130.下総の弘教と信徒(富木・曽谷・太田氏など)    高橋俊隆

第二節 下総の弘教

○下総に避難

 松葉ヶ谷の庵室を夜討ちした騒動は『貞永式目』に反する事件でした。しかし、念仏門徒に対しての取り調べや罪科もありませんでした。いわゆる、『下山御消息』にのべた、 

「心を合わせたる事なれば、寄せたる者も科なくて、大事の政道を破る」(一三三〇頁)

ことであったのです。日蓮聖人は山王堂に身を置き、事態の推移をみます。日昭上人からきた知らせは、いまだに日蓮聖人を殺害する不穏な情勢であったのです。鎌倉にいるには危険な状況で、騒動が落ち着くのと、体制を整える必要がありました。また、富木氏から届いた幕府のようすも良いものではなかったのでしょう。富木氏は千葉氏の被官(事務官僚)として幕府の要人と接触できたので(中尾尭著『日蓮宗の成立と展開』三八頁)、富木氏と相談し鎌倉から離れることを得策と判断します。

いよいよ山王堂を離れる準備が整います。日蓮聖人は猿畑山周辺の裏山伝いに切岸をわたり、おそらく、海路をとります。六浦の港か、米が浜かはわかりませんが、海浜の船着き場を経由しながら、下総の葛飾(田中智学著『大国聖日蓮上人』二四四頁)に舟で逃れたといいます。葛飾は西船橋あたりになります。ほかに、船着き場は、行徳・葛西・船橋近辺(「二子ノ浦」)・古戸・長嶋(葛西)・品川など、江戸川の河口から入るルートがありました。江戸湾の各拠点は船で結ばれていました。(湯浅治久著「東国の日蓮宗」『中世の風景を読む2』一八一頁)。六浦の港は近畿地方の港まで航路として発展していました。港は遠く日宋貿易から得られる情報の場所でした。

中山法華経寺の言い伝えでは、西船橋・東中山に船着き場があり、若宮八幡神社のあたりまでが浜地であったといいます。祖師堂の向きが、その船着き場の正面になります。正面の土地の鏡池(浄鏡寺)がその面影といいます。後世になり黒門を通り山門に入り、田中屋、五重の塔の前を通って参拝したといいます。刹堂の横にある八大竜王池もかなり大きな池で、本行院へ続き広範であったといいます。また、山内から富木氏の若宮付近に城跡の石垣が残っているといいます。

伝承では、八月に下総の富木氏のところに身を置いたといいます。このとき、随行したのは日朗・日興上人といいます。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』二五七頁)。日蓮聖人をむかいいれた富木氏は、若宮の住居に法華堂を建て、そこで「百日百座の説法」がおこなわれたといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。この法座は翌、弘長元年の春ころまで行われたといいます。(『日蓮宗の本山めぐり』)。のちに現在の法華堂が造られ、中山法華経寺に移されています。毎月二十日に富木日常上人の謝恩のため読経が行われています。このとき、「一尊四師」の尊像と、鬼子母尊神を彫刻(開眼)されて奉安したと伝えます。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』上巻二四九頁)。中山法華経寺が「初転法輪の道場」というのはこの経緯によります。後年、本阿弥光悦は中山法華経寺の総門に、「如来滅後閻浮提内本化菩薩初転法輪法華道場」と染筆して掲げています。かつて、本院から鬼子母神堂に入る回廊に光悦筆「通本」の篇額が掲げてありました。

ここに滞在して説法をされたときに、太田乗明・曽谷教信・秋元太郎、また、矢木式部大夫などが入信したといいます。また、念仏宗の鐘阿弥が日蓮聖人に帰依し、首題房日唱と改め、伏鐘(ふせがね)のかわりに何をたたいて調声すべきかを尋ねたところ、法華経の折伏逆化には太鼓を用いるのがふさわしいと日蓮聖人がのべたことから、今日にいたる唱題太鼓が始められたといいます。(『本化高祖年譜』。山川智応著『日蓮聖人伝十講』上巻二四九頁)。その子供も弟子となり日恵と名のり、家を寺として今島山唱行寺としたといいます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』一七七頁)。

日蓮聖人は、この富木氏のところを中心として、下総の処々の縁をたよって弘教されたと思います。しかし、大半は富木氏の邸宅を行学の道場とされ、とくに、大田氏と大野の曽谷氏を中心とした一族に、徹底した信仰と教学を教えたと思います。正味、六ケ月の期間です。日中はそれぞれ仕事に従事し、講義は夜分に行われたとして、曽谷氏の住まいから徒歩でくるには時間がかかります。『観心本尊抄』に三~四人とのべたのは、このときの講義の状況をのべたのかもしれません。若宮から曽谷氏の曽谷まで直線で約三.五㎞、平賀は一二㎞、若宮から大田氏の中山までは六百㍍です。

富木氏と大田氏の住まいは近いので、曽谷氏のところにも滞在して教化をされるのが理想です。下総における三大檀越が集合されたのです。曽谷・大田・富木氏は日蓮聖人の一族になるとしますと、固い結束と、日蓮聖人の剛毅な言葉使いをされている訳が理解できます。この「百日百座の説法」が意味することは、徹底した法華経の講義と、日蓮聖人の信条をのべ、それに感応しあった師弟の絆が確立された、特異な時空を表現していると思います。それは、翌年、鎌倉に帰られる五月までつづきます。日蓮聖人はこのときに下総の教団を盤石にされたのです。

それでは、このときに聞法した、富木氏・曽谷氏・大田氏・金原氏・秋元氏、そして、曽谷教信氏の血族である大進阿闍梨・三位公日行・身延日進上人について調べてみます。

 

○富木常忍・日頂上人

 

富木氏については前にもふれたように、千葉頼胤とその子宗胤と胤宗につかえた被官でした。「富木五郎入道」「ときの五郎四郎」といわれ、父といわれる富城中太入道が、法名を蓮忍ということから、常忍という名前は法名といわれています。

宮崎英修先生は「富木胤継」の名はあやまりといい、智寂院日省上人の『本化別頭高祖伝』(一七二〇年)にはじめて記されたとのべています。そして、日祐上人を外護した千葉胤継が転化したと推測します。(『日蓮教団全史』三三頁)。中尾堯先生は富木氏はかつて然阿良忠系の念仏信仰を持っていたと指摘しています。また、日蓮聖人と富木常忍の師檀関係がいつから、どのようにして始まったかは分からないが、出会いの場所が鎌倉であったことは間違いないであろう、といいます。(『日蓮宗事典』)。富木氏の母親は日蓮聖人の家族を援助したということからしますと、常忍が日蓮聖人と直接、会ったことはなかったことになります。常忍よりも曽谷教信のほうが日蓮聖人に近かったことになります。しかし、日蓮聖人が下総で頼ったのは常忍でしたので、旧知の仲であったように思えます。

