125.『立正安国論』                         高橋俊隆

□『立正安国論』(二四)

時頼に奏進した『立正安国論』の上呈本は伝わっていません。上奏された『立正安国論』はどうなったのでしょうか。時頼の手元にあったが、時頼の生存中か没後に破棄されたのでしょうか。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻四二三頁)。私的な「勘文」(高木豊著『日蓮―その行動と思想』六四頁)であったので、無造作に扱われたかもしれません。

『日蓮聖人註画讃』には、御正筆と副状が中山法華経寺にあるとし、副状の文として『安国論送状』をあげています。御正筆とは時頼に上呈したそのものであるのか、草稿を清書した原本のことかは不明です。ただ、「正本」として確定した文言の、『立正安国論』があったことがわかります。中尾堯文先生は、『立正安国論』は日蓮聖人に返却されたとのべています。幕府に提出された文書は、その案件が解決した段階で、当事者に返却された可能性があるといいます。その原本は、『安国論送状』に、

「立正安国論の正本、土木殿に候。かきて給候はん」(六四八頁)

と、のべたところから、この「正本」は原本のことであり、富木氏が管理していたとします。(『ご真蹟に触れる』)。

 富木氏が大事に管理していた『立正安国論』は、そのご、日蓮聖人ご自身が身延に持参されたのか、身延山に格護されました。これを、『身延本』(『本化高祖年譜』四八頁)といいます。富木氏の『日常目録』には、日蓮聖人の『御自筆」ではなく、写本などの「御書箱」の最初に、

「立正安国論 一巻 並具書三通有之」(『定遺』二七三一頁)

と、あることから、富木氏が書写された『立正安国論』が所蔵されていたといいます。(岡本錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻四〇九頁)。日祐上人の『本尊聖教録』の、「十七 大綱要文等」にも、

「立正安国論 一帖 並再治本一帖」(『定遺』二七四〇頁)

と、ありますので、富木氏が書写された、『立正安国論』が所蔵されていたことがわかります。今は散逸して伝わっていません。「再治本」とは『広本』のことといいます。また、大学三郎が書写した『立正安国論』も所蔵されていたことがわかります。(「十六 違目」)。『身延朝師本御書目録』の「御書目録日記之事 六老僧所記」に、「立正安国論」とあり、また、『日乾目録』「七箱之内第一」(『定遺』二七四七頁)、『亨師目録』(『西土蔵宝物録』)の「第二長持之内」に、「立正安国論 巻首ニ送状有之 一巻」とあります。(『定遺』二七五七頁)。これを、『身延曾存本』といいます。

現在、国宝として法華経寺に伝わっているのは、文永六(一二六九)年に矢木式部大夫胤家(やぎたねいえ)に与えた、日蓮聖人の自筆の『立正安国論』です。全長一五九八センチ、全三六紙のうち、第二四枚目の一紙を欠いています。これは、矢木胤家がもっていた『立正安国論』は、弘安三年に遠藤右衛門大夫沙弥道生にわたります。書写されてから二〇年ほどたち、この『立正安国論』の裏に、武家の教養書である『本朝文粋』(第一三巻、仏事篇)が書かれてしまいます。このとき、『立正安国論』の第二四紙の継ぎ目がはがれたと思われます。

この『立正安国論』は、嘉元四(一三〇六)年一月一三日に、沙弥道生から第二代の日高上人に譲られたものです。時をへて、慶長六(一六〇二)年に京都本法寺の日通上人が中山法華経寺に入山します。このとき、『立正安国論』の紙背に、『本朝文粋』が書かれていたのを消す作業をしました。不足していた第二四紙は、身延山に所蔵されていた身延本の『立正安国論』を書写して補いました。日通上人が『立正安国論』の裏をきれいにしたのは、文禄四(一五九五)年の、方広寺大仏供養を契機としておきた、不受不施の心配があったといいます。そのご、『立正安国論』は正保三(一六四六)年の秋に、加賀藩の前田利常が願主、本阿弥光甫が施主となり、あらたに表装され、昭和五六年の日蓮聖人七百遠忌のときに、中山法華経寺に伝わる真蹟が補修されました。

ほかにも『立正安国論』の真蹟本が伝わっています。身延山と京都の本国寺です。身延山久遠寺に伝わっていた真蹟は、明治八(一八六五)年の火災で焼失しました。京都本国寺に所蔵されている真蹟本は、日蓮聖人の晩年の書写とされ、法華経寺の『立正安国論』と内容に異なりがあり長編になっているので、『広本』と呼んで区別しています。また、京都妙覚寺など一〇箇所に、一行から五行ほどの真蹟断簡が十数片伝わっています。真間の弘法寺本に切損本とよばれる断片があり、ほかに上奏本二本・常師の正本・建治の再冶本などを加えると、七~八本が現存していたといわれています。佐渡流罪中に富木氏に『立正安国論』の正本を書写して、日蓮聖人の手元に届けるように指示していることから、『立正安国論』は生涯にわたって書写されていたことがわかります。『立正安国論』の名前にふれた遺文は三〇篇ほどと、『勘文』とよばれて『立正安国論』のことをのべた遺文が七篇あります。

