武士で殺生を犯す悪人であるから、いかなる方法をもって三悪道を逃れるかを私案しなければないとして、

「法華経乃心当位即妙不改本位申不捨罪業成仏道也。天台云他経但記善不記悪。今経皆記等云云。妙楽云唯円教意逆即是順。自余三教逆順定故等云云。爾前分々得道有無事雖可記之知名目人申之也。雖然大体教之弟子有之。召此輩等粗聞。其時可記申之」(七四九頁)

と、法華経の本門の本有常住の教えからすれば「当位即妙不改本位」であるから、罪業の心身を捨離しなくても、この即身のままで成仏すると説きます。この証文として天台大師は、法華経は悪人にも成仏を認めると釈し、妙楽大師は法華円教は逆縁の者でも成仏を定めているという釈を引きます。「爾前得道」については一定の知識がなければ理解ができないので、弟子に教えているので身元に召して教示を受け、ほぼ理解ができたなら「爾前得道」について詳しく教える、として結ばれています。波木井実長氏が「後生善処」を願う信仰心をもったのは、このような日蓮聖人の教えにあったと思われます。日蓮聖人を身延に招いた理由となります。また、日蓮聖人が大事な法門といったのは、「爾前得道」の教えを通して本門の寺院を建立し、妙法五字を弘通することの重要性であったといえましょう。

 本書は『開目抄』とともに行者値難(「現世安穏後生善処」)をのべた重要遺文とします。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九〇六頁)。また、『観心本尊抄』いごの『顕仏未来記』からの著述には、末法正意の立場から、はっきりと、本化上行の自覚をされています。そして、明確に本門の本尊と題目を弘通する必然性を、門下に標榜されています。また、『如説修行鈔』の不惜身命の強い信念から妙法広布を勧める論調です。

□『経王殿御返事』(一二八)

 八月一五日付け(文永九年ともいいます『境妙庵目録』)にて、通説では、四条金吾氏からの使者が供養の品を届けたことの返書といいます。内容から四条金吾の妻が経王御前の発育祈願を依頼された返書です。「経王」を冠した遺文は、さきの文永九年八月とされる『経王御前御書』(六八六頁)と本書のだけです。前述したように(『経王御前御書』)、宛先に諸説がありました。両書とも四条金吾氏に宛てた書状ではないともいえます。内容から鎌倉に在住している女性に宛てており、守り本尊を幼い経王御前に授けていたことがわかります。真蹟は伝わっていません。

 冒頭に、その後の音信を知りたいと思っていたところへ、わざわざ使いをよこし金銭の布施をうけたことに感謝しています。金額については書いていませんが、施主にとっては重宝となる金額であったと思われます。このこともあり、佐渡においても金銭は大切であったとのべます。

「其後御をとづれきかまほしく候つるところに、わざと人ををくり給候。又何よりも重宝たるあし(銭)、山海を尋るとも、日蓮が身には時に当りて大切に候」(七五〇頁)

一谷に転住したことにより、待遇が向上し教団が拡大したとはいえ(佐藤弘夫著『日蓮』二三五頁)、佐渡の農産物の生産が自然災害により低迷していました。日蓮聖人一人だけに配給される料は決まっていましたので、弟子たちは朝夕の食事に不自由されていました。この金銭の布施により、付近の住民から米や塩、野菜などを調達されたのです。金銭は弟子たちの身命をつなぎますので、「身には時に当りて大切」、とのべ感謝されている心情が伝わります。

 経王御前については不明なところがあります。文永八年五月の四条金吾氏に宛てた『月満御前御書』(四八五頁)に、五月八日に月満御前が生まれたことを喜こばれ、月満御前を「童女」とのべています。文永九年八月とされる『経王御前御書』に「経王御前」を儲けたとあり、浄蔵・浄眼に因んで二人の子供に恵まれたことを喜びます。月満御前と経王御前の二人は、「現世には跡をつぐべき孝子也」(六八六頁)とのべています。一般的に跡継ぎは男子が多いので、経王御前を男子としたと思われます。病弱な子供であったので、お守りを授けたとあります。

「経王御前の事、二六時中に日月天に祈申候。先日のまほり(守)暫時も身をはなさずたもち給へ。其本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕し奉る事たえたり。師子王は前三後一と申て、あり(蟻)の子を取らんとするにも、又たけ(猛)きものを取らんとする時も、いきをひを出す事はただをなじき事也。日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経云、師子奮迅之力とは是也。又此曼荼羅能能信ぜさせ給べし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし」(七五〇頁)