富木日常上人について、真偽は別として言い伝え(『本化別頭仏祖統紀』)を参考として紹介します。正安元(一二九九)年に八〇歳にて死去とあることから、承久二年に日蓮聖人より二歳年長として生まれています。因州富城郷が祖先の領地といいます。説話として、富木氏と日蓮聖人の出会いを、建長六年の夏、鎌倉の海路とされました。これを「船中問答」といいます。富木氏は仕事があり鎌倉に向かうため、葛飾の浦(船橋)・双子(西船橋)にある船着場にいきます。乗船しようとしたとき、船着場に日蓮聖人が房州から乗ってきた船がありました。このとき、日蓮聖人と出会い、法華経を最第一として他宗を攻撃する狂僧がいることを知っているか、ということから、しだいに法華経に改宗するようすを描いた説話です。注目されるのは、舟を利用して中山と鎌倉、中山と清澄寺方面を行き来していたことです。つまり、日蓮聖人がしきりに富木氏の自邸を訪ねたのは、中山が交通の要所であり、富木氏邸は連絡の中継地となっていたと思われることです。

また、富木氏の母は太田乗明の姉という説があったらしく、これについては未知であると記しています。また、富木氏の妻の父は藻原の邑主藤原兼網という説があります。富木氏はいちど妻を亡くしており、再嫁してきたのが遺文にみられる富木尼御前です。また、妻の名前を妙常日妙としています。さて、妙常日妙とあるように、一説に日妙聖人が富木尼としています。富木尼は富士郡重須城主の橘樹氏、伊予の守定時の妻でした。定時は戦乱のため死去し鎌倉に身をかくしていました。二男一女があり、長男は日頂上人(建長四年生まれ)、つぎに寂仙房日澄上人、そして、乙御前が娘になります。縁があり富木氏に再嫁しました。

このとき日頂上人が八歳のため、富木尼は躊躇したようですが、富木氏の勧めにより、真間法印了性のもとにて出家させたとあります。日頂上人はこのとき伊予房と名のります。正嘉二(一二五八)年ころに再嫁したと思われます。このとき日蓮聖人は三七歳で岩本の実相寺に入蔵され、『一代聖教大意』を著述し、小湊に帰郷されていたといわれるころです。小湊に帰省はされていないと思いますが、鎌倉にはおられたと思います。富木氏に再嫁を勧めたのが日蓮聖人としますと、富木尼・富木氏に与えた書状に、富木尼と日頂上人を心配された内容が多いことの理由がわかります。

また、富木尼は若宮にいながらも鎌倉にも住んでいたといいます。再嫁するまえに鎌倉いたときの住居が、そのままあったと思われます。もし、日妙聖人が富木尼としたばあい、このおり、佐渡に日蓮聖人を見舞ったことになります。佐渡に同行した弟子の日頂上人が、我が子ならば首肯できることです。文永九年四月ころに鎌倉をたち、五月中旬ころに帰路についたといいます。日蓮聖人から日妙聖人と名をいただいています。(『日妙聖人御書』六四四頁、『乙御前母御書』七五四頁)。

のちに、次男の寂仙房日澄上人(一二六一~一三一〇)は、重須の父の旧土地を得て、戦死した父の菩提を弔うため重須に行きます。はじめは日向上人の弟子として身延にいましたが、学解の違いから富士の日興上人に師事します。重須に移ってからは武家たちに、多年にわたって謗法対治の訴状を捧げたといいます。このころ、日興上人は重須本門寺を中心に布教活動をし、ここに談所を開いて門下を育成していました。談所というのは、僧侶や信徒の学問教養をみがくために造られた学林や檀林のことをいいます。この談所をのちに重須談所といい、日澄上人は最初の学頭となり、兵部阿闍梨と名のります。

日妙聖人の娘の乙御前も、比丘尼となり妙国と名のります。乙御前については、『日蓮辞典』(二九頁)に、若くして尼になったとする説もあるが、尼崎長遠寺所蔵の真蹟『乙御前母御書』によって、その説が誤りであることが判明したとあります。また、日妙聖人については、生没年未詳、後世、富木常忍の妻妙常と同一人とされたが、別人であろうといいます。(『日蓮宗事典』)。しかし、母の富木尼を重須に呼びます。この時期は日蓮聖人が入寂した後、富木氏が没した正安元(一三二九)年三月二〇日いこうと思われますが、富木氏は香取郡多古町に隠棲(正東山日本寺)しています。このとき、富木尼は子供たちのもとに赴いたと思われます。「富木尼・妙常日妙」と乙御前が重須にいたことは事実です。(『日蓮教団全史』八二頁)。富木妙常尼は正安三(一三〇一)年二月二九日没します。遺骨は若宮ではなく重須(富士宮市北山)の玉樹山正林寺に埋葬されました。

 富木氏が死去する年に、富木尼の連れ子である日頂上人を義絶(真間山血脈・『新日蓮宗年表』四七頁)しています。富木氏は建治二年の夏に、身延山に登詣します。法名を常修院(じょうしゅいん)日常と授かり常忍と号します。日蓮聖人の寂後にはじめて袈裟を着し、中山法華経寺の第二世をつぎます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』一七九頁)。富木氏が晩年、隠棲した地に、のちに、日祐上人は正東山日本寺を創建します。開基檀越は境内地を寄進した千葉胤貞です。富木氏が若宮に建てた「初転法輪」の法華寺(正中山妙法華経寺)は、日高上人に相続されます。このとき、日高上人は中山にある父親大田乗明の自邸を住房とします。日祐上人のときに本妙寺と称し、ここに住持するようになります

○曽谷教信

 日蓮聖人は千葉県に生まれましたので、日蓮聖人の弟子や信徒も千葉県の方が多くみられます。曽谷教信は下総(市川市)に住む富木氏・大田氏と並ぶ篤信の信徒で、『観心本尊抄副状』に

「観心の法門少々之を注し太田殿、教信御房等に奉る」(原漢文。七二一頁)