さらに、直弟子たちも筆写されており、日興・日向・日高・日法・三位房日進上人の真蹟が各寺に伝えられています。これは、直弟子たちにも『立正安国論』の意義が、大切に受け継がれたことを示します。『立正安国論』には他国侵逼の予言があり、蒙古襲来として的中した書でした。蒙古の脅威はいぜん幕府に根強くあり、門家においては「未来記」としての書として伝えたことがわかります。日蓮聖人と行動をともにした弟子たちは、『立正安国論』を提出したことにより、松葉ヶ谷の夜討ちとなり、つづいて、伊豆流罪、竜口・佐渡流罪となった法難を経験し、法華経の行者の意識を高めていきました。これらのことから、日蓮聖人における『立正安国論』の重要性がうかがえます。

『立正安国論』は四六駢儷体の漢文体で書かれています。この四六駢儷体の文章の典拠として、空海の『三教指帰』を踏まえていると北川前肇先生は指摘されています。(『大崎学報』一五七号「日蓮聖人の立正安国論と三教指帰」)。本書は主人と旅客の対話(問答)形式をとり、九問九答と一〇番目に旅客の領解から構成されています。(十番問答・十問九答ともいいます)。主人は日蓮聖人のことであり、旅の客とは時頼を想定しているとみられています。本書の十章は、音韻や対句、修辞などの文章に優れており、学識の高さをあらわしています。本書の冒頭に、

「旅客来嘆曰。自近年至近日天変地夭飢饉疫癘遍満天下広迸地上。牛馬斃巷骸骨充路。招之輩既超大半不悲之族敢無一人」(二〇九頁)

と、のべているように、日蓮聖人が鎌倉に布教していらい、正嘉元年より連年のように赤班瘡(あかもがき)の流行、大地震・豪雨洪水・凶作・飢饉といった天変地夭が人々を苦しませていました。この正嘉の地震の規模は阪神大震災と同じといいます。(尾崎綱賀氏『立正安国論』四八頁)。人々は飢饉をしのぐため山野や海浜に食料を求めますが、地頭はよそ者の出入りを禁じています。幕府はこのような浮浪者や飢餓民の行為を許すように守護に指令したといいます。とうじの鎌倉市中の混乱と惨状は、『立正安国論』にのべているように、牛馬・人畜の死骸があふれていたのでした。

 日蓮聖人は直接的には災害の原因を究明し、どのようにしたら国家の安穏を回復できるのかという問題を提起しています。そして、名越の近辺に運ばれる遺体を見ながら、それを悲しむ家族とともに苦しみ、この災害をのがれる道を仏教に求めます。その結論として出されたのが『立正安国論』でした。『立正安国論』の要旨は、その災害の原因は正法である法華経の教えに背き、悪法である念仏や禅に帰依していることにより起こったとのべています。そのため国や人民を守る善神は国を捨て、聖人も国を去り、魔や鬼が来たためであるという「善神捨去」・「聖人辞所」について『金光明経』・『大集経』・『仁王経』・『薬師経』などの、護国経典を証拠として挙げます。

善神とは四天王を中心とした天部の守護神をさしており、『立正安国論』の段階では日本の神祇はまだ含まれていません。「善神捨去」の論理は旧仏教いらい言われてきたことで、明恵高弁の『摧邪輪』(ざいじゃりん)には、『華厳五十要問答』を引いて、邪法が混雑すれば善神が国を捨て悪鬼が入り、三災を起こし帝王を廃滅させると説いているように、すでに、過去の先師により「善神捨去」の思想は説かれていたことでした。

旧仏教徒にとって「善神捨去」は、警鐘でありましたが、日蓮聖人は末法現在の惨事を目の当たりにみて、現実に起きている地獄の世界だったのです。その悪法とは『守護国家論』に既述したように、法然の『選択集』・専修念仏であるとして、謗法の書であるとして念仏の禁断を提言します。『選択集』の選択とは、浄土教のみがもっとも勝れた教えであり、他の教えは不必要であるとして、捨て去るということです。おなじ阿弥陀仏の名前を称える天台の称名念仏とは違います。法然の教えは形をかえ枝別れをしながらも、着実に鎌倉に流行していたのです。どのような状況であったのでしょうか。本書(二一六頁)に、

   国王から万民まで浄土三部経と阿弥陀仏だけを尊ぶ

   教主釈尊を捨て阿弥陀仏だけを尊ぶ

   阿弥陀仏を祀る寺いがいは供養をしなかった

   極楽世界の阿弥陀仏だけを拝んだ

つまり、現世の祈りも後生の願いも人々の信仰は、阿弥陀仏の一色に染まったとみたのです。このまま念仏を放置するならば、三災七難のうち残る『薬師経』の「自界叛逆」の難と、「他国侵逼」の二つの大難が起きるとのべます。『大集経』にも兵革の災難、『金光明経』『仁王経』にも侵略の災難が起こるであろうと説かれたことをのべています。しかし、悪法である法然の浄土教を改めて「実成の一善」である法華経に帰依するならば、三界は仏国となり十方世界は宝土となるとのべ法華経によって救済されることを教示していきます。「安国」が示す国土とは、法然浄土教で説く西方の別世界の国土ではなく、私たちが住む現実の国土を指しています。日蓮聖人が説く「安国」はこの娑婆即寂光の国土であり、この娑婆を厭離して求める国土ではないところに、大きな相違を見ることができます。現実の国土を重視するゆえに、このまま悪法を放置していたら「自界叛逆」・「他国侵逼」の二つの災難が勃発すると経典を引いて諌めています。これを為政者の責務として、法華経への帰依を勧めたのが『立正安国論』のあらすじです。

