113.日蓮聖人の信徒、池上氏                高橋俊隆

○有力信徒

 日蓮聖人が鎌倉に入った時期は建長五年から八年の間であることは異論はありません。日蓮聖人の思想からみますと、立教開宗以前から鎌倉弘教の準備を進めていたといえます。大きな理由は国家仏教として法華経を捧持するという目的があるからです。清澄寺にいては中央との関わりが少なく、日蓮聖人が法華経の行者として活動する場も極限します。松葉ヶ谷の草庵に入居した年次にこだわらずに、鎌倉弘教を開始したのを建長五年としますと、佐渡流罪の文永八年までの間、伊豆流罪の三年をのぞくと約一五年間、布教活動をされた根拠地となります。日蓮聖人の信徒も多くは鎌倉の草庵から輩出しています。

これまでは、最初の信徒は富木常忍で建長六年といい、その翌年に四条金吾らが信徒となったといいます。前述したように、四条金吾は寛喜二(一二三〇)年生まれ、妻は寛元元(一二四三)年生まれであることが、『四条金吾殿女房御返事』「今三十三の御やく」(八五七頁)の記述よりわかります。建長のころは、下総近辺の曽谷・道野辺・大野・太田・富木氏、また、武蔵・鎌倉・伊豆・駿河を巡教して、南条七郎・四条金吾・宿屋入道・北条弥源太などを導いたとあります。(『御書略註』)。

康元元(一二五六)年のころには、進士太郎善春、工藤吉隆、名越光時(光時の子で親時という説があります。高木豊著『日蓮の生涯と思想』九四頁)の重臣である四条金吾、安房の天津の工藤左近将監吉隆、池上右衛門大夫志宗仲、同じく兵衛志宗長、荏原左衛門尉義宗、そして、熊王等が入信したといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。文応元年(一二六〇)年に曽谷二郎、秋元太郎、太田五郎、比企大学三郎能本らの有力者が信徒となっています。

今日の研究によれば、いくぶん入信の時期が早まる信徒がいます。その理由は日蓮聖人の縁戚関係や、日昭上人の周囲の人たちなどによる名越招致があったからです。これらの信徒は「立教開宗」いぜんから、交流をもっていた可能性があります。建長五年から康元元年の三年ほどで、重要な信徒が形成されたことになります。武士の信徒ができた理由は、これらの信徒たちが鎌倉大番役の義務のために参集していたためです。嘉禄元(一二二五)年に整備されていた番役の義務は、遠江以東一五ヶ国の御家人等に、各一二ヶ月西侍として幕府の警備をさせていました。

御家人達は任期の間、鎌倉に居住している折に信徒となりました。駿河の南条氏や高橋氏、武蔵の池上氏なども日蓮聖人の教えに触れて信徒になりました。南条兵衛七郎の子息、時光は身延に入った日蓮聖人を庇護した有力信徒となります。日蓮聖人の故郷である房総地方の信徒も大勢います。とくに、富木氏は建長五年一二月一九日の『富木殿御返事』(一五頁)にみられるように、日蓮聖人をささえる重要な人物であったことがうかがえます。

 日蓮聖人の教えを聞き、すぐに信徒となることは少ないと思います。伝記における信徒の入門の時期の違いは、ここにあると思います。入門の時期が前後しますが、有力な信徒を掲げてみます。

○池上宗仲

前にふれたように、池上右衛門大夫志宗仲・兵衛志宗長の兄弟の父親左衛門尉康光は、印東次郎祐昭の娘を娶っています。つまり、康光は日昭上人の義兄になり、池上兄弟は甥になります。この関係から、池上宗仲が日蓮聖人に帰信した年次は、通説よりも早いと思われます。伝承では池上宗仲は建長寺の大覚禅師について参禅していたといわれ、建長六(一二五四)年に松葉ヶ谷にて「禅天魔」と禅宗や、他宗を非難する狂僧がいると聞いたとあります。

また、康元(一二五六〜七年)の頃、兄弟が鎌倉に来たときに、四条金吾・荏原義宗・進士善春などの諸氏と前後して帰信したといいます。ところが、父親は極楽寺良観の熱心な信者であったため、兄弟の法華信仰に反対します。この対立は長くつづき、文永一二(一二七五)年の春に、兄弟を威圧して法華信仰を捨てない宗仲を勘当します。宗仲は二度も勘当されますが信仰を捨てることなく、ついに、父親も日蓮聖人に帰信し法華経の信仰をします。(『兄弟鈔』九二九頁。『兵衛志殿御返事』一四〇五頁。『兵衛志殿御返事』一五〇五頁)。

 池上氏の出身は不明なところが多く、千束池は本門寺の近くにある大きな池で、この上にある村ということから池上といわれます。宗仲が池上郷の地頭であることから、『吾妻鏡』にある池上氏の地頭御家人とされています。

職業についても二説あります。

一に、建長年間に宗尊親皇にしたがって京都からきた者で、池上とは元の氏ではなく工匠に長けていた

二に、世世が工匠の技術を伝え、鎌倉将軍に仕え池上に住んで工匠を取り締まっていた

という説があります。

同時代に同名の人がいるので大工とされますが、明確な史料がないので首肯できないといいます。(『日蓮辞典』八頁)。これは、池上兄弟が右衛門・左衛門という位をもち、とくに、「大夫」というのは五位の官位をいうので、鎌倉普代の工匠とするには、位が高すぎるとします。兄の宗仲は大夫志、弟の宗長は兵衛志です。『御書略註』にも池上氏は「四部の官人」とあるように、非常に身分の高いことを強調しています。そして、兵衛志は御馬を管轄していたといいます。その理由で妙一尼が身延山に行くときに、秘蔵の名馬を用意できたとあります。『兵衛志殿女房御書』には、兵衛志宗長の妻が馬を手配したことを称歎してこの書を送っています。

「此度此尼御前大事の御馬にのせさせ給て候由承候。法にすぎて候御志かな。これは殿はさる事にて、女房のはからひか」(一二九三頁)

また、池上家所伝によると、宗仲は幕府の作事奉行を勤めていたといいます。『八幡宮造営事』はそれを証明しているといいます。(『日蓮宗事典』)。池上家の由緒には、池上氏は摂政藤原忠平にあり、忠平の三男である忠方は京都に生まれ、天慶三(九四〇)年、東国では「平将門の乱」、西国では「藤原純友の乱」がおきており、このとき武蔵千束池の上(ほとり)に下向して池上氏を名のり、住んだところの地名を池上としたとあります。そして、一〇世が池上宗仲といいます。

 (摂政)  (池上に下向)       (九世)       日女御前(平賀氏・松野氏)

  藤原忠平・・・池上忠方・・・・・・・・・康光         |

                       |――――――――宗仲(一〇世)

                 印東祐昭――娘       ―宗長

 宗仲ははじめ康仲といい、殿舎の造営・修理や土木などの工事をつかさどる作事奉行をしていたとあります。宗尊親王の頃に関東の工匠が上命に従わなかったのを、宗仲が統率した功績により親王の一字を賜り宗仲と名のったといいます。この宗尊親王は日昭上人が猶子に入った、近衛兼経の娘、宰子の子供になります。日昭上人には義理の妹になります。また、日昭上人と池上兄弟は従兄弟になります。