と、のべているように、識字能力があり学識が高かったことがわかります。また、『曽谷入道殿許御書』(曽谷氏と大田氏に宛てた、上巻二六紙、下巻一九紙。八九五頁)は、全体が漢文で書かれており、「五義」について説かれたもので、とくに、末法の法華経を弘通する「師」について詳説した大事な遺文を受けています。

高木豊先生は日蓮聖人が純漢文体の書状を与えているのは、教信のほかに檀越中では、富木・大田・大学・波木井・池上・妙一尼の七名のみであるとして、この信徒達は難解な文体、法門、種々の引用文を容易に読みこなし得たと指摘しています。(『日蓮とその門弟』)。曽谷教信(曽谷二郎兵衛教信)は、文応元年ころの入信とされ、下総八幡庄蘇谷郷に住んでいた武士で、『曽谷入道殿許御書』にあるように、大田氏とともに越中に所領をもっています。御家人であったか家人であったかは不明といいますが、本領を曽谷郷にもつ在地領主といいます。(中尾尭著『日蓮聖宗の成立と展開』四一頁)。

この曽谷教信(一二二四~九一年)については、不明なことがあるといわれていますが、『玉沢手鑑』などには、日蓮聖人と親戚であったと書かれています。また、幼少時からの資金を援助した人物という説もありますが、日蓮聖人より二歳、年少になるので、曽谷教信の親が日蓮聖人の家族を援助していたと思われます。また、日蓮聖人は経典などの蒐集を依頼しており、費用や手数がかかることなのですが、血族であったなら了承できることです。日蓮聖人は教信御房・法蓮上人と呼び、法蓮日礼の法号を授けられています。のちに、曽谷郷(市川市曽谷)に法蓮寺を建立しています。(ただし、教信御房と法蓮上人は同じ人ではないという説があります。『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六六二頁)。『日蓮宗事典』にあるように、家系については種々の説があります。

一.   大野政清の三男ともいう。政清は日蓮聖人の母の兄弟という説に従いますと、日蓮聖人と従兄弟になります。(『玉沢手鏡』・『御書略註』

二.   一説には畠山重忠の子孫で千葉、千田と氏姓を改め、曽谷郷に住するにより改姓した曽谷道頂の長子であるともいう。(『本化別頭仏祖統紀』)

三.   また一説に平氏である道野辺右京の孫ともある。

 

  (『玉沢手鑑』)

大野政清―――曽谷教信――――――――――――日向上人(書き誤り)

―金原法橋浄蓮房        ―丹波公日心(日眞・身延 大進院日進)

―大進阿闍梨(建治元年没)   ―少納言日源

―三位房日行(弘安二年没)

  『御書略註』を参考にしますと、概ねつぎのようになります。

 

(『御書略註』

                       姉 富木氏の先妻(『別統』)

  三善善信(康信)――大田民部少輔康連―――大田乗明    ―帥阿闍梨日高上人(中山本妙寺)

                        |―――――――三郎明持

―子供――――――――――――於経

  道野辺右京――娘            ―曽谷教信法蓮日礼――日進上人(身延久遠寺)

          |―――――大野政清―――金原法橋浄蓮房  ―山城入道道崇(直秀)

  清原清定―――大野吉清         ―大進阿闍梨    ―日源上人

  (大進家)        ―梅千代   ―三位房日行

                 |―――――日蓮聖人

          貫名家―――貫名重忠

              ―男金実信(民部実信のこと。父親は誤り)

                 |―(実長が父)――男金弥四郎

                光日房妙向     ―日向上人(身延久遠寺・藻原寺)

                        (猶父 小林治部藤原道直)

 

 ※三善善信(問注所執事)は大江広元(政所別当)とともに源頼朝を補佐した人。曽谷教信は大野次郎兵衛尉

清原教信といいます。

 『玉沢手鑑』には、曽谷教信と大進阿闍梨と三位公日行は兄弟であると書かれ、曽谷教信の子息が丹波公日心上人とあります。この日心上人は文永八年の法難のときに、日朗上人とともに土牢に逮捕された一人で、建治のころ退転しかけたのを日蓮聖人に諭されたのが、『出家功徳鈔』であると記されています。のちに、日真と名前を代え、身延に入って大進阿闍梨日進と名のったとあります。

つぎに、『本化別頭仏祖統紀』を基に曽谷教信のルーツをたどると、つぎのことが記されています。まず、先祖は畠山重忠で、頼朝より下総一国を授与されたこと。この畠山重忠の子供に、長男千葉小太郎勝胤と次男に小次郎重胤がいること。次男の重胤は千田に住み、入道して千田丹心といったこと。丹心の九代の子孫が曽谷邑に住み曽谷氏となり、これが曽谷次郎教信であると記しています。

畠山重忠―――長男勝胤

       ――次男重胤(千田丹心)・・・・・九代が曽谷教信

 そして、富木氏・大田・秋元氏とは通家(つうけ)であるとあります。この通家とは昔から親しく交わってきた家、姻戚関係にある家をさします。また、教信は大田氏とともに、越中に所領を有する幕府の役人であり、大田氏もまた曽谷に大田屋敷と称される飛地をもっていたといいます。日蓮聖人は『転重軽受法門』に、大田、曽谷、金原氏は異体同心の兄弟のように親しい関係であるとみています。とくに、本書は竜口法難のあと、佐渡に流罪されるまで滞在していた依知から発信されたものです。

「周利槃特と申は兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申なり。各々三人は又かくのごとし。一人来せ給へば三人と存候なり。(中略)大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房   御返事」(五〇七頁)

曽谷氏は文応元年に富木氏が自邸に法華堂をつくり、日蓮聖人を招いて百日説法をしたとき、この教えを聞いて旧宗を捨てて帰信したといいます。このとき、秋元氏も入信したといいます。また、医者といわれる遠州の金原法橋も参列して入信したといいます。

蓮華比丘――長男 曽谷直秀(山城入道典宗・道崇)―典久―――筑前房日合(野呂妙興寺)

   |――――娘  芝崎 千葉胤貞の妻(子供が日祐上人) ――平賀六代日福

  教信       (妙林日貞比丘尼)礼林寺

       ―二男 日蓮聖人の弟子となる(名前は無記)