―本書の構成を三段にわけるのが通例となっており、この三段の分科には諸説がありますー

1.第一・第二段を序分。第三~第九段を正宗分。第一〇段を流通分。(『日蓮聖人遺文全集講義』)

2.第一~第八段を序分。第九段を正宗分。第一〇段を流通分。(『日蓮宗事典』・「原文対訳『立正安国論』」北川前肇先生)

3.第一~第九段前半を序分。第九段後半を正宗分。第一〇段を流通分。(『日蓮聖人御遺文講義』)

 第一~第八番  災難の原因は邪法を信じたため。このままだと内乱と他国から攻められる

 第九番     法華経を信じれば、それが政治に生かされ、善神から日本国が守護される

 第十番     旅客は納得した

 ―問答の内容の主旨をいいますとー

 第一~第二問答 災難が起きる理由を、護国の経典を証拠として説明します。

 第三~第五問答 法然が念仏いがいの教えを、「捨・閉・閣・抛」としたのが、最大の理由とします。

 第六~第九問答 悪法を援助せず(止施)、法華経の教えをもって治世するのが国主の役目であり、そうしなければ、国内の内乱と他国から襲撃されることを、経典を証文として予言します。

 第十、改心   謗法の罪を知り、現世の平和と没後の成仏のため法華経を信仰し、自他の誤りを正すことを誓う。

 ―末木文美士氏は『日蓮入門』(八五頁)に、あらすじを平易にのべているので、参考にいたしますー

  第一―三問答  災害の理由を一般的に論ずる。

  第四―六問答  具体的に法然の浄土教こそ災害を招く邪教であることを説く。

  第七―九問答  それに対する対処の方法を論ずる。

 ―つぎに、九問九答の内容について(十番目は客の言葉だけ)みてみますー

第一問、旅客が災難の原因と、いろいろ祈祷をするが効験がないことの理由を聞きます。

第一答、主人は災難の原因は正しい仏教が信仰されていないから、「善神は国を捨て去り」、「聖人は辞所」し、そのため悪鬼が充満して災難が起きることを示します。

第二問、「神聖去り辞し」たため災難が起きるという、その証拠となる経典を問います。

第二答、『金光明経』・『大集経』・『仁王経』・『薬師経』の四経から七文を示します。これらは朝廷や仏教界が重んじた護国経典でした。

第三問、仏教は隆盛し正しい信仰は失われていないと反論します。

第三答、しかし、悪僧がいることを『仁王経』・『法華経』・『涅槃経』から四文を引いて示し、釈尊はこれ

らを誡めるべきと、説いていることをのべます

第四問、悪僧がいるとは信じられないとし、誰のことを中傷するのかと聞きます。

第四答、それは法然であることを指摘し、『選択集』の「捨閉閣抛」の教えは、一切の仏教を否定し、阿弥陀仏いがいの仏は捨て去れということであるから謗法であるとのべます。

第五問、現在の災難の元凶が、なぜ、勢至菩薩の化身という法然なのかを問います。

第五答、法然の邪法に感化されて、誰もが疑うことを忘れたとし、念仏思想が蔓延して亡国となった、会昌法難と後鳥羽上皇の例をのべます。

第六問、賤民の僧侶が、勘状や上奏することは、先例のない暴挙ではないかと問います。

第六答、壊法の者を呵責するのは義務であり、念仏批判の先例として、延暦寺・興福寺からの奏上により勅宣や御教書が申し下されて、法然の『選択集』の版木が破却され罰せられたことを示します。また、その門弟の隆観(隆寛)・聖光(辨長)・成覚(幸西)・薩生(満願?)は配流され、いまだ赦免されていない事実をのべます。

第七問、念仏の是非についてはわからないが、国家がなくては仏教も存在の意味がないので、まず、この

災難からのがれる方法を懇請します。

第七答、謗法の者を禁断し、正しい僧侶を重用すれば天下は泰平になるとします。その方法として『涅槃経』・『法華経』の一〇文を引き、邪法を弘める僧侶の命を断つか布施を禁止することを示します。

第八問、謗法の者を殺害することは重罪ではないかとし、この二つのうち、どちらが良いかを問います。

第八答、悪法を説く者への布施を禁止し、法華経に帰信すれば災難は起きないとのべます。

第九問、法然の「捨閉閣抛」が原因で災害が起きたと理解し、謗法の者への布施を止めることを誓います。

第九答、邪法を退治しなければ災難がつづき、さらに「自界叛逆」と「他国侵逼」の内乱と外寇の二難を招くことになり、死後は地獄に堕ちるとします。しかし、信仰を改めて法華経に帰依すれば国も民も安穏になるとのべます。最後に第一〇番目の旅客の領解として、謗法意識に目覚めたことをのべ、法華 経の信仰をして「現世安穏」・ 「後生善処」を願い、更に他の人々にも誤った信仰を改めさせることを誓います。

このような構成をもって、「立正安国」が、国主の力により可能となることをのべています。本書の「善神捨去」(一一七頁)・「『選択集』の謗法」(一〇六頁)・「謗法対治」(一〇六頁)・「仏法中怨」(一一九頁)・「娑婆(此土)浄土」(一二九頁)・「不施・留施」(一六一頁)・「三災七難」(一六三頁)に関しては、すでに、『守護国家論』・『災難興起由来』・『災難対治鈔』にのべられていたことでした。