 この守り本尊を与えた時期は、文永九年八月とされる『経王御前御書』のころと思われます。本書は文永一〇年八月一五日ありますので、「先日」与えたとしますと一年前のこととなります。本書を文永九年とした『境妙庵目録』のほうが正しいようにも思えます。

この出産の折に経王御前に授けたと思われる「守り本尊」は、正像に書き顕わしたことがない未曾有のものであるから、肌身にはなさずに持つようにとのべています。本書に「守り」を「本尊・御本尊」としたのが三箇所あり、「曼荼羅」と表記したのが一箇所あります。お守りを御本尊とよび曼荼羅とも称しています。そして、「日蓮守護たる処の御本尊」守りは、師子王が前三後一のように勢力を込めた「師子奮迅之力」であるから、信心によりどのような病魔であっても、障りをなすことはないとのべています。また、「さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし」と愛染・毘沙門天が守護し、鬼子母神と「十羅刹女の中にも皐諦女守護ふかかるべき也」と受持の者を守護することをのべ、法華経を利剣にたとえて、信心が弱い者は役に立てることができない、信心が強ければ法華経の力は、「鬼にかなぼう」(七五一頁)であるとします。そして、

「日蓮がたましひをすみ(墨)にそめ(染)ながしてかき(書)て候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云以顕本遠寿為其命と釈し給。経王御前にはわざはひも転じて幸となるべし。あひかまへて御信心を出し、此御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。充満其願如清涼池現世安穏後生善処疑なからん。又申候。当国の大難ゆり候はば、いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし。法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。ただ歎く所は露命計也。天たすけ給へと強盛に申候。浄徳夫人龍女の跡をつがせ給へ」(七五一頁)

と、この守り本尊は日蓮聖人の魂を込めて染筆したものであり、仏の真意は経王である法華経にあり、日蓮聖人の魂は南無妙法蓮華経のなかに込められているとのべて、経王御前の除災得幸のためにこの御本尊に祈念するように信心を勧奨しています。末筆に申し添えるとして、流罪の赦免があればすぐに鎌倉にのぼり四条氏たちに会うことをのべます。法華経に守られていることは確信しているが、経文に「不老不死」と説かれているように、余命についてはわからないこととのべます。しかし、諸天善神に鎌倉に帰ることを強情に祈願していると近況をのべ、四条金吾の妻には浄徳夫人や龍女の跡をつぐような信心を行なうようにとのべています。

□『辨殿尼御前御返事』(一二九)

九月一九日付けにて、日昭上人をへて辨殿尼へ宛てた書状です。辨殿尼には日昭上人を通して法門のことなどを伝えていたようです。辨殿尼については『妙一尼御返事』(一二九)のところにてのべましたように、諸説があり日昭上人の母親とするのが通説となっています。真蹟の二紙は中山法華経寺に所蔵されています。

 本書の書き出しに、安倍貞任が陸奥において謀反をおこしたが、源頼家と義家の親子と前九年と後三年の役と一二年にして戦い敗れ、平将門も関東に内乱をおこしたが、平貞盛と藤原秀郷らにより八年にして敗れたことをあげます。そして、第六天の魔王が釈尊と知行の国土を争ったように、日蓮聖人も同じように、この国土で第六天の魔王と戦っているとのべます。日蓮聖人は二十余年のあいだこれに屈することなく破折してきたとのべます。

第六天の魔王とは欲界の第六天にいる佗化自在天のことで、この魔王の眷属が魔民です。魔および魔民が法華経の行者を迫害するのですが、「十軍のいくさををこして」という十軍とは、欲・憂愁・飢渇・渇愛・睡眠・怖畏・疑・含毒・利養・自矜軽慢(じきょうきょうまん)をいい、『雑宝蔵経』に仏が魔に向かって汝の十軍と言ってこれを降伏させています。十軍とは私達の身心を攻撃するもので、日蓮聖人は三類の強敵を魔民とし、この魔軍に負けずに弘教してきたとのべます。龍樹が『大論』に「除諸法実相余残一切法盡名為魔」と釈したように、日蓮聖人からみた諸法実相とは法華経のことですので、法華経いがいの他経は破邪顕正しなければなりません。つまり、法華経を誹謗する他宗の者は魔の所業であるとして、これに立ち向かう自己の信念をのべたのです。しかし、弟子や檀那のなかには臆病な者がいて、ほとんどが法華信仰を捨て、今も退転する者が目に見えていると、教団の状況をのべ、そういう迫害の危険のなかで、 