 曽谷氏の長男を曽谷四郎左衛門直秀といいます。入道して典宗、のちに道崇と名のります。父親の教信は平賀に住んでいますが、道崇は石井左近と縁があるために野呂に住み、建治元(一二七五)年一二月一日、自邸に一宇を建てます。そして、工藤吉隆の弟である日合を迎えて妙興寺としています。現在の妙興寺は永禄一二年に里見兵乱により、加納ガ丘より移転しています。また、慈眼寺(野呂不動尊)は持仏堂のあった所といいます。

弘安二(一二七九)年八月一七日の『曽谷殿御返事』によりますと、道崇の布施により身延に住む百余人の弟子らの賄いができたと感謝しています。

 

「抑貴辺の去三月の御仏事に鵞目其数有しかば、今年一百よ人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい(閻浮提)第一の仏事にてこそ候へ。いくそばくか過去の聖霊もうれしくをぼすらん。釈尊は孝養の人を世尊となづれ給へり。貴辺あに世尊にあらずや。故大進阿闍梨の事なげかしく候へども、此又法華経流布出来すべきいんえん(因縁)に候らん、とをぼしめすべし。事々命ながらへば其時申べし」(一六六四頁)

 

 道崇が日蓮聖人を支えていたことがわかります。また、大進阿闍梨と三位房は伯父にあたるので、三位房に関しては退転問題があり複雑な心境であったと思われますが、日蓮聖人が親族に救済の手をさしのべていたことがうかがえます。大進阿闍梨と大進房の同一・両人説については後述します。

曽谷氏の娘は芝崎といい、妙林日貞比丘尼と名のります。佐倉城主の千葉氏大隈胤貞に嫁ぎますが、胤貞は建武の乱において戦死し、その後、平賀の日伝上人について得度しました。この子供が中山法華経寺の第三世日祐上人です。佐倉城主・千田庄の領主(多古町の南)、千葉胤貞の猶子となっています。日祐上人は千葉氏の出身であったことから、胤貞の猶子となったといいます。(『日蓮教団全史』一六三頁)。中山法華経寺は日高上人・日祐上人と千葉氏に庇護されています。

また、宗胤の妻、明意と関係があるなどの説があります。その宗胤は幼名を亀若丸といい、胤宗は亀弥丸です。亀若は蒙古の襲撃にそなえ、九州防備につくことになります。そのとき日蓮聖人は建治二(一二七六)年八月一三日付けの曼荼羅本尊を授与されています。これを「亀若護三光瓔珞本尊」よよび、本満寺に所蔵されています。胤貞は第二世の日高上人の外護者として尽力します。また、日祐上人は正和三(一三一四)年、日高上人(四月二六日没。この年九月に日向上人も没しています)につづき、本妙寺と法花寺の両寺を兼務します。

日祐上人のときには、中山をはじめ西は秋山・曽谷、北は真木野。島田・平戸、東は遠く香取郡中村・原・牛尾などにおよぶ、下総国内の田地三十町歩を寄進しています。これにより、中山法華経寺の勢力は身延山と対等になったといいます。(『日蓮教団史概説』二二頁)。胤貞の所領は八幡庄・千田庄・神保萱田御厨(八千代・船橋市)などにありました。

―胤泰(肥前千葉氏)

       妻明意   妻曽谷妙林日貞    ―胤継(千田千葉氏)

  千葉頼胤――宗胤―――千田胤貞(曽谷胤貞)――日祐(猶子)中山法華経寺三世

(千葉介) (千葉新介)(大隅守)

―胤宗―――千葉貞胤――――――――氏胤

       妻金沢顕時の娘    (下総千葉氏・千葉介)

 しかし、蒙古防御のため肥前にうつった胤貞の弟、胤康は九州千葉氏として存続しますが、下総では胤貞流の千田氏と貞胤流千葉氏とは敵対関係にあったといい、胤貞流の千田氏は衰退して法華経寺も危機を迎えたといいます。このため、貞胤方の影響下にある千葉庄(千葉市)には、教線の展開がなかったといいます。(湯浅治久著「東国の日蓮宗」『中世の風景を読む2』所収一六四頁)。

これは、貞胤が千田庄の一円支配を目ざしたもので、建武年二(一三三五)年から三年にかけてはげしい戦いが行われますが、均衡したまま終着していきます。(中尾尭著「関東日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収四三六頁、『日蓮宗の成立と展開』一〇六頁)。このようなとき、日祐上人は胤貞の戦勝祈願のため、寺領の寄進をうけています。その後も胤貞の庇護をうけながら教団の結束を固め、さらに、京上して室町幕府との絆を深め、中山門流を確立していきます。その功績が実って、観応(一三五〇年)から応安(一三七五年)の年間に中山法華経寺は、「天下泰平御祈祷」の幕府祈祷所となり、独自の権力をえます。

胤貞の鎌倉の家は小町二丁目の辻説法の近くにあり、妙隆寺といわれ、日祐上人の本尊が伝えられています。さらに、佐倉城主千葉大隈貞胤は日祐上人に一万石の俸地を寄進しています。胤継も観応元(一三五〇)年七月に、中山法華経寺・弘法寺に寺領を寄進しています。しかし、胤貞流の千葉氏は、永徳年間(一三八一~八四年)に没落し、有力な庇護者を失います。その後、天文一四(一五四五)年、古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られたことにより、法花寺と本妙寺の両寺を合わせて、法華経寺という一つの寺院に発展していきます。

 

○大田乗明

  大田乗明は日蓮聖人と同じ貞応元(一二二二)年に誕生しています。富木氏と同じく千葉氏の被官だったのが大田乗明です。この主君である千葉頼胤の系統に、中山法華経寺第三世の日祐上人がいます。大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいいます。祖先について四つの説があります。

一.乘明の祖先は源三位頼政で、丹州(丹波)五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったという。『本化別頭仏祖統紀』。

二.太田氏の中宮太夫三善康信で、子の民部大夫康連が、備後国(広島県東部)太田荘にいたので、大田の姓を名のったとあります。康連は鎌倉問註所の執事を務め、乘明はその子であるとしています。乘明は父と同じく門註所に出仕し、左衛門尉になったとあります。また、所領は越中にあり、中山は役領といいます。

三.中山の所領は実朝公のとき、康連が拝領した中山四郎重政の旧領であり、そのとき、富木氏の母も拝領したとあります。『境妙庵目録』(『本化聖典大辞林』上。六五二頁)。また、妻の於経(恒)は道野辺右京の孫で、日蓮聖人と従兄妹といいます。(『高祖年譜攷異』・『門葉縁起』・『御書略註』)。