では、『立正安国論』は不要かといえば、日蓮聖人が第一の諫暁と自負されたように、上奏されたことに意義があります。日蓮宗の旗印となったという理由のひとつです。また、四六駢儷体の文学的な作品としても、初唐時代によく使われた漢文体ではなく、鎌倉時代の特有の文体として高く評価されています。念仏の思想は仏教と国家を破壊することの先例をのべ、日本の過去の仏教界も念仏を批判した歴史を示して、日蓮聖人がはじめて念仏批判をしたのではないことを知らせます。

留意したいのは、『仁王経』を引き、仏教を広めることを、王や大臣などの権力者に付属していることです。すなわち、「仏法付属」については『守護国家論』(一一四頁)にのべたように、賢王による正法の庇護を時頼に説いた日蓮聖人の意図がうかがえます。それは、国主はその責任を実行しなければならないことを促したことです。そして、国主でも悪業をなせば堕獄することを示唆されたのでした。日蓮聖人は「国主」時頼に期待をもっていたのです。

 さらに、謗法者を対治すべき経証として、『涅槃経』の有徳王(うとくおう)と覚徳比丘(かくとくびく)の部分全体を、引用していることが重視されます。(二二二頁)。この故事は釈尊が過去世において、正法を弘通する覚徳比丘を守るため、破戒の悪比丘と戦って全身に傷を被り、殉教した国王の物語りです。このなかに、「刀杖を持つと雖も、我は是等を説きて、名けて持戒といわん」という、「刀杖執持」は「持戒」であると説いていることです。不殺生戒を第一とする仏教の戒律に反する教えであるからです。このところを、天台大師は『摩訶止観』に、弘教の方法である「摂受」・「折伏」のうち、「折伏」の論拠としました。日蓮聖人はこの文を引いて、時頼に何を伝えたかったのでしょう。日蓮聖人は遺文の随処に、この有徳王と覚徳比丘の物語を引いています。そして、教学としては「折伏逆化」・「謗法治罰」の文証としています。この「折伏」思想は、『観心本尊抄』の流通分で、

「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(原漢文。七一九頁)

と、のべられていきます。日蓮聖人が自らを摂受の行者であり、摂受を行うという遺文は見受けられません。また、末法は摂受であり、それが逆縁下種であると述べた遺文も見受けられません。

行学院日朝上人は『御書見聞集』(『日蓮宗宗学全書』第一六巻三六六頁)に、折伏には行の折伏と教の折伏があり、日蓮聖人が僧形となれば教の折伏を行うとのべています。では、その教の折伏と行の折伏の違いとは、

  教の摂受・折伏  「法華折伏、破権門理。涅槃摂受更許権門」『法華玄義』

  行の摂受・折伏  「如安楽行不称長短、是摂義。大経執持刀杖乃至斬首、是折義」『摩訶止観』

 これによりますと、法華経そのものが折伏の教えであることがわかります。また、『涅槃経』の有徳王・覚徳比丘の故事は、行の折伏を説いていることがわかります。この行の折伏は、有徳王が行う行であることもうかがえます。伊藤瑞叡先生は、日蓮聖人の折伏を論じるときに、『立正安国論』に見る「禁断謗法の折伏義」・「護持正法の折伏義」を、有徳王と覚徳比丘に分けます。さらに、『観心本尊抄』の折伏義と照合するとき、有徳王(賢王)は「行門身業の折伏義」とし、覚徳比丘(僧)は、「行門身業の摂受義」と「教門口業の折伏義」とします。(『日蓮宗勧学院報』第十号九五頁)。およそ、行学院日朝上人の、

「今、本化僧形と成りては教の折伏を行いたもう。然るを行の折伏に望みて摂受という意なり」(原漢文)

と、同じと思われます。はたして、日蓮聖人が『立正安国論』に『涅槃経』の、この文を引いたことの意義はどのようなことだったのでしょうか。

また、この武器をもって謗法の者を死傷させてもよい、という脈絡を安易な殺人ととらえることは危険です。日蓮聖人は僧侶として蟻の一匹も殺さなかったという、戒律を大切にした人生を送っています。では、なぜ日蓮聖人が謗法の僧侶の首を切り、その寺を焼き払えと言ったのでしょう。(『撰時抄』一〇五三頁)。そこで、古来より提起されているのが、有徳王の故事は釈尊前生のことで、国主はこの故事から邪教における亡国の危険性を知ることであり、本書の第八番問答に説いた「止施」(二二四頁)を日蓮聖人の本意として、今の世においては謗法者に布施を禁ずる(禁断謗施)ことと解釈することです。(高森大乗著『日蓮聖人と法華仏教』所収)。しかし、日蓮聖人のこの発言が「竜口法難」と関わるとき、その日蓮聖人の心情は為政者への強いメッセージとなります。大賀義明氏は『法華仏教研究』(第三号)に、この問題を折伏と関連してとらえ、また、オウム真理教がひきおこした坂本弁護士・地下鉄サリン事件、そして、元オウム幹部の新美被告が、死刑確定となった現実のことに追求しています。

 さて、『立正安国論』は浄土教のみを批判し、禅宗については口頭の批判のみであったことについて、その差し控えた理由を、他の御家人などからの非難に配慮したという指摘があります。これは、日蓮聖人の『立正安国論』が、時頼のみではなく、他者の手に触れ、目にすることができるものであったことを示します。つまり、日蓮聖人はある程度の家臣たちが、読むことを想定していたことになります。時頼の家臣や有力者が集まる時と場を選んで上奏したのかもしれません。