「尼ごぜんの一文不通の小心に、いままでしりぞかせ給ぬ事、申ばかりなし。其上、自身のつかうべきところに下人を一人つけられて候事、定釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御知見あるか」(七五二頁) 

と、辨殿尼はそれほど法華経の教えを理解しているとはいえないのに、これほどまで激しい迫害にあっても強い信心を通していることを褒めます。しかも、自身にとっても大事な下人を、日蓮聖人のもとに遣わしてくれたことに感謝し、この善行は三仏も知見し称讃しているとのべます。追伸として日昭上人に、四条金吾氏に預けてある天台大師の像をとりよせ、天台大師講を続けるように指示をされています。また、松葉ヶ谷の草庵に所蔵していた経典などの書物は、四条金吾のところに保存しているので、散逸しないようにとのべています。草案は捕縛ののちに撤去されるので、大切な経典類の保存先を、内々に指示されていたことがわかります。また、「涅槃経の後分二巻」・「文句の五巻の本末」・「授決集抄の上巻」などにふれています。

「しげければとどむ。弁殿に申。大師講ををこなうべし。大師と(取)てまいらせて候。三郎左衛門尉殿に候文のなかに涅槃経後分二巻・文句五本末・授決集抄の上巻等、御随身あるべし。」(七五二頁)

随身とは身に着けること、携帯することですので、一般には日昭上人がこれらの書籍を随身して、座右に置き学ぶことと解釈できます(『日蓮聖人遺文全集講義』第一二巻二四一頁)。あるいは、日蓮聖人は引き続き弟子を鎌倉と佐渡に往復させて、幕府の動向や教団の状況を把握し、教学の上でも更に深めて指導をしていましたので、佐渡の日蓮聖人のもとに、『涅槃経』や『法華文句』・『授決集』などの書籍を運ぶように指示をされたともうかがえます(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九九六頁)。 

□『大果報御書』(一三〇)

 九月ころ(文永一一年七月以降ともいいます)の遺文といわれ、『延山録外』に収められています。前半が欠失し署名も宛名も不明ですが、富木氏・波木井氏・南条氏などのような有資産の信者といわれます。また、本書の文面から蒙古の情勢を関知できた幕府の人物と思われます。

途中からの文面ですが、七月の末から八月の始めに所領を変更され、一万束ほどの稲を奪われて山野にさ迷う身分になったとあり、この原因は法華信仰による迫害の一端で、所領を没収されたことを指していると思われます。この信者は日蓮聖人の信仰をまもり、主君に日蓮聖人を失うことは国の損失であるとのべたことに、主君から所領を奪われたことを理不尽なことだと、日蓮聖人の元に来て所領没収についてのいきさつをのべています。

「日蓮房をば、うし(失)つるゆえ(故)かと、ののしり(罵)候上、御かへ(帰)りの後」(七五三頁)

 また、この信者が帰ってから「いしはい」(石灰虫)という、いなごのような害虫が大量に発生して、佐渡の田畑や島民の三分ほどが被害をうけ、生活に多大な飢渇があったことがわかります。日蓮聖人のもとに保存していた食料もなくなり困っていたところへ、この信者から重ねて供養があったことを感謝されています。

「御かへりの後、七月十五日より已下いしはい(石灰)と申虫ふりて、国大体三分之うへ(飢)そんじ候ぬ。をほかた人のいくべしともみへず候。これまで候をもいたたせ給上、なに事もとをもひ候へども、かさねての御心ざしはう(法)にもすぎ候か。なによりもおぼつかなく候つる事は、とののかみの御気色いかんがとをぼつかなく候つるに、なに事もなき事申ばかりなし」(七五三頁) 

 そして、日蓮聖人はこの信者と主君との関係を心配されていましたが、その後はなにごともないことを安堵されています。この信者から供養と重ねて蒙古の情報が寄せられています。蒙古の情報を関知できた、幕府内の人物と思われます。この情報は蒙古が高麗と西国に攻め、しだいに日本に攻める準備をしている文永一一年ともいいます(『日蓮聖人遺文全集講義』第二七巻六一頁)。しかし、蒙古の情報は趙良弼が一年滞在していたが、返牒されずに遂に帰還したことともいえます。佐渡に発生した石灰虫による農作物の被害により、飢饉飢餓のため餓死の恐れがあったことから、本書は文永一〇年とみるほうが適合していると思われます。日蓮聖人は蒙古襲来について釈尊と法華経を捨失した失により、日本国の果報があるといっても三年は過ぎないと思っていたとおり、文永八年の法難を起点ととしますと、二年少々で蒙古は戦乱がつづき、日本は飢渇がつづくという状態になったとのべます。たとえ、日本が亡国になろうとも法華経が広まることは疑いがないとのべています。日本は法華経が広まるという国土観がうかがえます。