四.あるいは、常州(常陸)那河郡の大守とあります。(『高祖年譜攷異』)。

この四説のなかでは、『本化聖典大辞林』(六五五頁)には、二番目の『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うのを可としています。

また、大田氏は富木氏と同じように在地性はうすく、幼少の千葉頼胤(一二三九~七五年)を扶けるために移住してきた、越中に地頭職をもつ武士といいます。建長元年に閑院内裏造営にあたり、裏築地の押小路面二〇本のうち二本を、越中大田左衛門尉に課せられ、この造営にあたった、ほぼ二五〇名が北条氏をはじめとした各地の御家人で、千葉介も西対を担当していました。中尾尭先生は「太田保」と関係をもつのではないかとのべています。(『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。

大田氏は弘安元年に入道して、法名を妙日と改めています。弘安六年九月二六日に六二歳で逝去したといいます。先の『統紀』の説(七六歳)とは違うことになります。日蓮聖人と大田乗明との関係は、大田乗明の妻が日蓮聖人の従兄妹であることから、縁戚があったことがわかります。この関係から、大田乗明は曽谷教信とならんで、聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉った家柄であることが頷けます。このことから、日蓮聖人は大田夫妻を父母に準じて、乘明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたとしているのです。(『境妙庵目録』)。

 また、中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。ここに、三氏が日蓮聖人の家族を援助していたとする理由が、日蓮聖人の母親と縁戚であったことになります。日蓮聖人と富木常忍とは、血のつながりはありませんが、富木氏は無二の人といわれるほど信頼された人でした。しかし、経済的には裕福でなかったと書かれています。(「なれど貧者のゆえに意に任せざるなり」)。

大田乗明は『観心本尊抄』を直接あたえられた人物であり、学問にも精通し外護の信徒として布施を多く送っています。その妻も夫乘明とともに、早くから日蓮聖人に帰依し教化をうけています。日蓮聖人が鎌倉にいたときは、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれ、身延に入山してからも篤信の行いを続けています。文永一二(一二七五)年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)に、曽谷氏とともに越中に所領があったことがわかります。このころ大田乗明氏は越中にいたようです。

 

○金原法橋

 一説には、金原(かなはら)橋は、房総千葉氏の一で、下総国千田(ちだ)庄金原郷(匝瑳市金原)の在地領主であったといいます。金原郷には安久山堂という院があり、のちに、日蓮宗となります。(八日市場市の安久山円静寺です)。そのときの住職が金原氏惣領の覚です。当寺歴代日諭常諭・覚つづき(円静寺板本尊)、この日諭がちょうど日蓮聖人在世あたることから、金原橋と日諭とは同一人物といます。(中尾尭著『日蓮聖宗の成立と展開』四四頁)

      (三郎)(庄司)(金原庄司)(庄司)(次郎)(金原法橋)(金原左衛門尉)

千葉常長―常房―常益――金原常義――盛常―清胤――明円―――胤長

 (『房総叢書』)

僧治部      大夫僧都     民部阿闍梨

  明円―――――――常諭―――――――覚諭

安久山別当    安久山別     依為舎弟為養子也

金原左衛門尉

―胤長・・・・

金原法橋は曽谷氏と兄弟といいます(『妙恩寺史』)。信仰も熱心であったことが『転重軽受法門』にうかがうことができます。また、覚諭は常諭の弟ですが養子となって跡を継ぎます。そして、千葉胤貞の中山法華経寺への信仰と、千葉氏と血縁関係がある覚諭は、日祐上人の感化を受けて弟子となり、日蓮宗に改宗します。(中尾尭著「関東日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収四二九頁)。

日蓮聖人は竜口法難のあとに依知にうつされ、いよいよ佐渡に流罪がきまります。その一〇月三日に土籠の獄中の日朗上人に書状を送ったのが『五人土籠御書』であり、おなじ、十月五に送ったのが『転受法門』です。この宛に、大田曽谷氏とともに金原橋のが記されています。本書の冒頭に、

 

修利槃特は兄弟二人なり、一もありしかば、すりはんどくとすなり、各々三人かくのごとし、一人来せ給へば三人」(五〇七頁)

と、三人が一体であるとまで言われたほど、親密な関係にあったことがわかります。また、一説には、中山の百日百座の説法のおりに、日蓮聖人にであい入信したといいます。金原法橋左近将監はこのとき所用のため鎌倉にでており、平賀有国と旧友のため下総にきていたといいます。金原法橋は浜松市の妙恩寺の開基となっています。妙恩寺の『寺史』によると、金原法橋は大野政清の子であり、かって、下総国金原大宮の別頭職にあったが、鎌倉幕府に抜擢され遠州に移り、蒲の地を領主の遠藤氏より継ぐとあります。また、金原法橋法橋は宗祖直檀にして浄蓮と号して『浄蓮房御書』・『転重軽受法門』などを、大田氏、曾谷氏とともに賜った篤信家であったとあります。

妙恩寺は日像上人の開創になり、二世は妹の妙恩尼となっています。伝承によりますと、妙恩尼は兄の洛中弘通を慰問するときは法橋を尋ね、ここに逗留して邸内に庵室を建て法華道場としたといいます。日像上人は京都の弘教を満願し、これを師の日朗上人に報告し、その帰りに金原法橋に対面します。このとき道場において数日の間説法をされ、この教えを聞いて帰依するもの多くいたといいます。そして、日像上人の講跡を末代まで留めようとして館をあげて寺としたといいます。

○秋元太郎

名前は勝光といい、のちに太郎左衛門尉と名のります。鎌倉幕府の御家人です。下総国印旛郡白井荘(白井市)に住み、文応元(一二六〇)年に若宮の法華堂における百座説法のおりに、日蓮聖人の教えにふれ帰信したといわれます。正応四年九月一七日に没し法名を常法といいます

富木氏と姻戚関係であったとする説があり、曽谷氏、大田氏と親しい間柄であったといいます。また、たびたび曽谷氏と太田氏に会う機会があったことが、「委くは曽谷殿へ申し候。次での御時は御談合あるべき歟」(『秋元殿御返事』四〇六頁)、また、「法門の事は秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少々注して候。御覧有るべく候」(『慈覚大師事』定一七四一頁)と、のべていることからうかがえます。

秋元という氏については、『吾妻鏡』の暦仁二(一二三九)年の條と、建長二(一二五〇)年三月の条に、閑院殿(里内裏の代表的なものの一つ。高倉天皇はここで践祚した。建長元年に炎上)の造営にあたる『雑掌目録』のなかに、「秋元左衛門入道」という名が見えるといいます。