『日蓮宗事典』には、「その興盛ぶりを見て一に念仏宗を破斥の対象に選ばれた。また一切諸宗を批判すれば、論旨が乱れるから念仏宗だけを破斥された」と、説明されています。この指摘は日蓮聖人の遺文からも看取できます。佐渡の阿仏房尼に宛てた『阿仏房尼御前御返事』に、

「日蓮は種種の大難に値といへども、仏法中怨のいましめ(誡)を免んために申也。但し謗法に至て浅深あるべし。偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し」(一一〇八頁)

 つまり、教えを説くにも、取捨・前後・時期があるのです。「五義」の心得と思われますが、『立正安国論』には真言宗・天台宗が謗法であることを伏したと受け取れます。しかし、これは文面の表だけのことで、智慧あるものは文面に潜む真意を読み取ることができる、と解釈できます。

 そうするならば、さらに、私たちは、『立正安国論』のなかに、諸宗の誤りについても論じていることに注意しなければなりません。『本尊問答鈔』に、南都六宗・浄土宗・禅宗、そして、真言宗が悪法であることをのべ、このため他国から攻められ日本が亡ぶことを勘えて『立正安国論』を上奏したことをのべています。そのなかに、

「此事日蓮独り勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。仍て故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名つけき。其書にくはしく申したれども愚人は知り難し」(定一五八二頁)

と、『立正安国論』のなかに詳細にのべたが、愚人は知り難いとあります。つまり、智者は『立正安国論』を念仏いがいの真言・天台についても、きちんと誤りを正していることがわかる、とのべているのです。(田中智学氏『大国聖日蓮上人』二三八頁・『日蓮宗事典』)。文の上、文の底という教学があるように、『立正安国論』も文上・文底があるといえましょう。

 ここで思うことは、『立正安国論』の冒頭に旅客が、正嘉元年いらい行われた除災の祈祷をあげていることです。国主の徳政として仏教や神道に、「人庶疾疫対治」のため祈祷を行うように、御教書を発令していたことが、『吾妻鏡』(正嘉元年八月二五日・正元二年四月六日・文応元年六月一二日条)に記されています。(岡元錬城先生『日蓮聖人大事典』二七〇頁)。このことを述べたのが安国論御勘由来』です。

「而間国主驚之仰付内外典有種種御祈祷。雖爾無一分験還増長飢疫等。日蓮見世間体粗勘一切経御祈請無験還増長凶悪之由道理文証得之了。終無止造作勘文一通其名号立正安国論」(四二一頁)

 つまり、災難を恐れた国主は、仏教や外典、神道などの、ありとあらゆる御祈祷を試みたが、かえって凶悪な災難を招く原因となったと指摘します。それをのべたのが『立正安国論』の文です。

「雖然唯摧肝胆膽弥逼飢疫乞客溢目死人満眼。臥屍為観並尸作橋。観夫二離合璧五緯連珠。三宝在世百王未窮此世早衰其法何廃。是依何禍是由何誤矣。主人曰独愁此事憤俳胸臆。客来共嘆屡致談話。夫出家而入道者依法而期仏也。而今神術不協仏威無験」(二〇九頁)

 すなわち、国主が行った祈祷は、すべて効果がなかったことです。『立正安国論』の冒頭にあげた、称名念仏や座禅、天台宗・真言宗などの修法は、すべて効験がなかったと吐露した旅客の発言に注目されるのです。

○国土「安国」について

 『立正安国論』における「安国」とはどのようなものなのでしょうか。日蓮聖人が日本国という意識を持った最初の人かもしれないという意見があります。古代においては、「国」とか「国家」の主体は支配層に重きがなされ、狭義には王法を中心とするもので、国家の安泰を祈願した鎮護仏教の天台宗や真言宗、法相宗などの各宗も、支配者の庇護のもとに護国の祈りを主体としてきました。これを、「日本国」・「国土世間」・「浄土」の視点から考えてみます。

・「日本国」

日蓮聖人は日本国について、『彌源太入道殿御返事』に、

「日本国は六十六箇国、嶋二つ」(八三一頁)

また、『神国王御書』冒頭に、

「夫以れば日本国亦云く水穂の国と。亦野馬臺、亦秋津嶋、亦扶桑等云々。六十六国・二嶋・已上六十八ヶ国。東西三千余里、南北は不定也。此国に五畿七道あり。五畿と申すは山城・大和・河内・和泉・攝津等也。七道と申すは東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七箇国・山陰道八ケ国・山陽道八ケ国・南海道六ケ国・西海道十一ケ国。亦云く鎮西、又大宰府云々。已上此は国也」(八七七頁)

ここには、日本国の国名や国内のもようを示しています。つぎの、『妙法比丘尼御返事』には、

「日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。此国は仏の世に出でさせ給し国よりは東に当りて二十万余里の外、遥かなる海中の小島なり。而るに仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏、漢土の人の此の国の人人を見候へば、此国の人の伊豆の大島・奥州の東のえぞなんどを見るやうにこそ候らめ」(一五五二頁)

と、のべているように、仏教の世界観から小島のような国として日本をとらえています。そして、そのなかに住む衆生について、『四恩抄』にはつぎのようにのべています。

「十方の浄土にすてはて(果)られて候十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が、三悪道に堕て無量劫を経て、還て此世界に生て候が、先生の悪業の習気失せずして、ややもすれば十悪五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候也」(二三四頁)

