117.実相寺に入蔵                        高橋俊隆

・三七歳 正嘉二(一二五八)年

◆第二節 実相寺入蔵

○実相寺

 日蓮聖人は年々に災害が続き国も人々も苦しむのはなぜなのか、また、それを救済する方法を探していました。

 承久元年から『立正安国論』を書かれた、文応元年に至る四二年の災害は、天変が一八〇、地震が一〇四、大風雨が七八、洪水が一九、火災が五四、疫病が一六など、五百件におよぶものといいます。(田中智学著『大国聖日蓮上人』二三〇頁)。

名越地周辺は葬送の地であり、難民がのがれてきたところと思われ、日蓮聖人はそれらの人々に接し、幕府の救助対策の不備や、各寺院に救済力がないことを知らされました。まず、この原因を外典の文献を参考に災難の由来を考えてみました。『下山御消息』に、

「余、此等の災夭に驚きて、粗(ほぼ)内典五千外典三千等を引き見るに、先代にも希(まれ)なる天変地夭也。然而儒者の家には記せざれば知る事なし。仏法は自迷なればこころへず。此の災夭は常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず。定めて仏法より事起る歟と勘へなしぬ」(一三三一頁)

と、外典の文献に災難の故事を見出そうとしていました。

しかし、この災害の原因は政治などの世間的なことではなく、仏法にその原因があることに到ったのです。つまり、仏教の教理を正し、各宗の誤りを是正することにより必ず救われるという観点から、この災害を解決されようとしました。そして、『中興入道御書』に、

「去る正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其故をうらなひ(占考)しかども、なにのゆへ()いかなる事の出来すべしと申す事を知らざりしに、日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに」(一七一六頁)

と、のべているように、正嘉年中におきた災難興起の原因と解明を求めて、天台宗の岩本実相寺(静岡県富士市)に、一切経を閲覧すべく入蔵しました。(『本化高祖年譜』・『法華本門宗要鈔』)。入蔵の時期は、この正嘉二年一月と、翌正元元年の所伝があり、あわせて入蔵を二回されたという説があります。後述しますが、日興上人が三井園城寺から、母の逝去を聞き帰郷したのは正元元年の春のことです。

実相寺は久安元(一一四五)年に、鳥羽法皇が比叡山の横川の智印法印に建てさせた古刹で、比叡山五代座主の智証大師が唐より持参した一切経を、三井寺とこの実相寺に収蔵していました。三井寺は戦火により消失しましたが、実相寺には収蔵されており、とうじは周囲四キロの寺領があり、七堂伽藍が配備されていた寺院でした。このとうじ、大蔵経を所蔵している寺院は限られており、大蔵経を被見することは有力者を通じて行われていたといいます。(渡辺宝陽著『立正安国論ノート』一九頁)。日蓮聖人は厳誉律師の縁により入蔵したといいます。鶴岡八幡宮に入らず岩本実相寺に入蔵されたのは、鎌倉に良観などの法敵がいたためであり、周囲を気にせずに熟読するためでした。

日蓮聖人の遺文には、実相寺に入蔵した記述はないので、どの場所にいつ頃まで入蔵したかは明確ではありません。滞在中の宿泊場所や食事などの手配、写経に必要な紙・筆などの準備もあり、なによりも、念仏を批判する日蓮聖人を受け入れている実相寺のつごうにより、滞在する期間が限られたかもしれません。また、入蔵はしていないという意見があります。しかし、災害興起の原因を仏教に求めるため、再度、一切経を調べたことは、『安国論御勘由来』・『下山御消息』・『妙法比丘尼御返事』にのべられているので、大まかにでも経典を被読したことは事実です。

 実相寺の学頭をしていた智海法印は別名播磨法師と呼ばれ、比叡山の天台宗徒で横川の学友といわれています。日蓮聖人が実相寺に入蔵したおりに『摩訶止観』の教えを受け信順しています。そして、実相寺主の厳誉と法論し、文応元(一二六〇)年に全山を帰信させたといいます。弘安元年に身延山の日蓮聖人を師匠として弟子となり、日源と名をいただいています。のちの正和四(一三一五)年九月一三日に、智海法印が遷化されると実相寺の寺僧と檀越が改宗し開山としました。

また、通説に従いますと、実相寺にいたこのおりに、日興上人(一四歳)が日蓮聖人の弟子として入門しています。日興上人は甲斐(山梨県)大井庄鰍沢に生まれ、父は大井橘六で母は駿河(静岡県)河合領主の由比氏の娘といいます。幼少のころに父を亡くし、駿河の由比氏の居宅にいましたが、一三歳のときに岩本実相寺の播磨法師に入門していました。境内には日朗上人が日蓮聖人に給仕していたという「米とぎ井戸」があります。

日蓮聖人は実相寺に入蔵の直後に、『一代聖教大意』を著述し一切経を網羅したといわれています。また、このころに経論釈の要文を書き写したことが、この後に著述した『災難興起由来』の裏面に書かれた『一乗要決要文』などの断片が実相寺に所蔵されていることから推測できます。これまでに、日蓮聖人は一切経を清澄寺・鎌倉遊学・比叡山遊学のときに閲読していたので、実相寺入蔵は三災七難の原因を説いている経典の確認と確証を得るためといえます。