一説によりますと、粟田関白道兼の五世の孫に、宇都宮三郎左衛門尉朝綱という人があり、その孫に弥三郎頼綱という人がいて頼朝に仕えたといいます。この頼綱の子に泰綱(母は時政の娘)と泰業がいます。そして、この泰業が嘉禄年中(一二二五~二七年)に、上総の君津郡秋元荘をたまわり秋元の氏を名のりました。泰業の娘が妙正といい、宇都宮に妙正寺を建立します。

このことから、のちに、入道したのが『吾妻鏡』に見える秋元左衛門入道ではないか、そして、聖人直檀の秋元氏はこの入道泰業の子弟ではないかとします。さらに、この秋元太郎が親から白井の庄(白井市)を分け与えられたのではないかとします。しかし、文書類を焼失しているために確定は困難であるとあります。(『本化聖典大辞林』・『日蓮宗事典』)。後述しますが、秋元氏は宇都宮一族といわれます。

 また、鎌倉幕府の御家人である秋元太郎は、出自は上総国周准郡秋元郷発祥の藤原氏道兼流とし、『高野山文書』には「幕府奉行人秋元太郎左衛門尉」と記されているといいます。また、秋元氏は富木常忍と親戚関係の間柄であり、曽谷教信や大田乗明の両家とも、近隣でもあるため親交が深く、このような関係から日蓮聖人に帰心したとみられています。(『本化別頭仏祖統紀』)。

なお、秋元氏へあてた御消息は、文永三年一月に保田から宛てた『秋元殿御返事』(五節句)と、弘安三年一月の『秋元御書』(御筒器)の二通がありますが、真蹟は現存していません。秋元太郎はのちに邸内に法華堂を建立し、これが、寛元元(一三〇三)年に秋本(しゅうほん)寺となりました。 

○大進阿闍梨・三位公日行

  大進阿闍梨・三位公日行ともに、生没年は不明です。大進阿闍梨は曽谷教信氏の弟とみられ、「大進」の由来は皇后宮大進清原真人行清の末裔であるとします。(『本化聖典大辞林』二二九四頁)。大進(だいじょう)とは、皇后宮に関する事務をした役所のことで、律令制では中務(なかつかさ)省にあたり、明治の官制では宮内省に属します。

下総を見ますと、清原真人が一〇〇七年から掾(じょう)をまかされています。これは、国司の判官で守・権守・介・権介・掾・守護のなかに位置します。この家系にあたることを指すと思われます。大進阿闍梨は「文永八年の法難」のときなども、土牢に日朗上人などを見舞い、佐渡流罪中は日蓮聖人より教団の統率を依頼されています。下総との連絡を頻りにし、流罪赦免に尽力しています。『五人土篭御書』に、

 

「又大進阿闍梨はこれにさたすべき事かたがたあり。又をのをのの御身の上をもみはてさせんがれう(料)にとゞめをくなり。くはしくは申候はんずらん」(五〇六頁)

と、土牢に監禁されている日朗上人たちを心配して、鎌倉に大進阿闍梨を置いて言ったことがうかがえます。このように自由に行動ができ、天台宗の阿闍梨号をもつ身分であることがわかります。また、学問にも秀でており、日蓮聖人が佐渡において始めて説き示したという「随分の秘書」を、日朗上人と三位房と三人で、いち早く学んでおくようにと指示を受けています。(『弁殿御消息』六四九頁)。おなじように、波木井氏に「当為即妙不改本位」(七四九頁)の大体を教える弟子がいるので、この弟子を召して法門を聞くようにと指示され、その弟子に

筑後房・弁阿闍梨、そして、大進阿闍梨とのべていることからうかがえます。

 

「鎌倉、筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨申小僧等有之。召之可有御尊。可有御談義。大事法門等粗申。彼等日本未流布大法少々有之。随御学問可注申也」(七四五頁)

池上親子の問題にあたっても、懇切に指導しており(一一九〇頁)、日昭上人についで鎌倉の教団を支えていたことがわかります。しかし、弘安二年の夏ころ(八月一七日いぜん)に、長老のため病気にかかり急逝したようです。四条金吾の加療があっても因縁のための死去であるとのべています。(一六六四頁・一六六八頁)。遺言をのこして事後の対処をしています。(一八〇二頁)。

さて、弘安二年に落馬して死去したとされる大進房という人物がいます。この大進房の名前は弘安二年一〇月一日から一〇月一七日のあいだの、四通にのみ名前がでてくる人物です。この死因は、日蓮聖人に反逆して熱原法難に加担した罪であると、日蓮聖人はのべています。大進阿闍梨と大進房とは別な人物であるといいます。また、大進房は罪を後悔して、日蓮聖人に帰伏し行智の陰謀の証人となったとし、死亡していないという説があります。(『日蓮聖人大事典』七五一頁)。

 日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され、鎌倉に帰り比企ヶ谷の妙本寺を開堂します。この影響をうけて池上宗仲も自宅を本門寺として、両寺の山号を長興山としました。宗仲はほかに日昭上人のために大成弁院を建てます。しかし、日昭上人鎌倉の本拠地をはなれることはできないとして断り、かわりに大進阿闍梨を坊主としました。大進阿闍梨が鎌倉に房を構えた時期は不明です。大進阿闍梨は生前に房を日昭上人に譲られており、大進阿闍梨が死去のあと、この房がそのままになっていたのを、見苦しいので早々に処分するようにと宛てたのが、建治二年の『両人御書』です。房の建物は身延に移され、それが南ノ房と伝えています。(『本化別頭仏祖統紀』)。

この伝えによりますと、大進阿闍梨の房とは大成弁院のことになります。『玉沢手鑑』には、「本化別頭伝」の宗仲は誤りで宗長が建てたとあります。宗仲は兵衛志、宗長が太夫であると理由を記しています。日蓮聖人がこのような事情で、譲り状のある日昭上人に書状を出さず、日朗上人と池上宗長に書状を送ったということになります。この房は池上に引き取り、そのあと日昭上人に請うが、うけとらず、身延に移され今の南の房となったとあります。