つまり、南閻浮提にある日本国は、十方の浄土から捨てられた、十悪五逆の者が住む穢土であると認識しています。娑婆とは忍土であり、釈尊を能忍というのは、ここから言われたことです。日蓮聖人は「日本国」という言葉のなかに、このような国と衆生であると認識し、であるからこそ末法に法華経を留めるべき国土として関心を持っていたと思われます。

旧仏教は天皇の安泰を第一義としていました。日蓮聖人は天皇を百王思想により崇拝していますが、承久の乱の天皇の惨敗により、その国家権力者にたいしての考えがかわったように思えます。また、天皇などの特定の権力者の安泰から、国土と人民の安穏に転換したともいいます。国構えのなかに民と書く国意識はここにあるといわれています。

この「国」の字の使い分けは、古来より留意され七通りの書き方があるといわれています。中山法華経寺に格護されている『立正安国論』は、七五一一字によって認められ、そのなかに「國」は五回、国構えに王の字をいれた「クニ」を一回。普通に使われている「国」を一〇回、そして、国構えに「民」をいれた「クニ」を五六回使われているといいます。(新井日湛貫首『立正安国論ノート』巻頭言)。(中山本、八一二二字。広本、一〇五五五字ともいう。川口日空著『法華仏教研究』第五号一〇頁)。小松邦彰先生は国(15)、國(1)と述べています。(「立正安国論小稿『日蓮教学の諸問題』所収二五二頁)。

また、同じ『立正安国論』にも、『定本』遺文と、『日蓮聖人真蹟集成』に収められた、中山法華経寺の『正本』と、本国寺所蔵の『広本』があります。この『正本』と『広本』の真蹟を対照したのが『日蓮聖人御真蹟対照録』です。しかし、『定本』との違いがあり、そこで、この三本に使われている文字、読みの違いを厳密に対照したのが、北川前肇先生の『原文対訳立正安国論』です。ところで、この『正本』と『広本』の呼び方について、中尾堯先生は一般には内容の多いものを広本といい、省略された部分のあるものを略本と呼び、内容としては広本のほうが優位とされるのが通例となっていることを指摘され、『安国論奥書』の、

「此書有徴文也。是偏非日蓮之力法華経之真文所至感応歟」四四三頁

の文意によれば、『正本』とよぶべきで、『略本』とよぶのは適切ではないと指摘しています。また、本国寺の『広本』も『増補本』というべきであると指摘しています。(『ご真蹟に触れる』)。

さて、日蓮聖人における鎮護国家とは、これらの「クニ」を含めた「立正安国」であります。しかし、日蓮聖人における「安国」とは、支配層である幕府や朝廷のためだけのものではなく、国に住むすべての人々の安泰を願うものでした。政治的な支配の国土ではなく、仏教の教えにもとづく仏国土を求めるものでした。日蓮聖人における国土観は、「現世安穏・後生善処」の実現を目指すもので、寿量品に説かれた常住の国土を娑婆浄土としています。この仏国土を知る手がかりとして、「国土世間」・「釈尊御領」という二つの見方から日蓮聖人の国家という意識をうかがうことができます。

・「国土世間」

 国土世間とは、衆生が住む場所としての国土をいいます。日蓮聖人は、私たちが住むこの国土を大事にしています。国家は為政者や権力者によって、国民にとって良い国、悪い国ができてきます。『立正安国論』にいう国土の安穏は、正しい仏教である法華経に依拠しなければならないことを説いているのです。この国土観については、日蓮聖人の初期の著作である『戒体即身成仏義』に、方向性がのべられています。

「法華経一部に列れる九界の衆生、皆即身成仏にて有之也。止観云中道之戒無戒不備是名具足。持中道戒云云。中道戒者、法華の戒体也。無戒不備者、律儀・定・道の戒也。此五戒を知十界具足五戒時我身具足十界。我身具十界得意時欲令衆生仏之知見と説て、自身に一分の行無して即身成仏する也。尽形寿の五戒の身を不改成仏身時は、依報の国土も又押へて寂光土也。妙楽釈云豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆文。法華已前の経に説十方の浄穢土は、只成仮設事。又妙楽大師釈云不見国土浄穢差品云云。又云衆生自於仏依正中而生殊見苦楽昇沈。浄穢宛然成壊斯在文。法華の覚を得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅。国土も如爾。此国土牛馬六畜皆仏也。草木日月皆聖衆也。経云是法住法位世間相常住文。此経を得意者は、持戒・破戒・無戒皆開会の戒体を発得する也。経云是名持戒行頭陀者云云。法華経の悟と申は、此国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一と知也」(一四頁)

 ここに、一念三千は三種世間を包括した成仏論であることがのべられています。私たちの個々の成仏と、私たちが住む現実の国土、すなわち、国土世間と、そして、後生の国土である浄土を問題としています。つまり、日蓮聖人の一念三千論は一切衆生と、この国土をふくむ成仏論を解明した教えといえます。

「立正安国」の実現を唱えるのは、後にのべる『観心本尊抄』の「本時の娑婆世界」に到達した、具現的な教えとなっていたのです。生きているこの世界に、受持即成の個人の成仏だけではなく、浄土という仏国土を実現できるという考えが、日蓮聖人の国土観です。

・「浄土」

つまり、仏国土は浄土観と関連しています。浄土とは穢れのない所であり、煩悩などの五濁からはなれた人々が住む所をいいます。『守護国家論』では、法華経を修行する者のいる場所を浄土というべきで、浄土教にいうような他土に浄土を求める必要はないと反論しています。日蓮聖人は釈尊が居住するこの娑婆世界が、すなわち浄土であると見做しています。