 本書の結びには、この信者の母堂の身体健全のために、読経して祈願しているとのべています。この人物から母堂の祈願を依頼されていたことがわかります。また、書状の返書を持ち帰る使者が急いでいるので、詳細を書くことができないと結んでいます。鎌倉から佐渡を往復する使者の難儀なことがうかがえます。

四条金吾も信仰をつらぬき九月の断簡があります。一〇月に幕府は諸国の守護に大田文の調進を命じ、荘園や公領の土地の台帳を提出するように発令しています。これは、蒙古防衛の費用の調達でした。九州の御家人の防衛費負担をやわらげることと、社寺領や国衙領などにも公平に費用を負担させて、国難に対する危機意識を高上させることでもありました。このような情報が日蓮聖人に伝えられていたのです。一〇月に京都で火災があり、六条殿・長講堂などが焼失し、内裏も焼けます。

□『土木殿御返事』(一三一)

年号はありませんが一一月三日付けといわれる、末尾一紙一三行の断簡です。白小袖を供養された返礼の書状です。前文が欠けていますが、「器量者」と褒めているのは日頂上人のことと思います。翌、文永一一年の正月に大進阿闍梨といっしょに越中に派遣するとのべています(『日蓮聖人全集』第六巻二八五頁)。これは布教のためか法論のためと思われますが、富木氏にこのことを伝えたのは、富木尼に安心するようにとの配慮と思われます。日蓮聖人のもとに大進阿闍梨も給仕していたことがわかります。

大進阿闍梨や伊予房に、佐渡いがいの越中の教化を通達しています。日蓮聖人は佐渡にいながらも、弟子や信徒を教化され、布教に力をそそいでいたことは前述しました。その方法は主に弟子を各地の信徒のもとに派遣することで、弟子は自身の出身地や有縁の信徒を中心に教化されていました。佐渡と鎌倉・房総をはじめ、諸国の有縁の地への布教の拡張をしていたことがうかがえます。その数は少なくても七〜八人はおり(『呵責謗法滅罪鈔』七九〇頁)、このなかに、最初から日蓮聖人に付き添った、日興上人・日向上人・日持上人がいました。

また、佐渡の学乗房のように地元の親族を中心に佐渡にも信徒がふえていきます。鎌倉や房総などの弟子は日昭上人や富木氏を中心として教義の伝授をされます。弟子は地元を往復して信徒の教化をされていましたので、教団の結束は強くなっていきました。日蓮聖人の身には常に危険がありましたので、弟子たちは交代で給仕し教学を伝授されていました。教域が広がることにより弟子たちによる書状を携えての伝道は、当番的な形態をつくっていたといえます。

 つづいて、前述の「石灰虫」についてのべています。今年は日本中が飢渇であり、佐渡では七月七日より石灰虫と雨が降り、稲殻がいっときに損失したと告げています。さきの『大果報御書』(七五三頁)には七月一五日とありますが、事後に佐渡島内にはじめて石灰虫が発生したのは七月七日と公表されたのでしょう。さらに、疫病が処々に発生しているので、死難を逃れがたい状況をのべています。日蓮聖人が生命の危険を感じていたのは、こういう飢饉・害虫被害・疫病も加わり、紙上にのべても尽きない難題があったのです。

 □『乙御前母御書』(一三二 

 一一月三日付けにて日妙聖人という女性信徒に宛てた書状です。真蹟の三紙は明治三五年に尼崎の長遠寺にて発見され、同寺に所蔵されています。筆跡と花押から『対照録』も文永一〇年とします。

日妙聖人は文永九年五月二五日付け『日妙聖人御書』(六四一頁)にみられるように、夫と離別し幼少の乙御前を伴い、佐渡に日蓮聖人を尋ねていた篤信の女性です。端書きに、日妙聖人は法華経の信心が染みわたっているので、必ず仏となる女人であることを、たびたび伝えていたとあります。強い信仰の持ち主であったことがわかります。鎌倉に帰ってからは献身的に弟子達の給仕をしており、そのことにふれ感謝の言葉をのべています。日蓮聖人が流罪にあったのは、日妙聖人の信仰の深さを顕すためであったと思われるほど、はるばる佐渡に尋ねてきた志は有難かったとのべています。