 三位公日行は三位殿、三位阿闇梨と呼ばれています。比叡山に遊学し、そのおり公家の厚遇をうけたことを日蓮聖人に報告し自讃したため、日蓮聖人より名聞を求め欲をもったとして訓戒をうけます。言葉なまりまでが京風の影響をうけていたため、田舎言葉を使うようにとたしなめられています。しかし、その性格を正して本門法華経の法門を比叡山のなかに論談するようにと励ましています。(文永六年『法門可被申様之事』四四三頁。『御輿振御書』四三七頁)。このような言葉をかけた背後には同族意識があったことも見落とせません。

 文永七年に『十章抄』をあたえて、『摩訶止観』の「第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり」(四八九頁)と教え、三位房が『摩訶止観』の講義をしたあとには、一念三千の依文判義は本門にあり、在家には南無妙法蓮華経の題目を唱えることを伝えています。文永八年の竜口法難のときは、日蓮聖人につきそい共に首座についています。江戸時代の古い版画には、日蓮聖人と三位房が首座に就いており、のちに、日蓮聖人一人だけが首座に就く絵画がめだちます。

建治三(一二七七)年の春に、叡山から鎌倉に下り良観の庇護を得ていた竜象房と法論をし論破します。これを、桑ケ谷問答といい、三位公日行の学識の高さがわかります。また、日蓮聖人が身延に入り公場対決のうわさがでたときに(弘安元年ころ)、日蓮聖人は宗門の代表として三位公日行を推挙しています。このとき、法論のときの態度や用心など、問答の仕方をこまやかに指導したのが『教行証御書』(一四七九頁)です。

しかし、三位房は折伏という信念に弱い面があったといわれ『佐渡御書』(定六一〇頁)、たびたび訓戒をうけています。そして、熱原法難のときは大進房とともに退転し、その後、弘安二年ころ、熱原の法難が始まろうとするときに死去したといいます。(『聖人御難事』一六七五頁。『四菩薩造立鈔』一六五〇頁)。 

○日進上人

身延山三世、中老僧の一人の日進上人(一二七一~一三三四年)について、四つの説があります。

父は久本房日元  (『本化別頭仏祖統紀』)

下総曽谷教信の二男(『御書略註』・『日蓮宗事典』)

平氏浜名安倍氏  (『身延山史』)『日蓮教団全史』二一二頁

高橋氏の出身   (『身延山史』)    々

『本化別頭仏祖統紀』によりますと、嵯峨源氏の安倍貞任の系譜で、甲州巨摩郡の諏訪村で生まれた遺児が祖先とあります。日進上人は文永八(一二七一)年の生れで、僧名は三っつあり、はじめは日心、のち日真、さらに日進に改めたとあります。正式には三位公大進阿闍利日進といい、安部氏の出といわれ甲州の生まれとあります。父は松葉ヶ谷の草庵にて日蓮聖人の剃刀により出家し、久本房日元といい、釈尊が過去世に阿私仙人に仕えたという故事にならい、「八役給仕」の人といわれるほど信仰の強かった人です。長男の日進は、はじめの僧名を日心と名のったとあります。父は身延沢の竹之房を創始して建治三(一二七七)年に死去します。このあと日進上人が竹之房を継ぎ日向上人に師事したといいます。三人兄弟で父が死去したとき、弟の身延第四世の日善上人は七歳、つぎの竹之房を継いだ弟日上上人は五歳とあります。

日進上人が名前をかえたのは、富士柚野村に竹養山正法寺を創始したとき日眞とし、身延を継いだ五五歳のときに日進としたとあります。久遠寺の諸堂を整備し、建武元(一三三四)年に身延を弟の日善に付して、同年一二月八日七六歳で遷化しました。

ところで、「桑か谷問答」のとき、三位房日行と日進上人が混同されました。「初め鎌倉桑か谷に龍象房なるもの有り、法を説いて哺啜す、怪を修め幻を講じて衆人を欺誑す邪慧小弁一時野狐鳴くなり。師往てこれを詰めれば智剣弁鉾相逼りて閃閃たり。龍象房辟易して逃走す、師時に十九才」(『本化別頭仏祖統紀』原漢文)。この文があるので、日行と同一に考えられましたが、現在は日進ではないとされています。しかし、竜象房との「桑か谷問答」の主を日進とするものに、『元祖蓮公薩略伝』に「六月九日、三位公日真は龍象房と問答」があります。「桑か谷問答」のとき、三位房日行と四条金吾、それに若年の日進上人が側にいたことは考えられることです。『日蓮教団全史』(一九二頁)には、若年より京都に出て学問を研鑚し、日向上人に師事して上総・下総に教勢をのばしたとあります。

 『日蓮宗事典』(六六三頁)には、文永八年に下総東葛飾郡の曽谷次郎兵衛尉教信の二男に生まれる。日蓮聖人の門下に入り直接には日向上人に師事した。伯父の大進阿闍梨が死去し、その号であった大進公・大進院・三位公・大進阿闍梨をそのまま襲号した。身延二世の日向上人が下総茂原に退き、日進はその嘱をうけて身延三世に晋んだ。『身延山略譜』には「正和二年入山、在位十七或ハ十八年、支院竹之坊三世、駿州柚野(竹養山)正法寺開山」と見える。元徳元(一三二九)年三月八日、生国の下総に妙蓮寺を創して悲母の追善に資した。若年の頃より京都にあって宗義の研鑽に励み、身延入山後一二年寿五五歳にして上洛して聖教の書写をなし、或は上総と下総に遊化して教線の拡大に努めるなど、研学精進がうかがえる。日進は在位一七年、寿七六歳で示寂したというが、その寂年代については決め難いものがある。『本化別頭仏祖統紀』には「建武元年甲戊の冬別頭傳授の法門を法弟日善に完付す、十二月八日疾を示して化す寿七十六」とあり、身延西谷の墓碑には「元徳二年庚午寂」と刻銘されている。建武元年(一三三四)説と、元徳二年(一三三〇)説とでは五ヵ年の差違がみられる」と、記されています。また、文永八年に土牢に監獄された「てご房」とは「稚児の房」で幼少の日心(一三歳『本化別頭仏祖統紀』)のことという説があります。

 ここには、日進上人と日向上人の関係が深くみられます。おなじ千葉県の生まれであることと、曽谷家と男金家との遠縁があります。日蓮聖人が隠棲された身延に、最終的に日向上人が入山されたことは血族であったからでしょうか。曽谷教信の一家は日蓮聖人の家族を援助してきた方々です。教信の弟が反逆したとはいえ、弟の金原氏や子供三人は、日蓮聖人の門下として教団を支えていました。とくに、中山法華経寺の日祐上人と親交を結んだことで有名なのは、同郷の曽谷教信・大田乗明とのつながりを看取できましょう。