「問云法華経修行者可期何浄土耶。答曰法華経二十八品肝心寿量品云我常在此娑婆世界。亦云我常住於此。亦云我此土安穏文。如此文者本地久成円仏在此世界。捨此土可願何土乎。故法華経修行者所住之処可思浄土。何煩求他処乎。故神力品云若経巻所住之処若於園中若於林中若於樹下若於僧房若白衣舎若在殿堂若山谷曠野乃至当知是処即是道場。涅槃経云若善男子是大涅槃微妙経典所流布処当知其地即是金剛。是中諸人亦如金剛[已上]。信法華・涅槃行者非可求余処。信此経人所住処即浄土也」(一二九頁)

 経文を引いて、法華経に説かれた浄土を示してしています。このような強い認識に立って、『立正安国論』の一番大事な言葉が発せられます。

「汝早改信仰之寸心速帰実乗之一善。然則三界皆仏国也。仏国其衰哉。十方悉宝土也。宝土何壊哉。国無衰微土無破壊身是安全心是禅定。此詞此言可信可崇矣」(二二六頁)

 この「六四文字の結文」((『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一一七九頁)は、この現実の世界が浄土となり、したがって、三界のすべてが仏国となる視座からのべています。これは、『戒体即身成仏義』いらい、成仏論として一貫した追及でありました。そして、その答えが『立正安国論』にのべられたといえましょう。ここには、法華経を信仰することが第一義となっています。本書の「立正安国」は、この実乗の一善である、法華経を信じることにより叶うことでした。これが、日蓮聖人の唯一の願いであったのです。

このような世界観について、「日本という場を超えて、この世界すべてが理想の仏の国となり、宝の土地となる。このような壮大なユートピア論は日本仏教史に例を見ない」と評されています。(末木文美士氏『日蓮入門』八七頁)。そして、このような仏国土・浄土の捉え方は、『如説修行鈔』にのべた「現世安穏・後生善処」の具体性をあらわすものでした。法華経を信仰することにより実現される安国・浄土でした。専唱題目の最初の著述を、『立正安国論』の一ヵ月半前の、『唱法華題目抄』(日朝写本)としますと、「仏法為本」を基とした、「題目受持」における依正不二の成仏論であり、一念三千論のうえに成立する娑婆本土観といえましょう。

また、日蓮聖人は主師親の三徳をそなえた釈尊の主徳は、娑婆国土の国主であるという表現をされます。この表現はわかりやすいものでした。これを、「釈尊御領」といいます。

○「釈尊御領」

日本国は「釈尊御領」の一つであるという考えは、釈尊の「主師親の三徳」から窺えます。この釈尊三徳観は、日蓮聖人の初期からみられる教えで、日蓮聖人の教えは、この釈尊観を始点としているといえましょう。章安大師の『涅槃経疏』に示唆をうけ譬喩品の「今此三界皆是我有」の文を依拠として、娑婆世界を知行する領主としてとらえ、それは、釈尊の一念三千における「娑婆本土」となり、「今本時の娑婆世界」の教えに繋がるものです。(渡辺宝陽著『日蓮仏教論』一〇六頁)。『法門可被申様之事』に、

まして梵天帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まほり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申は、かたかたせんとするところ日蓮をいやしみてかけるか」(四四八頁)

と、日蓮聖人はこの娑婆世界は釈尊の御領であるとみて、三界のうち欲界を守護する梵天王や帝釈天王は、この釈尊の所領を預かっているとのべ、そして、その従者である四天王、さらに、転輪王などからすると、日本国の国主といっても小さな存在であるという、壮大な「釈尊御領」の国土をのべています。梵天は三界のうちの色界の第一階梯である初禅天に住むとされます。さらに下位から梵衆天(ぼんしゅてん)、梵輔天(ぼんぽてん)、大梵天に分かれ、仏法を守護する善神となっています。

仏教の世界観は『倶舎論』によれば、地下に風輪、その上に水輪、金輪がかさなり、金輪の最上面が大地の底に接する際となり、これを金輪際(こんりんざい)といいます。金輪の上に須弥山をとりまいて七つの金山(こんざん)と鉄囲山があり、その間に八つの海(大海・七香海)があります。これを九山八海といいます。そして、須弥山の四方の海の中に四つの大陸(国土)があります。南贍部(なんせんぶ)州・東勝身州・西牛貨(さいごけ)州・北倶盧(ほっくる)州の四大州をいいます。

私たちが住むのは、贍部洲(閻浮提)です。須弥山の高さは八万由旬といわれ、中腹に四大王天がおり四洲を守り、日天と月天がまわっています。その上の山頂を忉利(とうり)天といい、頂上に善見城があり帝釈天が住んでいます。「須弥」の意訳は「妙高」といいます。つまり、色界の梵天王をはじめとして、欲界の帝釈天、四天王、そして、地球上の四大陸を支配する転輪聖王(金輪王・銀輪王・銅輪王・鉄輪王)が、釈尊の統治のもとに、この世界を守護しているというものです。この仏教における世界観からすると、日本国というのは小さな存在であることがわかります。

 日蓮聖人の日本国という認識は、このような仏教の原則的な世界観が基本にあることから、日蓮聖人を日本中心主義者と決め付けるのは誤りといいます。(末木文美士氏『日蓮入門』八九頁)。日蓮聖人はこのような世界観のなかでも、日本は大乗の流布する国土であるという、強い見解をもっていました。安房の浄円房にあてた『当世念仏者無間地獄事』に、