目連尊者は前世に千里の道を通って、仏法を聴聞したことにより神通第一となったこと、章安大師も万里を隔てた天台大師を尋ねて講義を聞きます。そして、その記録を天台の『三大部』としてまとめたこと、伝教大師も日本から三千里はなれた中国に『摩訶止観』を修学し、玄奘三蔵も二十万里の長旅をへて『般若経』六百巻を中国に伝えることができた、との求法の故事をあげ、道が遠く多難を克服することによって強い信仰心が顕れるとのべます。そして、これらは男性であり権化の人であるからできたことであるが、日妙聖人は在家の女人であり、あなたの権化の実体、すなわち、遣化された本体を知ることはできないが、(日蓮聖人全集』第七巻二一九頁。権実などの教学を深く知るわけでもない、という解釈もあります。『日蓮聖人遺文全集講義』第二七巻二〇一頁))、この厚い信仰は過去に法華経の功徳を積んだ、宿善によるものだろうとのべています。好いた夫のために千里の道を尋ね、あるいは、石や木となったり鳥となったり、蛇となった女性がいたという過去の物語をあげ、日妙聖人が世俗の人情にとらわれたのではなく、法華経のために一命をかけて佐渡にきたことを殊勝に思われているのです。

追伸に、乙御前がどのように成長したかを思われ、母と同じく法華経に一心に奉公しているなら、乙御前の一生も幸せになるであろうと伝えています。乙御前については二年後の建治元年八月に

「乙御前こそ、おとなし(成長)くなりて候らめ。いかにさかし(敏)く候らん」(一一〇二頁)

と、成長されたであろうと言葉をかけています。身延へ入られてからは遠方になったためか、真蹟が伝わらないため、その後の消息はわからないといいます。

□『直垂御書』(一三三)

 新加の断片で署名がなく年月や宛先は不明ですが、筆跡からこのころの遺文とされています。建治二年の説もあります。(『日蓮聖人全集』第六巻二五八頁)真蹟は端書き四行、本文一一行の一紙を京都本満寺に所蔵されています。端書きに本書の内容を他人に聞かせないようにとのべています。もし人々に志があるなら、この三人の童子に直垂と布小袖などを支度させるように、と依頼したものです。事かけているなら帷子のようなものでもよいとのべています。直垂とは武家の服装の一種で幕府出仕の公服となっており、布小袖は麻で織った袖口を狭くした長着のことで、肌着として用いて直垂の下に着用していました。本書に三人の童子に着せる直垂とは武家の服装を意味するのか、日常の衣類のことをいうのかはわかりませんが、中世後期には礼装として武家に用いられた上下一対の衣服のことです。大進阿闍梨に言い合わせて、直垂のよいものに裏地をつけない一重の衣服である帷子と、布小袖を三人で計り合わせて仕立てるようにとのべています。全文をあげますと、 

「この御ふみ人にきかせ給べからず候。もし人々志さしなんどあるならば、この三人のわらは(童)がひたゝれ(直垂)・ぬのこそで(布小袖)なんどのしたくせさせ給べし。事かけて候わば、かたびらていのものなり。大進の阿闍梨等にいゐあわせて、ひたゝれよきものにはかたびら・ぬのこそで、三人して計あわせ給」(七五六頁) 

 この三人の童子については不明です。文永一〇年の書状としますと、鎌倉にいて迫害にあった武家の信徒の子弟なのか、日蓮聖人は皆で支度をしてあげるようにと依頼しています。それを鎌倉の町並みに詳しい大進阿闍梨に頼むように指示されています。これを佐渡にいる三人の童子のために送ってほしい、ということとも思えます。建治二年の書状ですと、身延へ送るようにとの依頼になります。断片なのではっきりしませんが、このことは内密にするようにと念をおされていることなど、日蓮聖人のこまやかな信徒たちへの配慮をうかがえます。

日蓮聖人も直垂などの衣類の供養をうけており、身延山中の生活においては貴重なものであったといいます。弘安三年に池上宗仲より小袖一着、直垂と直垂の袴の腰(こし)三着が贈られてきました。小袖の料金は七貫文、直垂と直垂の袴の腰は一〇貫文、あわせて一七貫文にあたるとのべ、高価な衣服であったことがわかります。

「小袖一・直垂三具・同腰三具等云云。小袖七貫、直垂並腰十貫、已上十七貫文に当れり」(一八五〇頁)