また『日蓮教団全史』に「日進の出自には安培、高橋、曾谷氏の裔とする三説あり」とあります。また、竹之房は、日朗上人が身延の日蓮聖人を訪れたときに、宿泊していたところといいます。日進上人が身延山の第三世をついだのは、正和二(一三一三)年、四三歳のときでした。その翌年には、一七歳の日祐上人が中山本妙寺の第三世となっています。また、比企・池上の両山も、日輪上人が主管していきます。 

○下総の弘教

 富木氏が用意した法華堂にて百日百座の説法を終えた日蓮聖人は、日朗・日興上人をともない、下総近辺の縁者をたよって弘教をされたと思います。『立正安国論』を上呈してから、伊豆流罪にいたる九ヶ月間の書状は伝わっていません。日蓮聖人が生きていることを内密にしていたのでしょうか。隠す必要があったのでしょうか。そうしますと、百日百座の説法も信頼がある縁者を相手にしていたことになります。東条の郷には東条景信がいますので、信徒との交流は隠密に行ないながら地盤を固めなくてはなりません。下総の由緒がある寺院などからしますと、若宮(市川市)・曽谷(市川市大野)・野呂(千葉市若葉区)・平賀(松戸市)そして、茂原(茂原市)地方に弘教されていたと考えられます。

・中山法華経寺を筆頭(若宮の富木氏・中山の大田氏)

・大野の安国寺・曽谷の法蓮寺。娘柴崎(妙林尼)は平賀の本土寺・礼林寺(曽谷教信氏一族)

曽谷教信の妻は蓮華比丘の名を日蓮聖人より授けられ、安国寺の棟札によれば、三度、日蓮聖人を請じ説法を拝聴したといいます。その様子を画いたのが玉沢妙法華寺に所蔵される説法図です。ここには曽谷夫妻の姿が映し出されています。曽谷教信は文応元年に曽谷の館を安国寺とし、のちに大野に移り、建治一二年に法蓮寺を開創します。長子の曽谷四郎左衛門直秀も入道し、道崇と名のって日蓮聖人の教えを受けます。その弟は山城日心、曽谷教信氏の娘、芝崎も平賀の鼻和地蔵堂を再興し、建治三(一二七七)年に、日朗上人を開山として本土寺を建て、のちに居を改め禮林寺としました。

・野呂町の妙興寺

下総の北部、千葉大隅守胤直氏の一族がいます。この配下に曽谷四郎左衛門直秀がいます。のちに出家して道崇と名のります。あるいは、山城入道典宗ともいったといい、道宗ともいうことから詳細が不明とされています。(『日蓮宗の本山めぐり』二六頁)。野呂町に妙興寺を開いたとき、日蓮聖人は身延山にいたので、弟子の日合上人を代行させています。日合上人は曽谷道崇の子供典久の末子といいます。道崇は日合上人のために野呂の屋敷を寺(妙興寺)としたといいます。(小川泰堂居士『日蓮大士真実伝』一七六頁)。また、日合上人は工藤吉隆の舎弟ともいいます。(『日蓮宗の本山めぐり』)。

・茂原の藻原寺

茂原には斉藤遠江守兼綱氏がいます。日蓮聖人が「立教開宗」のあと、鎌倉にむけて上総街道を歩まれます。その途中にある笹森の観音堂にて一夜を明かします。このころ、遠江の国主であった斉藤氏が領地の争いにより、幕府の忌諱にふれ茂原に配流されていました。伝承では斉藤兼綱と、一族の墨田(すだ)五郎時光(長南庄須田郷)が観音の夢想により、翌早朝、早馬に乗り日蓮聖人のもとに馳せ参じたといいます。遠江守と言うところに貫名重忠との関連を感じるように、夢想ではなく、誰かから伝えられたのかもしれません。このときの縁があるとしますと、途中の上総郡長生郡長南町坂本の、法華谷法華堂に足を向けたと思われます。斉藤兼綱が藻原寺を創建し日向上人が隠棲されています。

・松戸市の平賀本土寺

領主陰山土佐守が狩野の松原に法華堂を建てたのが起源といいます。のちの、建治三年に風雨の災害に会ったため、大野の領主曽谷教信と相談して鼻和地蔵堂を寺としています。日蓮聖人は「北谷山日蓮本土寺」(長谷山本土寺)と命名されています。さらに、佐倉の城主、千葉大隅守貞胤が亡くなり、曽谷教信の娘である後室の柴崎夫人が、化粧料地の平賀六郷を寄進して、堂宇を修理し城主の菩提を弔ったことにより、千葉氏との縁が深くなりました。また、平賀は日像上人日澄上人の生地であり、日朗上人の母でもある妙朗尼の墓所となっています。

下総の弘教は弟子や信徒をつくり、確固たる信仰と教育を行っています。姻戚関係があるにしても短時間ではできないことです。

・六郎僧・中老僧が輩出する基盤をつくった。

清澄寺の兄弟子(浄顕房・義城房)・花房の円智房など、旧知の者と今後の活動をはじめ、本門法華経の深い教学の解釈を充分に教えられた。また、その解説書なども作成された。日合上人(工藤吉隆の舎弟)や吉隆の子息などがいます。そして、日頂上人・日向上人が輩出されます。浄顕房・義城房は日蓮聖人を支援しますが、改宗までには至りませんでした。日蓮聖人が隠棲の地を清澄寺にされなかった理由が、ここにあると思われます。

・信徒の教化

両親・兄弟、男金家・勝浦法華村の畠山重兼(母の弟ともいう)、、光日房などの親族や、領家の大尼と新尼などの教育。また、勝浦市興津(妙覚寺、布びきの祖師)の城主佐久間兵庫守十郎左衛門重貞氏一家、安房郡富浦(妙福寺、はだかの祖師)の泉沢権ノ頭太郎一家、、また、天津の豪族工藤左近丞吉隆と、供人の北浦忠吾と忠内、長南城主長南次郎重光氏等の教化も考えられます。日蓮聖人が安房や下総などに再度こられるのは、伊豆流罪を赦免された文永元(一二六四)年八月ころのことになります。ちょうど三年さきのことになります。このときに縁を結び、入信された信徒や弟子は、さらに教線を張って、のちに、日蓮聖人の足となり口となって教団を結束させていきます