「日本一州は印度震旦には似ず一向純円の機なり。恐らくは霊山八年の機の如し」(原漢文。三一八頁)

と、日本国は法華経流布の大事な責務を持った国である、という見解をもっていました。この大乗流布の国という観点からしますと、日本国が特別な国としてとらえられてきます。『神国王御書』に

「我が日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超えたる国ぞかし。其故は月氏の仏法は西域記等に載せられて候但だ七十余国也。其余は皆外道の国也。漢土の寺は十万八千四十所なり。我朝の山寺は十七万一千三十七所(中略)彼の月氏漢土等は仏法を用いる人は千人に一人也。此の日本国は外道一人もなし」(八八二頁)

日本は他国とくらべると大乗仏教がすでに流布し、国中が大乗を信仰している国であるという視点から、法華経を流布する国という優位性をのべていました。「神天上」という考えも、国土を守る神祇があるという視点からのべられています。『神国王御書』に、

「第一天照大神、第二八幡大菩薩、第三は三王等の三千余社。昼夜に我が国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給う。其上天照大神は内侍所と申す明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給い、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給うと申す」(八八二頁)

神々が昼夜に日本国を守っているという神祇観があります。同じく『神国王御書』に八幡大菩薩にふれて、

「八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入り給て云く開闢以来、未君為以臣我国家有也。天之日嗣必立皇緒等云々。又太神付行教云く我有百王守護誓等云々。されば神武天皇より巳来百王にいたるまではいかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず。王位を傾る者も有るべからず」(八八三頁)

ここに、八幡大菩薩を天照大神と共に日本守護の善神とされ、百王守護の誓いがあったことを述べています。『六郎恆長御消息』に、

「第二巻云。今此三界等云々。此文は日本国六十六箇国嶋二つの大地は教主釈尊の本領也。娑婆以如此全非阿弥陀領。其中衆生悉是吾子云々。日本国の四十九億四千八百二十八人の男女各有父母といえども、其詮を尋れば教主釈尊の御子也。三千余社の神祇も釈尊の御子息也。全非阿弥陀仏子也」(四四二頁)と述べたように、娑婆の本主としての「釈尊御領」観がうかがわれ、弥陀などの仏は我等の主としての資格がない他仏とのべています。日蓮聖人における国土と仏教のつながりや安房の東条の御厨を重視している根底をなすものといえましょう。「釈尊御領」という考えは釈尊が娑婆世界の主であり、それは同時に日本の主であるということであります。

ほかに「釈尊御領」については、佐渡の『一谷入道御書』に、

「此国も又々如是。娑婆世界は五百塵点劫より巳来、教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有(もの)ならず。又一切衆生は釈尊の御子也」(九九二頁)

釈尊は久遠より娑婆世界の主であり娑婆は所領といいます。そして、その中の日本国についても『彌三郎殿御返事』に、

「法華の第二の巻に今此三界とかや申す文にて候也。此文の意は、今此日本国は釈迦仏の御領なり。天照大神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国主並に万民までも釈迦仏の御所領の内なる上、此仏は我等衆生に三の故御座す大恩の仏也。一には国主也。二には師匠也。三には親父也。此三徳を備へ給う事は十方の仏の中に唯釈迦仏計り也」(一三六六頁

日本という国土も「釈尊御領」のなかに統括されていることがわかります。これらの国土観は、伊豆流罪を契機に著された『教機時国抄』に、末法に視点をあてた「教・機・時・国・序」(上行菩薩の意識)として体系化されて発表されます。また、このような「釈尊御領」は、『安国論奥書』から、後年の佐渡以降で本格的に説かれるようになったと言われます。(佐藤弘夫著『日蓮』二九〇頁)。ここには法華経流布の国土観があることを知らなければなりません。なを、『立正安国論』には教理としての言論はないということについて、日蓮聖人は公場対決を視座にいれて本書を奏進しているので、あえて、教理を示さなかったという解釈があります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一一七九頁)。たしかに、本書の前に著作された正嘉・正元のころや、『三種教相』・『一代聖教大意』・『一念三千理事』・『唱法華題目抄』には、「爾前無得道」や、日蓮聖人の独自の教学(題目)が示されていますので、『立正安国論』に主張したいことはなにか、ということが絞られているといえましょう。

なを、『正本』は一行の字数が一四文字で、行数は五六三。『広本』は字数一六文字に六一七行となっています。約二千字の字数の違いがあります。両者の内容は大差なく、『広本』は真言宗にたいしての批判が加わっています。身延にはいってから教理の文を加えられたのでしょうか。

中尾堯先生は、『日蓮宗事典』に『広本』のはじめの数紙は日蓮聖人の筆跡であるが、その後の筆跡は弟子の筆跡であるとした、「広本の真蹟は初めの数紙は御真筆であるが、その後は弟子の筆跡であると鑑定されているのであるが、御真筆に引続いて書き継がれていることといい、また中山の『日祐目録』に「安国論一帖並に再治本一帖」と既に列名されていることといい、聖人在世中の成立であると見て差支えない」とあることに関して、弘安三年ころは、日蓮聖人の執筆活動はとみに盛んであったから、途中から弟子に書写を任せることに疑問を呈しています。(「『立正安国論』に触れて」『正法』九六号)。